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教室を出た私は、温室には行かずにずっとリタのことを探していた。アレンのことを一刻も早く伝えなくてはならない気がして止まない。明らかに何かを抱え込んでいる様子だった。それに嫌な胸騒ぎがする。教師にも伝えるべきかと悩んだが、担任制ではないので誰に伝えるべきか思い倦ねた。それならば一度リタに話した方がいい。
リタは生物部に所属しているので、放課後は離れの研究所にいるのが常だ。しかし当の研究所にはまだ来ていないと言われた。連絡手段は皆自分の使い魔を使うが、生憎私にはその使い魔さえいないので自分の足で探すしかない。生物部の生徒たちにも連絡を取ってもらうようお願いして、研究所を後にした。
離れから反対側の温室まで走る。レイヴンならリタを見つける手段を思いつくかもしれない。走っているからか急いているからかいつもより息が上がる。
聖堂の裏、雑草が生い茂る木々の奥。温室のガラスが見えてきた時、緑に一房の鮮やかな紅い髪が揺れた。あれはリタだ。
「リタ…、!」
リタの後ろ姿が確認できたところで声をかけようとしたが、咄嗟に口を噤んだ。温室の周りに張られている結界の前に人影がある。リタだけではなかった。リタの背に隠れて見えなかったが、リタと少し距離を置いて向かい合うよう形でアレンもそこにいた。思わず木の影に隠れる。
「アレン、もうあいつらと一緒にいるのはやめて!」
「どうしてリタさんが僕の交友関係にまで口を出すの?ソラだから?関係ないでしょ?」
「アレンのことが心配だからよ!!」
あいつら?誰のことだ。リタのよく通る声が温室周りの結界に反響する。レイヴンは中にいるだろうが、結界のせいで姿は見えない。一体、これは、どういう状況なのだ。
「リタさん、もういいよ。放っといてよ。僕は貴方がいなくたってどうにだってなる」
アレンのローブが足元から巻き起こる風に舞い上がって大きくはためく。魔法だ。魔法を使おうとしている。アレンの足元には見たこともない複雑な文様の魔法陣が浮かび上がる。金色の魔法陣しか私は見たことがなかったが、今のアレンの足元には闇が噴き出ていた。
黒色の魔法陣。闇属性の禁忌の魔法をアレンは使おうとしている。
「ほら見て!彼らがね、この魔法を教えてくれたんだ!!召喚術と呪術を組み合わせた僕だけの魔法だ!!!」
「やめてアレン!!!!」
リタが叫ぶ。私は木の影から飛び出していた。
アレンは突然現れた私に目を向けて驚いたように目を丸くしたが、手を止めたのは一瞬だった。どころか口角を痙攣らせるように笑って、そのまま両手を大きく天に掲げた。足元から噴き上がった闇があっという間にアレンを覆い隠した。
止めなければ。止めなければ、アレンは戻ってこられない気がした。
「アレン!!!!」
「コンヴォカ(召喚)!!!」
手を伸ばしてアレンを掴むまであと少しというところで、アレンに凝縮した闇が弾けた。同時にとてつもない風圧が体にかかって、背後の木々に背中から打ちつけられる。背骨が肺に刺さるような痛みが走った。私はそのまま木の前に倒れ込んだ。
煙る砂埃が晴れた視界の先には、一匹の獣がいた。
近づいただけで飲み込まれてしまいそうな程の深い闇を纏った、大きな虎に見えた。身体からは巨大な闇が揺らめいている。アレンの姿がない。あの虎が召喚獣だとすれば、あの闇の中に取り込まれてしまったということか。
「アレン!!!止まって、アレン!」
「危ないリタ!!!」
リタが虎に向かって駆け出す。丸腰のリタでは闇に飲み込まれてしまう。今すぐリタを止めたかったが、痛む背中と肺が思うように体を動かしてくれない。虎は既に臨戦態勢で、大きな口を開けてリタが間合いに入ってくるのを構えている。
『ガルルルァァアア!!!!』
虎は毛に見立てた闇を逆立てながら、空気を震わせ地を割る程の咆哮をあげた。耳がビリビリと奥から痺れた。リタに虎が飛びかかる。虎が放出する闇が、リタを取り込まんと群がる大蛇のように先を彼女に向けて伸ばす。
リタを助けなければ。
だが、倒れ込んだまま私は地面の土を握ることしかできない。リタに飛びかかった虎が彼女の眼前にまで迫っていた。
バン!!!!
