1.雨の日
昼休みの喧騒が、どこか遠い。
特別棟二階。人気の途絶えた廊下には、息の詰まるような湿気が満ちていた。その渦中を、一人の女生徒が歩いている。
見目麗しい少女だった。白磁の肌、玻璃の眼、濡羽色の長髪。梅雨の澱みすら跳ね除けてしまいそうな、清廉な佇まい。湿った靴底で調子の外れた足音を軋ませながら、それでもなおその道行に、少しの迷いも見られない。
少女が渡り廊下に差し掛かる。そこを行けばもう教室棟で、心なしか空回った賑わいが、すぐ目前まで迫っている。
ふと、窓際に立った足が止まった。黒瞳がつい、と横に滑り、雨に曇った窓を見る。輪郭のぼやけた非常階段が、鈍色の校舎に寄り添っていた。
その中ほどに、どうやら誰か蹲っているようだった。
◇
六月も二週間を数えて少し。先月にわかに騒動となった、『美浜高校生徒不良化事件』もほとぼりが冷め、学校に平穏な退屈が戻ってきた頃。
眞苅克は今もなお、こうして非常階段に一人、冷めきった惣菜パンを頬張るなどしていた。まるで人目を憚るようだが、訳あって身を隠しているようなものだから、あながち的外れでもない。
ところが世には奇特な人がいるもので、特に克には、そういう類との縁が結ばれているようだった。
「そこは立ち入り禁止です」
殊に、今回は二人ほどある心当たりの、とりわけ厄介な方に目を付けられたらしい。
克が振り返ると、階段を降りたところに一人の女生徒が立っていた。見目麗しい少女だ。その美貌は梅雨の日差しに透けてしまいそうなほど儚いのに、それでいて人目を惹いて止まない。律義に外履きに履き替え、傘まで差して現れた彼女は、上級生の美音杏佳だった。
安物のビニール傘でさえ、杏佳の手にあると映えるのだからいけない。克はとりたてて驚くこともなく、トーンの低い声で答えた。
「男には一人の時間が必要なんだよ」
「克はいつも一人だと思いますが」
夜の湖面を弾くような、冷たく澄んだ声だった。距離感とか情緒を欠いた相変わらずの物言いに、克は辟易しながら言い返す。
「ほっとけ。それはお前も似たようなもんだろ」
「私を克と一緒にしないでください。私は間違いを正すために、客観性を保ちたいだけなのです。克のように友達が欲しくともできない人とは違います」
「おま、それは言っちゃダメだろ……」
あるいは正直なのは美徳かもしれないが、あまりあけすけ過ぎるのも考えものである。深刻な心的外傷に克が項垂れると、杏佳は瞑目しつつ続けた。
「なにか。事実を言ったまでですが」
「なおさら性質が悪いんだよなぁ」
どれ、ここはソロ充(ソロ生活充実している人、の略)の先達として、一つ手解きでもしてやるべきかもしれない。一瞬でメンタルをボコボコにされたことで妙な闘志に火の点いた克は、だいたいいつも自分に言い聞かせている詭弁を、杏佳に向けて開陳した。
「いいか、ソロプレイヤーも悪いものじゃない。たしかに手間はかかるが、誰かに気を遣うことがないし、どこに行くも何をするも全て自分の自由だ。なによりその結果失敗しても、他人に責められることがない。……ただちょっと自分で自分が惨めに思えて、かなり死にたくなるだけだ」
「いや駄目ではありませんか」
最後の本音まで律義に聞き終えた杏佳は、呆れ顔で嘆息する。図らずもようやくそれらしい表情を見せてくれた杏佳に、このまま誤魔化せるか、と克は一瞬色めいた。
が、束の間の希望は儚くも散る。冷え冷えと睨み上げる眼差しは、ビニール越しに克を非難していた。
「いい加減なことを言って、はぐらかさないでください。私は克の行動を咎めているのです」
どうも今日の杏佳は手強いようだ。ぐぅ、と悔しげに唸り、苦し紛れにコーヒー牛乳に口をつけてみたりする。あいにく中身はほとんど空で、ずるずるーと、間抜けた音が空回るばかりだった。
(……ん?)
不意に、杏佳と見つめ合う沈黙が訪れた。そうして微かな違和感を覚える。機械のように正確に、自身の意思を著す杏佳の表情が、いつもと違って見えたのだ。
杏佳は真面目な性格だ。“生”どころか“鬼”を付けたっていい。何か個人的な用事があったとしても、決まりを守ることを優先してしまうきらいがある。
克はストローから口を離し、腰を上げながら言った。
「なあ、なんか用があるなら、」
「ようやく見つけた!」
と、どこからか聞き覚えのある女声が叫んだ。驚いて見上げると、一つ上の踊り場で、スカートが翻って消える。階段を駆け下りる忙しない音が降ってきて、あっという間に、神薙由が姿を現した。梅雨の間は纏めているらしい髪がところどころ乱れ、露わになったうなじには汗が滲んでいる。どうやらあちこち走り回ってきたらしい。
由は上がった息を整えながら、きょろきょろ辺りを見回した。
「あれ、いま誰かと話してなかった?」
「……別に」
いつの間にか、杏佳の姿が消えている。
ふーん、と相槌を打ちながら、由はシャツの胸元にパタパタと風を送った。つい顔を逸らしながら、克は平静を装って尋ねる。
「で? なんか用か」
「あ、そうだった! 『で?』じゃないよもう! じゅ、ぎょ、お! またサボる気だったでしょ!?」
つぎ移動教室だよ、なんてぷりぷり怒る由の手には、勉強道具一式が抱えられている。というかどう見ても二人分ある。
「ほら、眞苅くんのぶんも持ってきてあげたから」
「ええ……人の机勝手に漁んなよ泥棒だろ……」
思わぬ狼藉に引き気味で応じると、さすがにそれは由も後ろめたかったらしい。途端に視線が泳いで、あーとかうーとか唸りだす。
「で、でも仕方ないじゃん。だってこうでもしないと、教科書取りに戻るフリしてそのまま帰っちゃうでしょ」
「いやまあ、うーん」
図星だった。人の口から出た自分の行動予測が思いの外リアルで、克も思わず返答に窮してしまう。その隙に教科書を押しつけられた。
「ほら、行くよ」
由はそう言うや否や、むんずと克の手首をつかむ。
「いや自分で歩けるから……」
手首に触れる意外に強めな拘束がむず痒くて、堪らずそれを振り払うと、由がムッとした顔で振り返った。咎めるような視線が無性に痛い。なにか応えようと口を開くも言葉は出ず、克は結局、逃げるように由を追い越した。満足げな吐息が聞こえ、克より軽快な足音が後を追う。
なんだかやけに照れくさくて、克は人知れず嘆息する。
十戦十敗零勝。適度に授業をサボりたい克は、そんな非行を阻みたい由の執念を前に、今日も今日とて白旗を振った。
変わらないものと変わったもの。克の日常はこのように、今までと少しだけ違う。