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次の日。普段通り学院へ行った私は、あっという間に皆に囲まれる有名人となっていた。
元から有名人ではあったかもしれないけれど、明らかに生徒たちの向ける感情が違うものになっていた。
「すごかったね…!シャノンさん!」
「あんな魔法初めて見ちゃった!!やっぱり王宮で働くお父様の血筋かしら!」
「あんなに強大な力が出せるなんて、とんでもない奴だな!」
昨日はバタバタとしていて、教師陣の包囲網もあったために何も声をかけられることはなかった。それが一夜明けて色々な人から称賛の言葉が降ってくる。あまりに初めての体験だったものだから、体がむず痒くて仕方ない。ただ、嬉しいことに間違いはなくて。「調子に乗るな」と誰かに逆恨みでもされたらどうしよう、などと妄想し、必死に緩む顔を律するくらいには浮き足立っていた。
「それに、昨日のあのイケメンは誰?!」
「見たことないわ…!赤いラインが入っていたから四年生でしょう?!」
「ねえ、シャノンさん、あの人は貴女のソラなの?!うらやましい!」
「あの人もすごい力だった…!あんな創生魔法を秒速で成し遂げるなんて!」
そして、私以上にレイヴンの存在は学院中の噂になっていた。
私に対しての賛辞の言葉はそこそこに、レイヴンに関して教えて欲しいという女生徒ばかりが無尽蔵に今朝から私を取り巻いている。男子生徒も彼の創生魔法について口々に議論し、彼の力、彼の容姿、果ては彼の出自に至るまで、学院中が知り尽くしたいと躍起になっているようにも見えた。
私はレイヴンに関することに、自分のソラであるという以外何も答えなかった。
否、答えられなかったのだ。
この時ようやく、私は彼について何も知らないのだと悟った。知って、愕然とした。数ヶ月の時を共に過ごしていながら、私はソラとして彼の功績を讃えられるほど彼の情報を持っていなかった。ソラであることに胡座をかいていたのは、リタだけでは無くて私も同じだ。
取り巻きの生徒たちに質問を投げかけられながら、私の心は既に此処に無かった。一刻も早くレイヴンに会わなければならない。そんな底知れない不安が、一挙に押し寄せてきた。昨日、いつの間にか忽然と姿を消してしまった彼は、あれから姿を見せていない。
「私、ちょっと行くところあるから…っ」
そう言って、その場を急いで立ち去る。さっきまでの空を飛ぶように浮遊する心はどこに行ったのだろう。不安が地の中へ自分の心を引き摺り込んでしまわないようにと、私の足は縺れながら温室へと駆け出していた。
▲▽▲
温室へ辿り着くと、いつも張られていた結界が消えていた。妙にざわつく心を一刻も早く鎮めたくて一息に温室の扉を開ける。中はいつもと同じように朝だった。今が朝だから当たり前か、と思い直す。温室の中央、いつもレイヴンが座っているガーデニングテーブルとチェア。
そこには、いつもと変わらずレイヴンがいた。
長い長い、息が吐き出されてようやく自分がとんでもなく焦っていたのだと気がついた。
「あれ、どうしたの、シャノン。朝早いね」
「どうした…って、レイヴンが昨日、あれから急にどこか行っちゃうから……」
はあ、と息が切れる。レイヴンはそんな私を見て、常の通りくすりと優しく微かに笑う。両膝に手をついて息を整えていた私の側まで来ると、コバルトブルーのハンカチを差し出してくれる。”シュトラファウスト”と彼のファミリーネームが刺繍された、美しいハンカチだった。
それがあまりに美しいので受け取るのを躊躇していると、見かねたレイヴンが額の汗を拭ってくれた。間近に迫った顔に心臓が音を立てる。そして汗を拭い終えたハンカチは、仕舞われることなく何故か私の掌に収まった。
「シャノン。僕は明日、王宮へ召される。もう二度と外へ出ることはない」
レイヴンの表情は一つも変わらない。いつもの、いつもの優しい笑顔のままだ。
だからその言葉を咀嚼しきることは到底できなかった。開いた口の奥から絞り出すように、「…どういうこと…?」と発するまで随分時間がかかったと思う。
「僕の存在が大衆に知られた。本来あってはならないことだったんだ」
「本来、あってはならないこと…?レイヴンのこと、知られちゃいけなかったってこと…?」
私の問いにレイヴンが目を伏せて静かに頷いた。頭が痛い。
「僕は、僕の家は他者の魔力を増幅させる力を持っている。シャノンの無効化と同じだ」
記憶が蘇る。レイヴンの手に触れた数回、あの火照るような感覚。あれは彼が力を使っていたということか。確かに解術魔法を使う直前も体が燃えるように熱くなって、多幸感と万能感に満たされた。
それに、レイヴンが私の体質に関してあまり疑問を持ったりしなかったこと、指導がとても分かりやすかったことも、彼自身がそういう体質を持っていたと考えれば全て合点がいった。「黙っててごめんね」とレイヴンは眉を下げた。
「実は現国王ーーいや、その何代も前から、この国の王は魔力がほとんどない」
「っ、嘘でしょ…?だって王の力は強大で、あんな強い結界だって一人で国全土に…」
「それを実現するために、僕のシュトラファウスト家は代々王に仕え、王の側で結界に足りない魔力を補う役目を遣わされているんだ」
「僕が死ぬか、国が滅びるまで」
言葉がつっかえたように出てこなかった。
「そんな、」
「それが僕の役目なんだ」
役目。その言葉だけが脳内をぐるぐると回るような感覚がする。ずっと王宮の中で、国のために力を使い続けること。もう二度と外へ出ることはないと言った彼の役目は余りに大きく重く、私などでは想像することすらできない。彼はまだ、学生なのに?
