2.ファミレスにて
放課後になっても、雨は変わらずさざめいていた。学業を終えてもなお忙しない人波に揺られながら、克もまた昇降口に立つ。
履き潰したスニーカーを放ったところで、その人影を認めた。彼女の手に差す赤は一際に目を惹く。由は柱の陰にひっそりと佇み、灰色に濡れそぼつ中庭を眺めていた。
ほんのひととき、周囲の喧騒が遠のいたようだった。恐らく友達を待っているのだろう、そう決めつけて、克はその背中から視線を外す。そうすれば同級生たちの声に紛れて、もう由がどこにいるのか分らなくなった。
あとは帰るだけだから、行動を咎められる謂われはない。由は克に気づいていない訳だし、わざわざ声をかける必要もないだろう。
言うまでもない道理をわざわざ頭の中で反芻して。次に克が顔を上げた時、笑顔の由が手を振っていた。
◇
食器の触れる固く甲高い音、ホールを包む穏やかな談笑の声。冷房が雨に濡れた体から熱をさらっていく。駅前のファミレスは今日も、多くの学生やカップルに賑わっていた。
「でね、そん時の楓がまたおかしくってさー」
窓際の席に着くや否や、由が中断していた話を再開する。克は曖昧に反応を返しながら、手元のメニュー表を開いた。
今日の由はやたら饒舌だった。なのにその口が語るのは他愛ない日常ばかりで、一向に本題の気配がない。話があると声をかけてきたのは由の方なので、克も切り出しようがなく、途中から相槌を打つだけの地蔵と化していた。
由の話に耳を傾けつつも、克はメニューに目を走らせて、頼むものを指折り数える。
「ドリア、マルゲリータ、ペペロンチーノ」
「ええ……めっちゃ食べる……」
不意に飛んできた反応に視線をあげると、由が困惑した顔で目を瞬いている。
「え、なに。ダメなの」
「ダメじゃないけど……お夕飯入らなくなるよ?」
「いやオカンかよ」
ちょっと昼飯が足りなくてな、と克が続けたことで、由はようやく頷きを返せた。
「あーね、そういうものかも」
嘘でもいい適切な返事が、こればかりは由の中になかった。急に素っ気なくなった態度を訝しみながらも、克は呼び出しボタンに手を伸ばす。
「そっちは。なんか食うか?」
「んーん、あたしはドリンクバーだけで」
店員はすぐやってきた。繕うのに慣れ切った笑顔が由に向けられる。
「ご注文お伺いします」
「ドリンクバーで」
「ミラノ風ドリア、マルゲリータピザ、ペペロンチーノ。あと俺もドリンクバーを」
店員の顔が微かな驚きに染まる。バイトなのだろう、接客にすっかり専念しきれていないようだ。それでも彼女は注文を復唱すると、よどみなくドリンクバーの位置も説明し、最後にお決まりの文句を残して去って行った。
それを見送ると、由はこそっと声を潜める。
「眞苅くんなんかヘンなこと言った?」
「……いや、言ってないと思うが」
心当たりはある。しかし今さら口にするには当たり前すぎる話で、だから克の頭にも上らなかった。
そうして変わらず雑談を続けること暫し。湯気を立てる料理が、由の前に並べられていく。
「ご注文の品は以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
定型的な確認にも克は律義に頷く。レシートを持った店員の手が束の間、入れ物を見失ったように止まった。
「ごゆっくりどうぞ」
踵を返した背中を一瞥して、由は料理を克の前に押し出す。
「ヘンな店員さんだね」
「美味けりゃなんだっていいよ」
克は興味ないとばかりに答え、食器入れからフォークを取った。
◇
「……んで、話って結局なんなんだ」
友達がいない克なので、話題を切り替えるのにも相応のきっかけが欲しい。
とはいえど。由の口はよく回り、話は延々空回り、終わりも見えずに堂々巡り。待てども暮らせども始まらないから、克は強引に流れをぶった切った。
すでに夕日も地平に消え、宵の青が窓辺に迫りつつある。水滴のまばらなガラスにすーっと視線を逸らすと、由は「あははー」なんてあからさまな愛想笑いを浮かべた。
「そのー実は、ちょっとお願いがあってさ。や、でもなんかこう、いざ眞苅くんを目の前にすると、ちょっと言い出しづらいっていうか」
