第5回:死を忘るなかれ(メメント・モリ)
講義開始の鐘が鳴る。教授は表情筋を特に変えることなく、僕らに言った。
「今日から六角ボルトの図面作成に入ってもらいますが、皆さん…勉強はしましたか?」
幾ばくかの学生にとっては、血の気の引くようなセリフだったろう。何せ、今から教授は勉強してきた体で話を進める。自分で学習するように先週指示は出ている。勉強していないと教授に知られれば、間違いなく生命活動に影響が出ることだろう。
「勉強してきた体で話を進めますからね。なので、尺度、寸法に関する話は飛ばします。これに関しては自分で学習するよう先週言いましたから」
僕が心で思ったことを、教授は皆の前で言う。教室に一瞬のざわめきが走る。
かく言う僕は、昨年の真っ赤にチェックの入った図面を見返し何がいけなかった、何が足りなかったかを調べるなどしていた。準備はできている。
さぁ、トレーシングペーパーの貯蔵は十分だぞ?と図面を描く気持ち十分で意気込んでいると、教授は言った。
「しかし、再履修の人はともかく…初めてこの講義を履修する学生の皆さんにはまだ教えていないことが多すぎます。まずはその説明を軽くしてから、作業に移ってもらいましょう」
そう言って教授は寸法公差についての話を始めた。
寸法公差、寸法許容差とも言うが、大雑把に言うと「与えられた寸法から作る時どれだけ離れてても許してくれる?」というものだ。
例えば、30㎜の長さで切ってください、なんて指示がされたとする。その時30㎜ピッタリに切ることができれば一番良いが、それは非常に困難な話だ。
というのも、いつかの講義で説明があった通り、機械系の世界では1㎜は非常に大きな値である。0.1㎜、0.01㎜の世界を意識しなくてはならない。精密加工の世界ではもっと小さな単位でものづくりが行われる。そして、細かいところを突き詰めると、非常に高度な技術が必要になり、手間が増え、お金がかかる。
その為、図面にはそれぞれ寸法許容差が必要だった。作る人は図面通りにしか作らないのだから。
「これは図面を描く人が決めなければならないことです。設計者の気分で決められたら大変なことになりますからね」
許容差を作る側が勝手に決めて良いとどうなるか考えてみるといい。
「図面にゃ30㎜にしろって描かれてるけど、昨晩飲んだ後で二日酔いがひでぇな!あぁ~手元が震える!おっと、測ったら38㎜ありゃぁガハハハッ」
なんてなっておかしくない。いや、これはあくまで僕個人の妄想の類なので別に何かがあるわけではない。そもそも加工機を使う時はそんな適当にやったらケガをする。下手すれば死ぬので根本が間違っている点は置いておいて欲しい。
つまり、許容差の指定がないと、大変なのだ。穴に通す部品も穴に通らなくなるし、ピッタリ組み合わせるべき部品もガバガバの隙間が生じることになる。もはや製品なんてできなくなるのだ。
しかし、決めろと言われても僕らのような知識量の少ない学生には太平洋のど真ん中に浮き輪と共に放り投げられたような不安を駆られるだろう。ましてや全ての寸法に許容差を記載していては時間はかかるし図面はゴチャゴチャしてしまう。何も知らないと、もう一体どうすりゃいいんだ!と投げ出したい気分になる。
しかしそんな僕らの不安を拭う頼れる相棒が僕らにはちゃんとついていた。
日本工業規格だ。(なんだっけそれ?と思った読者は2話くらいから読み直して欲しい)
JIS規格の中には、寸法に関する普通公差に関する規格があるのだ。
この規格は加工法によってそれぞれ決まっている。これは、加工法によって許容差は大きく変わるからだ。加工法によっては、許容差が絶対に生じてしまうものがある。それにも関わらず、精度を要求されるとひどくお金がかかってしまう。同時に「こいつは何やってんだぁ…?」と周りから馬鹿にされる可能性がなくはない。なので、このことに関してはしっかり頭に入れておく必要がある。
ただ、このJIS規格を図面に入れておけば万事OK!というわけではない。規格の中にも種類「公差等級」というものがある。これをしっかり規定しないと「JIS ~ ~ってのはわかるが、それのどれだよ」と作る人が困るので、そこまできっちり指定しておかなくてはならない。
