1.おかしな同級生
まずはそんな、静かな一幕から
しとしとと梅雨の足音が迫る、五月の暮れのことだった。
濡れそぼった町は星空のように煌めき、蒸し暑い夜を彩っている。高校二年生になる少女、神薙由は、その街角の古本屋を訪れていた。参考書を買うためではない。だから来客の場違いな瑞々しさに驚いている店主には一瞥もくれず、由はぱたぱたと雨の残り香を零しながら、目的の人物に近づく。
「眞苅くん」
その涼やかな容姿に対し、由の声は弾むように朗らかだった。口元には人好きのする笑みが貼りついている。
しかし名を呼ばれた少年、由の同級生である眞苅克が、その野良犬めいた顔を上げることはない。射竦めるような視線だけが、黙々と文字列を追っている。
「帰ったんじゃなかったのか」
問いかける言葉も淡泊だった。
一瞬呆けた由だったが、どうにかこうにか愛想笑いを浮かべる。
「気づいてたんだ……」
「クラスメイトの顔くらいはな」
「あ、無視したわけじゃないのよ? ただ眞苅くんは立ち読みに夢中だったし、ガラス越しに挨拶するのも馴れ馴れしいかなって」
「そうか」
「あー、うん。そう……」
会話は上滑りするばかりで弾まない。当然だ。なぜなら克の受け答えには、端から会話をしようという気遣いがない。
拒絶というほどではないし、煙たがられてはないと思うんだけど……と、若干の不安に揺れつつ。由は早々に本題を切り出すことに決めた。
「体調はもう大丈夫なの?」
克の黒く強情そうな眉が、訝しむように顰められる。
「ほら、眞苅くん今日学校休んだでしょ?」
補足すると、ああ、と克は納得して、途端に気の抜けた顔をした。
「面倒だからサボった」
なんて、あっけらかんと訳を明かす。
これには由も言葉を失った。由の奇特なお節介に対し、嫌味を言うでもなく、開き直るでもなく、ここまであけすけに物を言う人は初めてだったのだ。
気勢を削がれ、由はうんとかそうとか曖昧に頷く。非行に走っているのであれば咎めるつもりだったし、なにか事情があるのなら話くらい聞くつもりだった。しかし出鼻を挫かれればそうもいかない。このまますごすごと退散するのも居た堪れず、由は何くれとなく、手近に積まれた本を取った。
書影には『ムササビ大全』とある。新書判のそれはムササビの生態を引き合いに、人生のいろはを説いていた。一冊しかないあたり売れなかったのだろう。ぱらぱらと捲ってみたものの、由の興味は引かれない。
「……それは?」
克が不意に問いかけた。由の無意識は蹂躙される。
「え、あ、これ?」
どぎまぎしながら、由は右手に提げていた布地のエコバッグを掲げた。
「今日のお夕飯。えっと、買い物ついでに戻ってきたんだ」
「レジは? 通したのか」
重ねられた問いはまるで謎かけのように要領を得ない。なのに克の声音には、有無を言わさぬ迫力があった。訳がわからず困惑しながら、とりあえず由は言葉が口を突いて出るに任せる。
「当たり前でしょ。これは必要な物なんだから」
動揺のあまり、自分でもよくわからない答えだった。
「……そうか」
しかし克は小さく嘆息すると、再び読書に没頭する。その横顔はどこか安堵しているようにも見えた。どうやら意図を説明してくれる気はないらしい。
だから由は、何をそんな熱心に読むことがあるだろう、と本の内容ばかりが気に掛かった。そっと表紙を覗き込むと、『常衆百物語』と達筆で書かれている。全国各地に口伝される怪異を、識者が編纂したもののようだ。
「……まだなんか用か」
戸惑いの滲んだ声に由は視線を上げる。ささくれた表紙の向こう側に、茶色がかった黒目があった。両目とも怪訝そうに細められ、由の冷涼な眼差しを捉えている。目が合ったのだと理解するや否や、由はどきりとして、慌てて上体を起こした。
「あ、ごめん。もう行くね」
端的に非礼を詫びて、踵を返す。彼の深い思慮を湛えた黒瞳が、脳裏にこびりついて離れなかった。由は今すぐにでも走り出したい気持ちに急かされ、足早に出口へ向かう。
「おい」
だが、克がそれを許してくれない。
由は反射的に立ち止まってから、無視すればよかった、と後悔した。
彼女自身、どうして自分がそんなにもここを離れたがっているのかいまいち理解できていない。胸中にあるのは悪事を見咎められた時のような後ろめたさばかりだ。けれどその由来も知れないから、確かなのは一刻も早く立ち去りたいという焦燥だけだった。
克の落ち着いた言葉が、振り返れない由の肩を引き留める。
「それ、置いてあったのここだぞ」
視線を感じた左手に、由もそっと目を落とした。デフォルメされたムササビのつぶらな瞳に、強張った少女の顔が映り込んでいる。
「あ、そうだった」
『ムササビ大全』を陳列棚に戻す。由は言い知れぬ安堵を覚えながら、間抜けな失敗を恥じるように照れ笑いを浮かべた。
「それじゃ。また明日ね、眞苅くん」
「ああ」
由がようやく振り返ると、克はもう立ち読みに戻っている。こちらが見えているのか定かでないその横顔に一応手を振ると、返事も待たず、由はパッと身を翻した。
夜の目抜き通りに赤い傘が躍る。街灯に白むその姿が見えなくなるまで、克は本の縁から、ずっと見送っていた。