もじもじといじらしい由の態度に、しかし克の反応は冷たい。碌なお願いじゃねえな……と早くも胡乱な目を向ける克に、由は赤い顔で手を振った。
「そ、それにほら! なんか恥ずかしいし!」
駄目押しだった。いよいよ警戒の色を強める克に、由も後に引けなくなる。それでもしばらくモゴモゴ言いよどんでいたが、拳を握って意を決すると、そのまま勢い込んで頭を下げた。
「あたしを弟子にしてください!」
「…………はっ?」
それは、克もまったく予想だにしない難題だった。
◇
「妖を倒す術を学びたい、ねぇ……」
つまりはそういうことらしかった。
うん、と由は実に真剣な顔でうなずく。
「あたし、その為ならなんでもするから。眞苅くんがやれって言うならなんでも。下働きでも、お手伝いでも、小間使いだって!」
「それ大体おんなじ意味じゃねえかな……」
しかし何でもとは大きく出たものだ。束の間、条件反射的に脳裏にちらついた浅ましい妄想から、克は努めて目を逸らす。彼とて思春期真っ盛りの男子高校生、邪な気持ちがないではない。「なんでも」なんて言われると、あらぬ好奇心が疼いてしまう。
とはいえ、突然にそう言い出した訳にも興味がある。由もそのような言葉を安く叩き売る性格ではないだろう。
「……理由、聞いてもいいか」
答えはとうに出ているものと思ったが、返答までにはずいぶんと時間がかかった。
「…………助けたいから」
舌先で転がすように紡がれたのは、そんなありきたりな望み。
何を、とは言わなかった。なのに由の切々とした表情が、まるで睦言のようにささやかな声音が、克から安易な言葉を奪ってしまった。
「そうか……」
その誠実さに、克としてもなるべく応えたい。
「いや、でもなぁ」
しかし彼の気持ちだけで、現実を変えられる訳ではなかった。
「これは教えてどうこうなるもんじゃねえしなぁ……」
「……やっぱ、難しいかな?」
「……まぁ、そうな」
絶対に無理、と。はっきり言ってしまうことは、さすがに憚られてしまった。
たしかに、由の視野の広さは貴重な才能ではある。「霊感がある」と自称する人間は掃いて捨てるほどいるが、実際に本物が視える者となれば稀だ。とはいえ何の技も知識もない由に、一から全てを授けるのは難しい。
「……すまん。やっぱその頼みは聞けない」
だから、それが克の結論だった。
「そっか……」
由は悄然と肩を落とす。
見ていられなくて、克は窓の向こうに視線を外した。
安易な決断ではなかったのだと思う。由がそのように浅薄な人間でないことは、彼女の愚直さの一端に触れた克にもわかる。あるいは克の非行を咎める中で、ずっとこれを打ち明ける機を窺っていたのかもしれない。その健気さに中てられこそすれ、拒否感など持てるはずがない。
しかし、伊達や酔狂で務まる仕事ではないと、親にもさんざんドヤされてきた。見習いを脱した程度の克では、妖一匹退治するのにも、全力を傾けなければままならない。まして人に教えるなど以ての外だ。
立派な父の真似事をするには、克はまだまだ未熟だった。
ふと視線を感じ、克は眼下の往来に目を落とす。夕刻の駅前は人の行き交いが激しく、人相の判別まではできない。仮に覗かれていたとて、個人の特定は難しいだろう。
その間に、由は席を立っていた。
「ごめん、無茶言って。もう帰るね」
「あ、ああ……いや送る」
言いながら空をちらと仰ぐ。
六月になって日は随分と伸びたが、それなりの時間ファミレスにもいた。今日は雨も降っているし、由が駅に着く頃には真っ暗になっているだろう。
しかし由は困った顔で首を振った。
「いいよ、まだ食べてるでしょ? それに振られた相手に送ってもらうのって、なんか惨めっぽいし」
「お、おぉ」
そういうものか、と。克は浮かせかけた腰を下ろした。もう一度バスロータリーを一瞥する。不躾な視線だが、悪いものではないように思う。杞憂だろう。
由の差した傘が揺れながら、帰路に就いた人波を滑っていく。その赤が闇に溶けていくのを見ていられず、克は食べかけの料理に視線を戻す。
ドリアはすっかり冷めていて、口で粘土でもこねているみたいだった。