また、「んじゃJIS規格の中で良い感じの探して使えばいいんだろう!」と脳みそをすっからかんな状態で図面を描き始めると時にとんでもない間違いを犯すことがある。単位だ。先ほどいった公差等級だが、表でまとめて表示してくれていたりする。その表の数値がどんな単位で描かれているのかのチェックを怠ると死ぬ。単位は㎜か?μmか?これだけでかなり大きな違いだ。
それだけ説明すると、教授は「後は教科書の~ページを見て自分で勉強して」と言って課題の説明に移った。
「今日は…皆さん予習をしてきていると思いますが、六角ボルトの図面作成をしてもらいます。確認ですが皆さん六角ボルトって知っていますか?」
これは何の捻りも思惑もない、純粋な教授の質問だった。曰く、毎年いるらしい。六角ボルトを知らない学生が。
「知ってますよね…?毎年不安になるのですが…六角形の頭があって、ねじがついている…あ、ねじって何かも知っていますよね?いや、知らないならこの場で手を挙げてくださいね?ちゃんと説明しますから」
流石にこの教室には手を挙げる者はいなかった。
それを確認して教授は安心したのか口角を少し上げた。
「それでは説明に移りますね。皆さんが六角ボルトとねじがどんなものか知っていることを頭に入れて説明します」
まず、六角ボルトだが、なぜ六角ボルトの頭の部分が六角形をしているのかを考える。
これは、ボルトを締める際に力を込めて締めるようにする必要があり、スパナやモンキーレンチといった工具を使って締められるように六角形をしている。そのため、設計する際に絶対に外してはいけないのが「頭の六角形は正六角形である」ということだ。
世のスパナやモンキーレンチは六角ボルトの頭は正六角形になっていると信じて作られている。その為、六角ボルトの頭だって正六角形でなくてはならない。
正六角形ではないボルトを作ると、そのボルトを締めるために今度はレンチの設計でもするのか?となる。その六角ボルトの頭が正六角形ではないことに意味があるのであればそれは多少は考えるが、意味もなく正六角形ではない頭を描いてはいけない。
また、正六角形であるのならば正六角形で描かなくてはいけない。1㎜も0.5㎜も狂ってはいけない、全部の辺の長さは同じになる。
他にも、主投影図を決めて描くことや、まずは中心線を引いてから作業を始めること、左右のバランスに気を付けて描くこと、など注意する点を教授は挙げた。
「でもね、細かい注意は挙げたらキリがないんだ。だから、あとは自分でしっかり勉強してください。ねじの部分も描き方はありますし、表題欄には何を記載するのか、といったことも」
事前に配布されていた資料を見れば、大概の事は描いてある。資料を熟読すれば自ずと答えは見つかるのだ。
それから教授は学生にねじの呼びと呼び長さを支持する。
それを聞いて作業が始まる。
再履修は、昨年自分に与えられたねじの呼びと呼び長さで図面を描く。
僕はトレーシングペーパーを製図板に貼る。
…
「ルールだけで描いても意味はありませんからね。しっかりと作る人の立場になって描いてくださいね」
「1本でも線が増えると、作業は遅れるんです。よく考えて描いてくださいね」
「線はあるものとして考える、このことをちゃんと意識してください」
「「関連寸法の集中記入」ということを忘れずに。首を動かすのと目を動かすのであればどちらのほうが時間のロスが少ないか…」
図面を描いている最中でも教授は適度に説明を挟んでくれる。ホワイトボードに正六角形の描き方を図示してもくれた。
そうこうしているうちに、講義終了の鐘が鳴る。僕の図面は完成はしていない。
「それでは図面を剥がして提出してください。本当ならば来週もこの課題の続きをやるので、製図板からは剥がさない方が精度が保たれて良いんですけどね。来週はまず午前中の人が皆さんの製図板を使いますので、仕方ありません」
来週、僕は図面を完成させよう、と当たり前のことを思ってその日は終わった。
日に日に作業が増え、文章にまとまりがなくなりますね。