4.止まない動悸
短め
四限の終鈴が鳴るや否や、クラスメイトはめいめいに席を立った。昼休みは騒然と波濤のように押し寄せ、弛緩した空気が瞬く間に教室を満たす。
購買へと駆け出していく男子たちを尻目に、由はのんびりと教科書を仕舞っていた。あくまでも優雅に、二人の友人と食卓を囲むのが由の昼食だ。
筆箱に消しゴムを放り込んだところで、ふと、片づけの手が止まる。由が何気なく視線を送った先、開け放たれた教室の扉からは、ちょうど見覚えのある背中が出ていくところだった。
克は今日も由から隠れ、ひとりぼっちの昼食を過ごすのだろう。そう思うと、とりとめのない感傷が瞬いては消えた。
この胸のあたりに、小さな棘でも引っかかってるみたいだ。
「ゆいっちー? どったのー」
不意に動きを止めた友人を不思議に思い、楓が首を傾げている。夢中だった由はようやく我に返り、慌てて笑みを取り繕った。
「ごめん聞いてなかった。なんの話だっけ」
「三階のおばけ、だよ。放課後になると出るんだってー」
上手く誤魔化せたと安堵したのも束の間。姫菜子の何気ない言葉に、由は鼓動が早まるのを感じる。
学校の廊下を獣の群れが駆け回る、あの悪夢のような夕景は記憶に新しい。あの時はまだ妖という名前すら知らなかった。どのような類であれ関わらなければ害はないと、今はもう楽観することができない。
そんな由の戦慄など知る由もなく、楓はわざとらしく嘆いた。
「『えーやだこわいー!』みたいな反応期待してたのにさぁ、ひなみーってばちょー淡泊。なのに信じてんだからマジわかんない」
「信じてるんじゃないよ。視えないものじゃ在るとか無いとか証明できないなぁってだけ」
姫菜子は平然とした態度を崩さない。大物なのか呑気なのか、彼女の真意はいつも測りかねる。
楓はほーんとかはーんとか、わかってるんだかわかってないんだか、たぶんわかってない相槌を打ちながら、ふいっと由に水を向けた。
「……だってさ。ゆいっちはどう思う?」
「どうって……」
由は、窓際の席をチラと盗み見た。中途半端に引かれた椅子は空っぽで、さっきまで誰かが座っていたぶん、その空白が余計に寂しい。
「……まぁ、もういないんじゃない?」
「ゆいっちはそもそも『いない派』かぁ」
つまんねーとか女子力足んねーとか好き勝手言いながら、楓の興味はもう次の話題へと移っていた。どうやらいつもの無駄話だったらしい。密かな緊張の糸が切れて、由は人知れず溜息をついた。
止まっていた手をまた動かしながら、あの日のことを思い出す。次第、浮かぶのは克とのやり取りばかりになった。昨日の今日だ、どうしたって気まずさは拭えない。けれどそんなことを理由に、決まりきったお節介を止めてしまうことこそ、由には無責任に思えた。
もう一度、克の消えていった扉を見やる。彼の不真面目を咎めるのは、別に昼食を終えてからだっていい。今までもそうだったのだ。
でもいま立ち上がらなければ、もう二度と立ち上がれない気がする。今日まで積み重ねてきた実績より、そんな取り留めのない予感の方が、由にはなんだか恐ろしいようだった。
「ごめん、二人とも」
気づけば、由は席を立っていた。
「あたし今日行くとこあるから」
「おー……え、なんで? え、え、なんか呼び出し? ゆいっち叱られるの?」
「なんでやらかした前提だし」
失礼千万な楓の困惑をあしらいつつ、由は弁当を持った。姫菜子は分かっているのか分かっていないのか、たぶん分かっているのだろう、にこにこ黙って見守っている。
「彼によろしくね」
しかしそう直截に気遣われてしまうと、由も挨拶に困った。
「え、え?」と首がミーアキャットみたいに忙しない楓は放って、さっさと教室を後にする。昼休みの廊下には同級生たちがたむろし、意外にも賑やかだった。
「―――さては眞苅だなテメェー!」
遅すぎる楓の気づきが、遠鳴りのように吹き抜ける。その言い草に含みを感じた由は、耳目を集める友人を恥じるように、紅くなった顔で一人ごちた。
「もう、そんなんじゃないってば……!」
ところが言葉にしてみると、傍目には余計それらしいのだった。