大きな破裂音に似た音がした。弾かれたように虎の全身が仰反る。虎は苦しげな鳴き声をあげながら、そのまま空中を跳ねるようにして一瞬でその場から立ち去ってしまった。
リタと虎がいた場所の境目には、六角形のガラスが組み合わさったような壁が形成されている。虎はこの壁にぶつかったらしい。
そして、虎がいた側の後ろには、腕と掌を前に差し出したレイヴンがいた。
「危なかった。大丈夫?」
「レイ?!」
結界の張られた温室の中にいたはずのレイヴンがそこに立っていた。思わず驚きに声が出る。リタは突然現れた壁と男子生徒に何が何やら分かっていない様子で口を開けていた。レイヴンは後ろに尻餅をついたリタに手を差し伸べ、ゆっくりと立たせた。
そして私の側に来ると、その形のいい眉をこれでもかというほど下げて「ごめんね」と呟いた。何故レイヴンがそんな悲しそうな顔をするんだろう。
「すぐ側にいたのに気がついてあげられなくて。さっきの獣の声で驚いた」
「レイ、出てきて、」
「いいの」と続けようとしたところを微笑んだレイヴンの目で制される。レイヴンのことはリタにも詳しく話していないままだ。そして彼自身、それを望まないだろう。
私が口を噤むと、うつ伏せのままだった私にレイヴンが手を貸してくれる。汚れた制服の土を払われて、私は彼の腕に助けられる形でようやく立ち上がった。リタがこちらに駆け寄ってくる。
「シャノン…!ごめんっ、大丈夫?!」
「うん、平気。それよりアレンはどうしてあんな…、明らかに様子が変だよ」
「…アレンは、少し前から良くない奴らとつるんでて…。今日話があるって呼び出されたの。まさかこんなことになるなんて思わなかった…」
私も、今日アレンに会って話したことも説明する。リタは私の話を聞いて口惜しげに下唇を噛んで俯いた。私といる時のリタはいつも自信満々で、強くて、正しい。なのに、そんなリタが今は全身から後悔が溢れ出ている。こんなリタを見たのは初めてだった。
「気がついてたけど止められなかった。ソラなのに。アレンが私といるより彼らといることを望んでいるならって、何も言えなかった。自信がなかったの。でも私がアレンを止めてれば…!」
「リタ、落ち着いて。大丈夫だから。リタのせいじゃないよ」
拳を握ったリタの手を両手で包み込む。ギチギチと音の鳴りそうなほど握り締められた手が痛々しい。顔を上げたリタの目には、あの底知れぬ黒を纏った獣が映っているように見えた。彼女の鮮やかな紅い瞳が怒りに暗く静かに燃えていた。
「あの獣は何なんだ?」私の後ろからレイヴンが静かに口を開いた。
「…あの獣は闇属性の召喚獣で、召喚者の命を培養にして大きな力を得る魔獣の一つ。普通、召喚術専攻でも生物部でも召喚するのは禁止になってるの…!なのに、ただでさえ専門が違うアレンが呪術魔法と一緒に使ったら暴走するわ!!」
呪術魔法は本来、対人に関して使う魔法が大部分を占めている。捕縛や、精神干渉などだ。だがそれを召喚獣に使うというのは聞いたこともなかった。召喚獣は基本、召喚師と呼ばれる召喚術専門の魔法師が召喚から関係を築くまでを行い、安全に扱われる種族だからだ。闇属性の召喚獣を生半可な呪術魔法で無理に操ろうとしても先は見えている。
リタと目が合う。今にも崩れてしまいそうな顔をしていた。思わず彼女を抱きしめると、弱々しい力で抱き返される。鋭利で華奢な肩が小刻みに震えていた。
「どうしようシャノン…!アレンが、アレンが死んじゃう…!」
あの闇の獣を思い出す。アレンを取り込んだ、三メートルはあろうかという巨体。目の前にすると心臓が急速に冷えた。あれは恐怖だ。
けれど、ぎゅっと強く目を瞑って涙を溢さないよう耐えている親友を見れば、やることなどとうに決まっていた。
背後のレイヴンを振り返る。美しい琥珀色が力強く私を捉えていた。
「ーーレイ、箒貸して」
私の言葉にリタが血相を変えた。左右の二の腕を強い力で掴まれる。
「っちょ、シャノン?!あんた飛べるようになったの?!何する気?!」
「私が魔獣の力を無効化にできるかもしれない」
「無茶よ!!無効化になる保証なんてないし、シャノンまで取り込まれる!」
「大丈夫!飛行鉄道を落としかけた女だよ?絶対大丈夫だって」
そう言ってリタにへらり、と笑いかけたが、彼女は一切信用していないようだった。
私自身、確信があるわけではない。自信もない。
ただ、幼い頃の力で召喚獣の使い魔だった幼馴染みのフクロウを、ただのフクロウに変えてしまったことを思い出せば可能性が無いわけではないと思った。確実に自分の無効化の力はあれから強くなっている。それに、呪術魔法で捕縛するだけではアレンは助け出せない。命を吸い取る獣だ。一刻も早く、虎からアレンを切り離さなくてはならなかった。
大丈夫とは言っても、これまでの私の前科を知っているリタだ。信じられるわけがないだろう。リタにどう納得してもらおうーーと考えたところで、不意に第三者の手が私の両肩に触れた。レイヴンだ。
「僕もシャノンと一緒に行こう」
彼の言葉に私もリタも目を丸くする。レイヴンはこのままでは私から決して掴んで離そうとしなかっただろうリタの手を、やんわりと解すようにして離した。レイヴンの柔和な雰囲気にリタもどこか気圧され、大人しくなる。私が見上げた目線の先に、レイヴンの美しい髪が揺れる横顔があった。手を置かれた両肩が、じんわりと火照るような熱を持つ。
あの、夜空を飛んだ日の掌と同じ温もりだった。
「このままだと他の生徒にも被害が出るかもしれない。早く彼を捕まえないと」
「でも、レイ、」
「大丈夫だよ、僕は。君の友達のソラなんだろう?」
私が言いたいことを悟ったのか、レイヴンは笑みを浮かべて頷いた。それ以上話さなくてもいいと言外に言われたようだった。私は口を噤むしかない。
リタはレイヴンが私のソラだと察したのか、整った眉をきゅっと中心に寄せて正面からレイヴンを見据えた。美人なリタがこの表情をすると威圧感に凄まれる。レイヴンは少し身を固くしていた。
「お願いします。アレンを助けてください。それとーー絶対にシャノンを守って」
「っリタ……」
リタの真っ直ぐな言葉に胸がじんと熱くなる。リタはそのままレイヴンを睨み殺す勢いで見つめた後、深々と頭を下げた。レイヴンも大きく息を吐いて彼女の言葉に大きく頷いて見せた。
「約束するよ」