10.公園は夜陰に濡れる3
街灯に白んだ砂利の上に、時計が長い影を落とす。日に焼けたプラ版の向こうで、秒針が静かに時を刻んでいた。
遠く、新都の方から聞こえるのはパトカーのサイレン。反響を繰り返し間延びしたそれは、呆然と立ち尽くす由の心さえ、大して急き立てることができない。
思わず腰を上げてしまったまま、由は黙って克を見下ろす。克もまた静かに由を見上げて、顔を撫でる視線を受け止めた。
「何か証拠でもあるの?」
考えた末に出た言葉は、言った本人も呆れるほどそれらしい。これではまるで苦し紛れに言い逃れようとする犯人だ。由にはまったくそんなつもりも無かったというのに。
克は最初なにも答えず、スーパーのビニール袋から缶詰を取り出した。狸肉のジビエ。レジ横のコーナーで、面白がった克が何気なく手にした品である。そしてまた、由が万引きしようとして、それを止めた克によって買われた商品でもあった。
「狸の死体だ」
成分表示を親指の腹で撫でながら、克は答えた。凪いだ両目は依然、由の姿を捉えている。
そのまま言葉が紡がれて、推理は滔々と流れ出した。
「この缶詰を見た時に、神薙が聞かせてくれた苦い思い出だよ。道端で死んだ狸の子どもを見つけて、いても立ってもいられなくなったお前は、死体を持ち帰って庭に埋めた。恐らく、きっかけはこれだ。狸の肉体は活動を停止したが、その精神はまだ内に宿っていた。動物霊はそれそのままであれば、現世との情報量の差で希釈されてしまう。つまり消えちまうんだ。そんな終わりを避けるためには妖と習合するか、あるいは手近な魂に癒着するしかない」
克の声を聞きながら、由の耳は地の底から唸るような音を拾った。どこからか車が近付いてきている。由の意識は散漫で、今はそんなことばかりが煩わしい。
由がぼんやりと見つめる先で、克は変わらず淡々と、結論らしきものを口にした。
「今回は後者だった。もっとわかりやすく言い換えれば、神薙はかぶきり小僧に憑りつかれてしまったんだ」
それと同時、示し合わせたようなタイミングで。
公園に面する十字路の角から、カッと閃光が迸る。何もかもを掻き消すような唸りと共に、ミニバンが通り過ぎた。公園は真っ白に照らし出され、ハイビームに晒された克と由の影が東から西へ伸び上がる。
由は息をするのも忘れてしまった。公園には二人きりのはずなのに、佇む影は三つ並んでいた。
うち一つは、由の腰ほどの背丈しかないようだった。
由は強張った体で、ゆっくりと振り返る。
屋根を支えるタイル張りの柱の陰に、おかっぱ頭に甚兵衛の、小さな男の子が立っていた。暗がりで輪郭は定かでないものの、その既視感は本物だった。
由はもう目が逸らせない。まるで彼我の間に細糸が張り詰められ、その均衡を撓ませてしまうことが、酷く怖ろしいことのように感じられた。だからどんなに逃げ出したくとも、男の子の仄暗い両の眼を、由は見つめ続けている。
そして彼の小振りな口が、また何かを呟こうとした、
その刹那の間隙。
蒼色を帯びる何かが視界を横切ったかと思えば、金縛りが解け、由の身体は自由になっていた。
「え……!?」
眼前ではかぶきり小僧だったものが、青い炎に包まれて、声にならぬ悲鳴を上げている。
傍らには克が立っていた。だらんと下げられた腕の先に、いつか見た白刃が光る。
「こんな姿だったのか」
青白い火の粉に輪郭を撫でられながら、克が無感動に呟く。
「視えてなかったの?」
驚き混じりに聞き返せば、克は小さく頷いた。
「俺は透視能力がある訳じゃない。だから他人の身体の中なんて、当然ながら覗けない。こいつは神薙の魂と半ば同化していた。感覚としちゃ、自分の中にもうひとり人がいるようなもんだろ。でもそれを知覚する機能は人体に備わっていないから、代わりに視認することで、神薙だけがこいつを実感できたんだ」
そこを断ち斬った、と言葉は続く。
「『視ること』は最も原始的な他者との関わり方だ。互いを視認することで人は初めて繋がりを得る。だから、その視線を断ったんだ」
「……じゃあ、あたしの中にはもう」
「安心しろ。見ての通り妖は引きずり出した。あとはもう自然に消えるのを待つだけだ」
克は笑って答えてくれたが、視線は未だ炎上する男の子を見ていた。青い炎を映すその黒瞳に、由はやはり寂しさを垣間見てしまう。
だからつい余計なことを口走った。
「これで良かったのかな」
「は?」
信じられないとでも言いたげな様子で、しかめ面の克が振り向く。
「お前マジか。憑りつかれたまま放っとけば、自我を喰い尽されてたかもしれねえんだぞ。なに、ゾンビに憧れてるの?」
「憧れてる訳ないし……あたしそんなヤバい状態だったの?」
「……神薙って幽霊視える割に危機感うすいよな。自分に視えてるモノが結構あぶない代物だってこと、もっと自覚した方がいいぞ」
それを言われると弱い。由は幽霊に対する認識が甘い訳を、このとき唐突に意識させられた。言うまでもなく、幽霊との関わりを避けていたからだ。それが決して恐怖からではなく、むしろ無力感がなせる歯痒い選択であった事実を、由はずっと悔いてきたのだった。
そうして二の句の継げなくなった由を、克はどう見たのだろう。どうやら何か罪悪感のようなものに駆られたらしく、ばつが悪そうに頬を掻くと、ぼそぼそ下手くそな慰めを弄した。
「……なあ、責めてる訳じゃないんだ。誰にだって不注意はあるし、次から気をつければいい。もし、仮に、また何か起きたとしても、今度は俺がついてる。だから、」
―――だから。その後には何と続いたのだろう。
由が顔を上げた時にはもう、克の姿は消えていて。代わりに青白い陽炎が尾を引いて、暗闇にけぶる街角の景色を歪めていた。
砂利の擦れる音と、苦悶の呻き。獣の咆哮が追従する。
雲霞に滲む月の下。燃えがらに燻る煙の如き、朧な四つ足の獣が、克を組み敷いていた。
第一話もついに終幕へ。次回、克vsかぶきり小僧。乞うご期待。