5.不穏な出会い
また短め
温い海風に吹かれると、まるで真綿が纏わりつくようだった。入り口を封鎖するロープが揺れて、「立入禁止」の下げ札が、カタカタ寂しげに鳴いている。
教室棟の非常階段には、由の姿しかない。職業柄か、克は隠れ場所を幾つも心得ているようで、探す方は一苦労だ。
今日はここじゃなかったな……と由が落胆したところで、不意に、綺麗な声が飛んできた。
「そこは立ち入り禁止です」
静かで淀みない冷気が、つかのま夏を裂くようだった。暑い湿気によるものではなく、その寒さが喉奥を刺してしまう気がして、由は堪らず息を飲む。
それが当然の佇まいなのだろう。凪いだ眼差しで由を射抜きながら、少女は精巧な彫像のように、ただ粛然と立っていた。
「――あ、はい。すみません」
応答が遅れたのは見惚れていたせいだ。今まで彼女を知らずにいたのを惜しんでしまうほどに、あまりに類稀な美貌だった。
由は慌てて階段を駆け下りて、少女の隣に並び立つ。由より少しだけ背が高い。胸元に刺繍された校章は青色、三年生のものだ。
「こんなところで何を?」
少女の物腰はあくまで丁寧なまま。だがだからこそ言い逃れを許さない。
「えっと……友達を探してて」
とはいえ、由と克の関係性を、一言で説明するのは難しい。結局、嘘ではないが本質でもない、そんなありきたりな表現で誤魔化した。
「……非常階段で、ですか?」
ところがこれは逆効果だったようで、少女は微かに眉を寄せる。咄嗟に、由は愛想笑いを浮かべていた。
「やー、困った人なんです。ちょっとシャイなとこがあるってゆーか」
嘘に嘘を重ねるのは上手くない。言ったそばから後悔して、交錯した視線に、そんな本心すら見透かされているような心地がする。不意な衝動が足を動かして、由はつい後ずさった。
「すみません、急いでるので。次から気をつけます」
不躾な行為を言い訳するように言って、踵を返す。何をそんなに焦ることがあるだろう。罪悪感こそ間違っていないが、逃げ出したいとさえ思うのはなんだかおかしい。
頭では理解していても、体はまるで別物みたいに動いていた。その感覚には嫌な覚えがある。ならこの焦燥は、きっとどうしたって足を止めない。
だからいつぞやのように、由を引き留めたのは少女の声だった。
「神薙由さん」
それでも名前を呼ばれるのは、あまりいい気持ちがしなかった。教えた覚えがなければ尚のこと。
しかし、少女は構わずに続ける。
「単刀直入にお聞きします。校舎の三階に出没するという怪物について、貴方は、何かご存知ではありませんか?」
怪物、という言葉の剣呑な響きと、少女の持つ儚さはどこかアンバランスだった。まさにその乖離に覚えがある。夕日を背に立つ子どもの顔を、由は思い出していた。
「……知っていたら、どうしますか」
自然と試すような物言いになった。一つ、小さな懸念が芽生えたからだ。突飛な妄想に過ぎない、そう理解していても、振り返った由は一層に確信を深めてしまう。
少女の浮世離れした美貌、そこから伸びるまっさらな視線は、かぶきり小僧のそれに瓜二つだった。
由の確認に、少女は暫し思案して、
「……そうですね。事と次第にもよりますが――」
静かな声音が、けれど確かな言葉を紡ぐ。
「―――貴方を、殺そうと思います」
なんて、にこりともせず言ってのけた。
その言葉には、なんの遊びも衒いもない。ただ事実だけを突きつける誠実さに、由は否が応なく理解した。無造作に転がる自分の首を幻視するほど、少女の意志は真実味に溢れていたのだ。
凍りついた思考に、手足の感覚が消失する。あるいはもう首を刎ねられたかと疑ったが、幸い由は生きていた。ただ極度の緊張に体が言うことを聞かない。
そんな金縛りを解いたのは、不意に降って湧いた声だった。
「なにしてんのお前」
呑気な物言いに、二人揃って頭上を仰ぐ。非常階段の踊り場、その縁から、見知った顔が覗いていた。
「眞苅くん……?」
「……克」
由と少女の声が重なった。二人に名前を呼ばれた少年、眞苅克は、驚きに目を見張る。
「……神薙?」
どうやら克は最初から、あの少女に声をかけたようだった。
次回は長め