3.なんでもないはじまり
由には憧れの人がいる。
大きな背中に憧れたままずっと、彼のように誰かを救いたいと思っていた。けれどその手段が由の手元にはなく。所詮、自分はただ視ていることしかできないのだと諦めて、なのに心の奥底では歯痒い気持ちを抱えたまま、もうずいぶん遠いところまで歩いた。
なのに、視えてしまったから。この期に及んでなにか光明めいたものが射し込んだ気がした。
記憶の彼よりずっと小さいようだけど、どころか危なっかしくて見ていられないけれど、その白刃が妖を斬り続ける限り、由は克に関わっていたい。
どの道、それしか望みはないのだから。
◇
朝から濁りきった空気を、不意に浮かんだ欠伸ごと噛み締める。気だるい頭は中に泥でも詰め込んだみたいで、寝起きの思考は不鮮明だった。
水溜りの仄かに青みがかった通学路を、由はとぼとぼ歩いている。すると無遠慮な細腕が、急にその肩を抱いた。
「ゆいっちも隅に置けないねぇ……」
「か、楓っ?」
間近に現れた友人の顔に由が目を見張ると、三室楓はバチコン☆っと朝から鬱陶しいウインクをかました。
「聞いたよ~? 昨日『用がある』って言ってアタシら先に帰したのが、まさか男と会う為だったなんてなァ」
「……ああ、なんだそのこと。別に、普通にお話してただけだし」
「またまたぁ! なんか深刻っぽい雰囲気になってからゆいっちが席を立ったとこまで、ばっちりきっちりしっかりちゃっかり、目撃情報あがってんだかんネ!」
ほらほら言えよぅ、なに話してたんだよぅとニヤつく楓に、由は深々と溜息をこぼす。
まったく一体どこの誰だろう、そんな仔細まで楓に伝えた覗き魔は。にわかに鋭さを増す頭痛に、由はこめかみを押さえた。
と、「はよー」とふわぽよ能天気な少女が、ひょっこり姿を見せる。
「……ひな。おはよ」
「おぉ、ひなみー! おはおはー!」
めったやたらと快活な楓の挨拶に、海浦姫菜子は目をぱちくりと瞬かせた。
「……ユイちゃん、どうしたの?」
「ちょっと楓がね」
「そっかぁ、朝から大変だね」
「あれ? アタシには『どうしたの?』って聞かない感じ?」
「だってカエちゃんが『どうかしてる』のはいつものことだし」
「ヒュゥー! 辛辣ゥ!」
やっぱひなみーはそうでなくちゃね! とひとり湧いている楓を見ながら、姫菜子が「え、うざ」と驚きの顔で口にする。
「今朝はまたずいぶんとテンション高いんだねぇ」
「これが落ち着いていられるか! だってゆいっちに春が来た! しかも相手はあの眞苅何某!」
どうやら相手の素性まで割れているらしい。覗き魔の悪趣味に対する呆れと、次に来るであろう反応への予感から、由は再び嘆息した。
「えー眞苅くん?」
案の定、姫菜子が困ったように笑う。
「やめときなよー。なんか怖いじゃん、噂になったばかりだし」
先月起きた諸々の事件に端を発する噂は、すでに下火となりつつある。とはいえそれは流行り廃りからくる当然の盛衰でしかなく、克の素行を疑う噂自体は未だ根強く残っていた。
姫菜子は友人として由を心配してくれているのだろう。それが誤解だと確信しているのは由だけで、流布した評判を覆すには、克にはあまりに友達がいなかった。
「え、眞苅が? アイツなんかやらかしたっけ?」
ところが楓は、はてな、と首を傾げる。
これには由もしばし言葉を失ってしまった。
「……いや、だってこの前の喧嘩の犯人、眞苅くんだって」
そう、噂を吹聴して回った張本人こそ、他ならぬ楓自身である。いつもの寒い冗談にしたって、その発言はさすがに笑えない。
しかし楓は悪びれる様子もなく、「んー」と何やら思案顔。
「まあ、見てくれだけならそれらしいかもだけどさ。でもアタシ思う訳よ。眞苅のヤロウ、ああ見えて雨の中捨て犬とか拾っちゃうタイプの――あれ、なんかこの話前もした気が」
「……してたよ? え、カエちゃんって鶏のご親戚だっけ?」
「三歩歩いたら忘れるって言いたいのかお前は!」
コノヤロー! と怒髪天を衝き、姫菜子に覆い被さる楓。「あー暑い暑いやめてよもぉ」と心底から嫌そうに、姫菜子は身を捩った。
こうなるともう、楓の無責任を咎められる空気ではなくなってしまう。
実のところ由は、根も葉もない根拠で克が中傷されることに、少なからず苛立ちを覚えていた。不可解なその理由を探る中で、では楓や姫菜子が同様に噂されていたらどう思うだろう、と想像してみたことがある。そしてやはり克の時と同じように、由は自分が憤る予感を得た。
つまり由は我慢ならないのだ。渦中の人物を弄ぶ噂と、その実像の乖離にどうにも違和感がある。それは由が克や楓、姫菜子と少なからず接点を持ち、彼らの人となりを知っているからに他ならない。
で、あれば。普段、由が楓の趣味に乗じて興じ、根も葉もない噂話を娯楽として消費できているのは、その標的のことをよく知らないからだろう。結局のところ、親しくもないならと同級生のゴシップを楽しんでいる時点で、由も大概、無責任なのかもしれなかった。
「ユイちゃ~ん」
と、情けない声が助けを乞う。思考に耽っていたから反応する間もなく、突然背中に圧し掛かった柔らかな重みに、由は息を詰まらせた。
「お、重ッ」
なんて、正直な感想まで漏らしてしまう。
「あ、ひどー。気にしてるのにぃー」
「いやこれ楓も乗って……ちょ、マジ、むりむりむりむり潰れる潰れる!」
由の悲鳴に答えるようにして、一番上に負ぶられた楓の、無責任な笑声が弾ける。声は森閑とした薄靄に響いて、寝惚け眼の町に一日の始まりを告げていた。
人の気も知らないで、まったく呑気な朝だった。