12.いつかの憧れ
暦は六月に入った。いよいよ本格的に梅雨が始まり、じめじめと粘つくような雨天が続く。
ある日の昼休み。克は母の持たせたおにぎりを頬張りながら、水浸しのグラウンドを眺めていた。
渡り廊下横のテラスには、他に人影がない。体育館の屋根が迫り出したここは雨にも濡れずに済むのだが、滅多に陽が入らないこともあってか、陰気で、いつも閑散としている。
そこに、珍しく来客があった。
「あーこんな所にいた」
由は「おはよー」なんて呑気に挨拶くれながら、克の傍に歩み寄る。
「……なにしてんの?」
「罰ゲーム。じゃんけんで負けちゃってさー、パシリだよ」
それはいじめなのでは……と言いかけて、やめた。克には縁のない話だが、いわゆるじゃれ合いというものの一環なのだろう。気心の知れた同士であれば、ある程度の無礼も逆に信頼の証になる。ほんと、克には縁がない。
「ほいこれ」
そう、思った矢先。目の前に差し出された黄色の炭酸飲料を見て、克はしばし絶句する。
「…………俺、炭酸ダメなんだけど」
「えー」
なんとか絞り出すと、由は一瞬むずかしい顔をして、それから手に持ったミルクティーと取り替えてくれた。どうやら好意に甘えるほか選択肢がないようなので、ここは素直に受け取る。
「この前のお礼」
訳を明かしながら、拳二つぶん空けた横に由が腰かけた。
「まだちゃんと言えてなかったから……助けてくれて、ありがと」
「……おう」
あの時も似たようなことを言われたな、と思い出しながら、克もまた同じように頷く。すると由は満足そうに微笑んだ。
しかし、まだ立ち去る気はないらしい。
由の声音が、気遣わしげに潜められる。
「怪我は? もう平気?」
「まあな。命に関わるようなもんでもないし、あと数日もすれば治るだろ」
克は狢と戦った時の怪我が原因で、全身に包帯やらガーゼやらを巻いていた。ちょうど衣替えの季節と重なったこともあり、その格好がこれまた目立つ。おかげでいったんは収束したはずの、克を暴力事件の犯人と疑う噂も再燃していた。今の教室はさながら針の筵だ。
だから昼休みになるとこうして外まで出向いている。その辺りの事情は由も知っているからか、深くは追及されなかった。そんな心配りが少しだけ嬉しい。
「……なんか用か?」
なので未だ腰かけたままの少女に、自ら水を向ける。いささか不躾すぎる問いかけだったが、今の由には必要なものだった。
「あたしさ、」
切実な声が、拙げに言葉を紡ぐ。
「あれから、やっぱ考えちゃうんだ。なんであたしだったんだろうって。どうして、あたしを選んだんだろうって。単に近くにいたからかもだし、あたしがチョロそうだったからかもしれないし、けど。……けど、もし。都合のいいユメかもしんないけど、でも、あたしにお礼を言いに来てくれたなら、良かったのにな」
曖昧な物言いではあったが、何の話をしているのかは克にもすぐ理解できた。
それが突飛な妄想に過ぎないことは、由自身もわかっているのだろう。しかし狢の最期を夢に見る度、きっと思わずにいられないのだ。
あの時。瀕死の狢が力を振り絞って、由を襲おうとした瞬間。彼の動きが止まったのは、由を想ってのことだったのではないかと。
だが案の定、由のそんな感傷を、克は一笑に付した。
「ただの畜生風情に、そんな思慮ある訳ねえだろ。前にも言ったように、どうせ焼きついた生存本能に動かされてただけだ。動物霊を核とした妖にはままあることだよ。じゃなきゃもっと単純に、自身を殺めた人間という種族そのものに復讐したかったんだな」
だから人選に意味を求めてはならない。そう、真っ直ぐな言葉が突きつけてくる。
由は泣き笑いのような顔をして、安堵の息を吐いた。
「それじゃあ、きっとあたしで良かったんだ。眞苅くんと出会わなければ、あの子を見つけるのが遅れていれば、あたしじゃない誰かに憑りついていれば……ぜんぶ同じことだよ。もしあたしじゃなかったら、ずっとずっと事態は悪くなってたかもしれないんだ」
由があの子を拾ったこと、由にあの子が憑りついたこと、そのどちらにも意味があったとするなら。今回の騒動にまつわる全ての出会いが、今現在に収束した事実に見つけられるだろう。
由はそんな風に思った。
「……やっぱ優しいよ、お前」
不意に、克が呟いた。そう言う彼自身の顔が、なによりも優しげだった。
「え、ええ? なに急に。別に、そんなことないし……」
照れ臭くなった由は反射的に否定しながら、しかし、そんな拒否感もあながち間違っていないな、と述懐する。だからその先を考えなくてはならないのだ。
「……ホントに。そんなんじゃないんだ、あたし。でも、そうなれればいいなって思ってる」
だってそれだけで、そうじゃない奴よりずっと上等だ。自分の代わりにそう怒ってくれた少年の、不意に見せる寂しげな横顔が、由はずっと忘れられずにいる。
その少年を目の前にしていることに意識が行くと、急に頬が熱くなったので、慌てて立ち上がった。
「じゃ、また教室でね」
口早に別れを告げ、そそくさとその場を後にする。
奇しくも由の後姿は、初めて話した夜のことを、克に想起させた。
「なれるだろ」
誰かに伝えるべき確信を、虚空に向けて言い放つ。今はまだ面と向かう勇気がない。
空になった弁当箱を片付けると、克はポケットから缶詰を取り出した。霊符を手早く缶切りに変換し、蓋を開ける。躊躇いは一瞬で、すぐ思い切って箸をつけた。
「……しょっぱ」
初めて食べた狸の肉は、思っていたより塩辛かった。
―――そうして、物語は静かに回りだす。
というところで、第一話「水平線の向こう側」はおしまいです。ここまでお付き合いくださった皆様、ありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。
第一話は本作の導入的なお話でした。視えざるモノたちの潜む世界観。由と克、まっすぐなようでいて、なにか葛藤を抱える少年少女。その一端をお見せした形です。由と克、そしてまだ見ぬもう一人が関わり合っていく中で、妖の深淵や、各々の抱えるトラウマも明らかになるでしょう。
次回、ついに三人目の主役「美音杏佳」が登場。二人の先輩にして、優等生と呼ばわれる彼女ははたしてどのような人物なのか。梅雨の最盛、六月の美浜高校が物語の舞台です。ある噂を発端とした”流行”の巻き起こす怪奇事件。第二話「ノラ犬くんと”鬼”真面目さん」、乞うご期待。
ちなみに。まったく意味のない喩えですが、僕が「優等生」という取っ掛かりからキャラを作る場合、そよ風のような優男が生まれます。