第4話 猫が笑う
「ねぇ、聞いた? この公園で野良猫が首を切られて死んでたって」
「えっ、また? これで三回目じゃない?」
子どもが遊具で遊ぶ傍で、主婦たちが噂話をしていた。
「それがね、公園前の車道に頭が転がってたんだって。車に轢かれてぐしゃぐしゃだったって」
「ひどいことするわね。怖いわ」
「いやよねぇ」
その後方にあるベンチでは、文庫を読んでいた男が、ちらりと主婦たちに目を走らせた。
あんたたちは間違っている。三回目じゃない、四回目だ。そう言いたいのをこらえ、彼は唇の端をつり上げた。
夕焼けに輝く噴水の向こうでは、外国人の若い女がバイオリンを弾いていた。初めて見る顔だが、腕はいい。開けっ放しになったバイオリンケースに、小銭を入れていく人も少なくなかった。さっきから繰り返し弾いているのは『星に願いを』だ。
男は文庫を膝の上に置き、空を見上げた。一番星を見つけ、思わず目を細める。
もし星に願い事をするなら、何にするだろう。
独りにさせてくれ。真っ先に男はそう思った。誰もいない、声も聞こえない、静まり返った暗いところで、誰にも怒鳴られず、誰にも笑われず、ひっそりと星のように漂っていたい。
親の期待に応えようとノイローゼになるほど勉強し、やっと医大に合格した。けれど半年もすると、講義についていけなくなった。不細工な顔と太った体とひねくれた性格と三拍子揃った結果、友達もいない。知らない人にまで「キモい」と馬鹿にされ、勝手に変なあだ名をつけられて笑われる。何もかもうまくいかない。そんな日々から逃れたかった。
ふと、少し離れた場所に野良猫が座って自分をまっすぐ見ているのに気づいた。
ちょっと待ってろ。餌ならバッグに入ってるから。そう思ったのが通じたのか、猫は茂みの中に消えていく。
野良猫に餌をやると何かと煩いご時世だ。この主婦たちがいなくなったら、やろう。男はそう考え、腕を組んで居眠りを始めた。バイオリンの音色は子守唄にぴったりだった。
目がさめると、辺りはすっかり暗くなっていた。人の気配もない。
バッグから猫缶を取り出し、パカッという音をたてて開けると、どこからともなくさっきの野良猫がやってきた。
「ほらよ」
餌に食いつく猫の頭を見ながら、男はにたりと笑った。そして、その手が次にバッグの中から取り出したのは、大型のサバイバルナイフだった。
そのとき、足音がして、男は思わずビクリと体を震わせた。見ると、さっきバイオリンを弾いていた女がいつの間にか近づいていて、こちらを凝視している。青白い肌に黒髪、そして榛色の瞳で、恐ろしいほど無表情だった。
「なんだよ、お前」
慌ててナイフをバッグに隠す。女はバイオリンと弓を手にしたまま突っ立っていた。
「猫に餌をやるのがそんなに悪いのかよ。文句あるなら、なんか言えよ」
男がそう怒鳴ったときだ。猫の鳴き声がした。足元を見たが、餌を食べていた野良猫はいなくなっている。聞き間違いかと顔を上げ、男が息を呑んだ。
女の足元に首のない猫が座っている。
「な、なんだ、あれは」
猫の毛色に見覚えがあった。初めて首を切った猫のものだった。
また猫の声がした。今度は右手の茂みの中から別の首のない猫が歩いてくる。次に鳴いたのは、左手からやってきた首のない別の猫だった。
脂汗が男の額に浮かんだ。そして四度目の鳴き声は、背後からした。
「ひっ!」
振り返った男が、思わずへたり込む。背後に座っていたのは、つい二日前に首を切った猫だったのだ。
「な、な、なんだ、これは」
歯の根があわない男の声に応えたのは、足元に四匹の首なし猫を従えたバイオリン弾きの女だった。
「星に願い事をしたからよ」
流暢な日本語だった。
「その最後の子があなたに復讐してと一番星に願ったからね、私がきたの」
「お、お前は?」
「メディア・クレイル」
榛色の目を細め、女が笑った。
「私の名前なんて聞いても、あんたには意味がないよ」
月の光を宿して妖しく輝くバイオリンを構え、メディアが弓を滑らせた。
だが、男には彼女が何を奏でたのか聴くことができなかった。
「うわぁ!」
ものすごいスピードで体が上空に飛び上がり、あっという間に雲を突き抜けた。そして気がつけば、宇宙の闇を矢のように猛スピードで貫いていく。
驚愕と混乱のあまり、言葉が出ない。不思議なことに息もできるし、声も出る。だが、体は勝手に地球から遠ざかっていくばかりだ。彼は力の限り、宇宙の星々に願った。
「助けてくれ!」
メディアはその声を聞き、バイオリンを弾きながらベンチを見つめた。そこには目を見開いたまま、「やめてくれ」と呻き続ける男が座っていた。
「なんだい、さっき自分で願ったんじゃないか。だから意識だけでも独りになれるところに飛ばしてやったのに」
すると、足元の首なし猫が抗議の鳴き声を上げた。
「私だって人間は嫌いだけどね、音楽を生み出したという点では、敬意を表しているんだ。だからどんな奴でも星に願いをかけたら叶える主義なんだよ」
そう言って、左手でビブラートをかける。
「助けてくれだって! 猫は簡単に殺すくせにさ」
メディアは、白い歯を見せて笑った。唇の端に牙が見える。
「いいさ、助けてやるよ。私は優しいからね。殺しはしない。体が朽ちるまで、意識は孤独にさまようといい。すぐに、そんな願い事をしなけりゃよかったって思うだろうけど」
そこで高らかに最後の一音を奏でると、彼女は年代物のバイオリンを下ろして、首なし猫に言った。
「これは私のお祖母様が作った名器でね。彼女と同じ『ステラ』という名前なんだ。綺麗だろう? 私は星にかけた願いを叶え、その代償にまだ知らない『想い』を見せてもらう。バイオリンに教えこむためにね」
首なし猫の尻尾が揺れた。
「そう、いろんな想いを知れば、この『ステラ』の音色はいろんな表現を出せる。人間が生み出した音楽を完成させるのは、人間の想いだ。私たちケット・シー一族では、表現しきれない。人間のありとあらゆる想いを知らなければ、このバイオリンも私の音楽も完成しないんだ」
そのとき、バイオリンが小刻みに震えだした。まるで歓喜に沸くようでもあり、恐怖に怯えるようにも見える。
「おや、あの男は『ステラ』にまだ知らなかった想いを教えてくれたようだよ。どんなものか、早速聴いてみようよ」
メディアがふっと息を吸い、バイオリンをかき鳴らした。
その瞬間、ベンチに座っていた男はがくりとうな垂れた。呻き声は止まったが、よだれがだらしなく垂れ、瞳孔は夜の猫のようにひらいていた。
「なんだか『綺麗』と『汚い』を併せ持つ音だね。人間って不思議な生き物だよね」
メディアが歌うように言い、バイオリンをケースに入れて蓋を閉じた。
「さて、私はお祖母様のところへ行って、新しい音色を聴かせてくるよ。いつもは世界中に買付に行ってるけど、今は骨董店に戻ってるらしいから。お前も来るかい?」
首なし猫が尻尾をゆらりと揺らす。
「なに、疲れたって? そうか、それなら土に還りなさい。今度は幸せな願い事ができるといいね」
メディアは首なし猫の一匹が笑った声を聞いた。それは首を切られながら一番星に復讐を願った猫のものだった。