11.『かぶきり小僧』
人心に潜む獣。
幻想より湧きいずる悪魔。
ヒトを模したムジナが、今宵、此岸にて吠え哮る―――
四阿から弾き飛ばされた克の上に、丸みを帯びた灰色の獣が圧し掛かっている。すでにかぶきり小僧の姿はなく、残り火がちろちろと燻るだけだった。
「―――眞苅くん!?」
遅まきながら状況を理解した由が、悲鳴を上げながら振り返る。しかし駆け寄ろうとした足は、克の鋭い叱責に制された。
「来るなッ!」
応じたのは獣のあぎとだった。左肩に引っ張られるような痛みが弾け、克の意識は拡散する。だが咄嗟に頬肉を噛んで正気を保つ。神経を喰い千切ろうとする獣の横っ腹に、自由な左手を叩きつけた。
握っていた霊符が正しく機能し、短刀が毛皮を突き破る。獣の上体がわずかに浮いたその隙を突いて、克は右腕を振るった。だが切っ先は虚しく空を切る。
立ち上がりざま、短刀を投擲した。飛び退った獣の着地点を先回りした一投は、しかし硬質な牙に阻まれる。獣は短刀を噛み砕いた。
「野郎……」
忌々しげに呻きながら、克は妖を睨め上げる。街灯の上に据わった獣が、己の力を誇示するように、重く厚みのある声で咆えた。
「む、狢!?」
由が動転した様子で言う。
「あれが……!」
「……呼び集めた妖を食べてたんだ。どれだけ成長しやがった、クソッ。もう受肉しかかってんじゃねえか……!」
そう吐き捨てた克のワイシャツは、明滅する街灯に照らされ白光を帯びていた。それが余計に映えて見えるのは、肩口に滲む赤色のせいだろう。
ひッと息を飲んだまま、由の口からは言葉が出ない。舌が喉奥に貼りついたように、上手く回らなかった。
「……そこにいろ」
静かに気遣った声は、由に向けたものだ。結局なにもできなかった彼女を置いて、克の足が砂利を蹴る。
四阿の柱を利用し、三角跳びの要領で獣に迫った。横薙ぎの一閃はあえなく躱される。克は刀を振り抜いた勢いのまま、中空で腰を捻る。左手から放たれた四本の苦無は、うち二本が飛び退いた獣を捉える。致命打には程遠い。転がるように着地して、克はすぐさま反撃に備えた。
その眼前に、大口を開けた獣の姿。口腔の奥は底なしの洞に似て黒い。遊具を足場に弾丸の如く加速した獣は、すでにそこまで肉薄していた。
避ける間はない。だから斬り結ぶ。互いの爪牙と白刃が交錯し、火花を咲かす。鮮血はススキめいて花散る。片膝を突きそうになるのをグッと堪え、振り向きざまに剣戟を放った。刀身を伝った血が地面に弧を描く。また掠っただけだった。
克は自分を遠巻きにする妖を油断なく睨みつつ、そっと息を整えた。脇腹に熱いものが伝う。また傷が増えた。それはあの獣も同様だが、仕留めるには首か胴を断たねば意味がない。幸いにして刃毀れとは無縁の得物だが、このままの調子で戦いが続けば、趨勢は徐々に妖の有利へと傾いてしまう。
と、克の出方を窺うように歩いていた妖が、街灯の下に現れた。獣の全容が露わになる。
輪郭は幻のように曖昧だが、口や目、耳といったパーツは他の妖よりはっきりとしている。二メートルはあろうかという扁平な躰を、地面に滑らせながら移動していた。
その後に、ぽたぽたと黒い斑点を残しながら。
「――!」
電撃的な気づきが克の身を貫いた。
牽制として放った四本の苦無が、二本も当たったのは果たして偶然か。本来は霊体に過ぎない妖が血を流しているのは何故だ。半ば受肉しているという事実に、ではどんな意味があるのだろう。
克はふと、廊下を縦横無尽に駆ける妖の波濤を思い出す。
そこに、勝機を見た。
