- 存在しない/ありふれた 御噺
放課後のことだった。うちの学校は部活動が盛んで、放課後になると、教室棟はがらんと寂しくなる。
その日、私は先生のお手伝いをした帰りで、バッグを取りに教室に向かっていた。人気のない校舎にかつかつと足音が響く。学校の照明は心もとなくて、どこか視界はぼやけているようだった。
教室は三階にある。階段を上ると、見知っているはずの廊下は、人がいないというだけでまったく別物に見えた。おかしな想像だけど、夜道のトンネルみたいだった。それくらい心細かった。
いもしない怪物を恐れるように、私はついつい息を潜めながら歩いていた。と、トイレの前を通りがかりに、中から扉の閉まる音がした。私以外にも居残った生徒がいる。そんな当たり前の事実に強く安堵して、それから私の歩みは軽くなった。
思えば、どうして閉まる音だったのだろう。私は三階に来てから、トイレに入る人影を見ていない。なら個室に入った誰かは、私が三階に来てからその前を通るまでの間、いったいトイレで何をしていたのだろう。
孤独でない安心に気を取られた私の頭に、そんな小さな疑問が浮かぶことはなかった。あるいは気づけていれば、あんな目に遭わずに済んだかもしれないのに。
自分の教室を目前にした時のことだ。不意に、耳元で名前を呼ばれた。年配の女の人か、高めの男の人の声のようだった。恐怖よりも驚きのあまり、私はついつい振り返ってしまった。
そこには、誰も立っていない。やっぱり薄暗い廊下だけが、どこまでも伸びている。でも何か違和感があった。私が歩いてきた廊下とは、少しだけ景色が違っている気がする。目を凝らすと、すぐにその正体がわかった。
最初、それが何かはわからなかった。黒く短い毛に覆われた、人の頭ほどはある何かが、さっき通りすぎたトイレから覗いている。人の後頭部が真横に飛び出しているようだ。ところがそれがずるずると伸び上がって、三メートルほどの長さになると、ともかくそれが人ではない、もっと大きな何かの腕なのだとわかった。
私は息を殺してその異常を見ていた。毛むくじゃらの巨大な腕は、何かを探すように蠢いていた。ちょうど狭い入口から腕を突っ込んで、箱の中の物を探る様に似ていた。腕はどんどん伸びて、あっという間に十メートルを超えた。私は、あの腕が私を探しているのだと思った。あの手が届かないうちに逃げなければいけない。私は音を立てて気づかれないように、そっと一歩後ずさった。
そこで、私は見てしまった。気づいてしまった。腕の根元、トイレの入り口からいつの間にか、大きな顔が覗いている。二メートルはあろうかという真っ黒な顔は猿に似ていて、真っ赤に充血した目がはっきりと、私の顔を覗き込んでいた。
見つかった。そう理解した瞬間、私は踵を返し、一目散に逃げだした。荷物も靴も置いて、学校を飛び出し、すれ違う通行人にも目もくれず、そのまま走って家に帰った。
翌朝、私はいつも通り学校に行った。一晩考えて、あんなことはあり得ない、悪い夢でも見たんだと思ったのだ。学校もいつも通り、いつも通りのクラスメイトに挨拶して、私は席に着いた。バッグもそこに置かれたままだった。
私は安堵して、バッグを置いて帰った理由を友人に言い訳しながら、教科書を取り出そうとチャックを開けた。
中には人間の髪の毛がいっぱいに入っていた。