みるみる自分の瞳に膜が張って、今にも零れ落ちそうになる。けれど、目の前の彼から目を離せなかった。レイヴンは琥珀色の目を細めて、私の頭を優しく撫でた。
「この学院生活は魔法の勉強のためもあるけれど、僕にとって最後の自由だったんだ。ただ、僕のような稀有な存在は良くない輩や魔獣なんかからも狙われやすいから、ずっとここに隔離されていたけれどね」
「本当はいつだって出られたんだけど」とレイヴンは少し悲しそうに笑う。彼の笑顔はいつだって優しいけれど、どこか達観していて踏み込めなかった。踏み込ませんとする笑みを良く浮かべていた。それも全て、国のためか。
「僕の存在が知られると王の威信にも関わる。だから、他の生徒達に見つからないようにっていうのが条件だったんだ」
「それで、ここから、出られないってずっと…」
私の目から、とうとう水膜が決壊する。涙が止まらなかった。ぼたぼたと落ちて床を濡らすほどに。この話が始まってから次第に溜まっていた熱のようなものが、目から溢れ出すみたいだった。その熱は自分に対する恨みであり、憎しみだと今実感した。私は、自分が憎くて恨めしくて堪らない。
「ごめ、っごめんなさい、ごめんなさい!私の力が足りないから、私が頼ってしまったから…!!」
「ううん。出ていったのは僕の意思だよ、シャノンが何も気にする必要はない」
レイヴンはどこまでも優しい。決して私を責めることはない。けれど、私が彼に頼らなければ。彼に頼らずともどうにかなる力があれば。ーーそもそも、私が彼に出会うことがなければ。
そんな考えばかりが浮かんできては、涙になって溢れた。余りに気がつくのが遅過ぎたのだ。自分のエゴばかりで彼を巻き込んだ。ソラが欲しい私の願いを彼は叶えてくれたのに、私は何もすることができなかった。
何も知らない、ただの大馬鹿者だったのだ。
「シャノン」
レイヴンが名前を呼ぶ。いつも私を安心させてくれた、真綿のような美しい響き。声につられて顔を上げた。涙でどうしようもなくなった私の目に、彼はそっと親指を這わせた。
「いつか必ず僕は王宮に行くことになっていた。誰にも知られず、見つからず、存在しないままここを卒業するつもりだったんだ」
「でも、君が僕を見つけてくれた」
「僕のことを運命のソラだって言ってくれた。今まで、一人ぼっちだった僕にとって本当に嬉しかったんだ」
彼の言葉にまた涙が溢れた。
レイヴンに出会った日のことは今でも鮮明に思い出す。温室の中の朝の光。その中心で残月のように薄く輝く、美しい月のようだと思った。でもその月から、確かに紅く眩い光が私を指していて、ああ、この人が私のソラなのだと。叫び出したくなるほど嬉しかったあの夕方のことを。
泣き声は嗚咽に変わり、言葉にしたいのに何も声になって出てくれない。拭っても拭っても涙が収まってくれない。しゃっくりを上げて揺れる私の背中を、レイヴンが前からそっと抱きしめた。
「王宮の中では皆、僕の家のことを”国の生贄”だって言うけれど、そうは思わないよ。ーーシャノンのおかげで」
「でも私っ、貴方に何も、できてない……っ!」
「僕の力は国を守る国王様の力になる。それはこの国の民を守ることと同じだ。そして、それは君を守ることと同じだ」
涙で制服が汚れるのも構わずに、抱きしめられる力が強くなる。彼の胸元に耳が押し当てられる。思っていたよりもたくましい胸からは、少し早い鼓動の音が聞こえた。
「シャノンの力は必ずこれからも誰かを助ける。離れていてもずっと、君の幸せを想っているよ」
抱きしめられる両腕に苦しくなるほど力が込められて、少し息を吐いたレイヴンは、私の肩を掴んで自ら体を離した。吐いた息は僅かに震えていた。そうして彼は再び私と顔を合わせて、笑顔を作った。
胸の前で組んだ自分の両手が、凍えるみたいに震えが止まらなかった。
「何で、そんな永遠の別れみたいに言うの…?」
私の言葉に、レイヴンは笑みの形を崩さない。「今日はもうお帰り」と静かに呟いて、片手を私と距離を取るように前に突き出した。右から左へ。ゆっくりと手を動かした側から、レイヴンの体が消えていく。魔法だ。このまま姿を消すつもりなのだと分かった。
「待って、レイ!!レイ…っ!!」
咄嗟に手を伸ばしたが、私の手は虚空を掴んだだけだった。目の前にいたはずのレイヴンは影もなく消えた。
ただ呆然と立ち尽くす私を、変わらない本物の朝の光が温室の天井から照らしていた。