思索は数秒。すぐさま意識を切り替え、己が身をただ目標へ邁進するだけの機構に転換する。静から動へ。弾かれたように駆け出した。
裂帛が奔る。白刃が掠れ、目にも留まらぬ連撃が暴威を揮う。獣もまた応じるように猛り、剣撃の悉くを躱した。常人には捉えきれずとも妖には容易い。蒼く三日月を刻む軌跡の隙を縫い、鋭い爪牙が克の血肉を抉る。
堪らず克は後方へ跳んだ。風を切り幾本もの苦無が飛翔する。有効とは言えない攻撃は鬱陶しいだけで、妖の神経を逆撫でするばかりだった。
そして、克の怪我は酷い。一つ一つは掠り傷のようなものだが、数が重なれば出血量も相応になる。
だからだろうか。城を模した遊具のてっぺん、尖塔の屋根に降り立った克は、意識が遠のきでもしたらしく、ぐらっと体勢を崩す。
獣は当然、それを好機と考えた。この距離を走っては遅い。体格に似合わぬその敏捷性を以ってすれば、跳んだ方が遥かに易い。
獣は四肢を踏ん張り、砂利を散らして地を蹴った。
それこそ克の思う壺だと知らずに。
倒れ込むままに落ちるかと思われた克はしかし、その手で旗ポールを掴んでいた。無様に滑って転ぶこともなく、両足をしっかりと屋根につける。
上げられた男の相貌。血に塗れた面に、真っ黒な瞳が爛と灯る。そうして見据えた獣に向かって、克もバネのように跳び出した。
肉薄、交差、一閃。深々と突き立った長刀が、獣の胴部を引き裂く。追突。克は無様に転がった。
妖には本来、天地の概念がない。何もない空中すら、奴らは時に足場とする。だが狢はそうしなかった。一本でも掠れば御の字と、克が苦し紛れに投げた苦無を二本も受け、転身する時もわざわざ遊具を利用した。これはひとえに肉体があった為である。受肉してしまえば、如何な妖とて物質界の法則に縛られてしまうのだ。
だから空中では攻撃を避けられなかった。
そういった常識が通用するなら、失血死もするだろう。
ぼろぼろの身体を引きずって、克は獣に近づいた。腹部から肩口にかけて大きな裂傷を負った狢は、血溜まりに頽れ、浅い呼吸を繰り返している。絶命には届かぬ一撃だったが、致命傷には足りたはずだ。
獣の身体が端から崩れゆく様を、克は茫然と見下ろしていた。
こんな瞬間にいつも、この胸に去来する空しさはなんだろう――なんて、自問ばかりを繰り返しながら。
そうして物思いに耽っていたから、些細な兆候を見逃してしまう。
克が異変に気づいたのは、由が言いつけを破って、四阿から出た時だった。
しかし克の身を案じたその行動を、いったい誰が責められよう。
その瞬間、少なくとも克が抱いたのは、強い自責の念だった。
屍骸から飛び出した狢の霊魂が、由に向かって牙を剥く。
「――――――へ?」
突然の事態に呆けた由が、だが穢されることはなかった。
小さな獣を刺し貫いた飾り気のない刀。持ち主は安堵の面持ちで、荒い息を吐いている。間に合ったのは奇跡と言っていい。あの小狢が、獲物を目前にして壁に阻まれたように静止していなければ、今ごろ由は中身のない肉人形になっていただろう。
狢の残滓は、今度こそ塵と果てていく。
「お前……ほんと、お前…………」
息も絶え絶えな克は、バクバクとがなり立てる鼓動を宥めるのに必死で、叱りの言葉一つ言えない。
対する由の方はと言えば。
「眞苅くんダメだよそんな、喋ろうとしちゃ! 今は安静にして、早く手当てしないと……!」
なんて、自分の身より克を案じ、心配そうに瞳を揺らしている。
克は溜息を吐いて、都会の寂しい夜空を仰ぐ。少しだけ欠けた楕円の月が、ぽつんと独りで笑っていた。
やっぱり何も、言えそうにない。
次回、エピローグ