道、その果て
話に脈絡がありませんが、個人的に深みのある作品になったかと思います。どんな味になっているのか、感想としてお伝えいただけると幸いです。
長い一本の道が、そこにあった。
雲、などという存在はその空には無い物だ。濃い青色が、蓋をかぶせたように世界を覆っている。
地平線までそこには何もなく、三百六十度見回してみても大地の緩やかな丸みがよく分かる。その地上は短い草が一面生えそろった広大な草原で、たった一本の土の道が走っている以外は何もない。
風は殆ど吹かない。纏っている服をたなびかせる程度のものは吹くが、意識するようなものではない。暑くも寒くもないそこでは、その風は無視しても差し支えない存在だ。
数多の人間は、その世界を見るとこう表現するかもしれない。
『時の止まった世界』と。
一人の老人が、どこまでも続くその直線を歩いている。苔色のズボンと上着はボロボロで、長い間着替えていないと見てとれる。だが唯一、彼の被っている帽子だけは、まるで新品のように鮮やかな青色を保っていた。
それは、空と同化してしまいそうなほどの輝き。
世界の嫉妬、なのかもしれない。唐突に吹いた一陣の風は、彼の進行方向と逆に吹いて帽子をさらっていった。
「ああ、しまった」
老人はさして慌てた様子もなく、後方に流れていったその帽子を拾うべく振り返った。だが、帽子はすでに道の遥か果てに転がって行ってしまった。取りに行くのは彼にはなかなか酷な運動だ。
「やれやれ、珍しく風が吹いたと思ったらこれだ」
まだ遠くへ転がって行こうとする帽子を、老人がようやく拾いに向かった。だが、まだ帽子の方が足が速い。
誰かの足に帽子が当たり、そして拾い上げられる。
「この帽子、爺さんのか?」
帽子を拾ったのは、老人と同じような格好をした青年だった。
決して愛想がいいとは言えない。帽子を持ったまま、感情を感じさせない顔で老人を見据えているのだ。
「ああ、すまないね」
帽子を突きだしながら近づいてくる青年に、老人は笑顔で会釈をした。そして帽子を受け取ると、大事そうに深くかぶり直した。
「気をつけな。あのままだとどこまで飛んでいったか分かったもんじゃない」
「ああ、そうだな。君がいて助かったよ、ありがとう」
お礼を言いながら老人は、道の脇に腰をおろしてしまった。大地は平坦なので、別に休むのに都合のいい機会があったわけではない。だからなのかもしれないが、老人はそこに座ることをそれほど奇異な行動と考えていないようだ。
「私は疲れたのでね、少し休ませてもらうよ」
目の前に立つ青年に、老人は別れの挨拶の意もこめて手を振った。
「そうか、それは奇遇だ」
だが青年は、老人と道を挟んだ反対側に同じように座り込んでしまった。
「俺もちょうど疲れたところだ。少し休ませてもらう」
「そうかい」
老人も余計な詮索はせず、頷くだけでその会話を終わらせた。お互いに水戸の外側を向いて座っているため、相手の顔は見ていない。
「しかし、木の一本でも生えていてくれれば寄りかかって休めたのだがな。そう上手いことはいかんか、この世界では」
首だけを動かして老人が青年の方を見たが、青年は後ろに手をついて空を見上げていた。今の老人の言葉を聞いていたのかは分からないが、何の反応もする気はなさそうだ。
老人の小さな溜息が僅かに音を創り、その後は会話も独り言もなく時間が過ぎていった。
「さて」
老人が立ち上がった。
「私はそろそろ行かせてもらうよ。君は、もう少し休んでおくのかい」
青年は最後に見た時と変わらない姿勢で空を見ていたが、その呼びかけでようやく視線を空から外して老人を見た。
「いや、俺もそろそろ出発させてもらう。十分休んだ」
青年は立ち上がり、ズボンについていた僅かな土をはたき落とし始めた。尻のあたりを数回パンパンとはたき、大きな欠伸を一つしてみせて作業は終了した。
「そうか。なら、君は先に行ってしまうのだろう。私はこの年だ、それほど速くは歩けまい」
老人が歩き出すと、青年もほぼ同時に歩きだした。
老人はすぐに彼の姿が見えなくなることを想像していたのだが、その姿はいつまでたっても老人の横から前に進まない。見ると、青年は老人と同じペースで歩を進めている。明らかに老人の歩行速度は遅いと分類されるだろう。だが、青年はそれと同じペースで歩いている。
「別に私に気を使わなくてもいいんだよ」
「使っていない」
青年はまったく老人を見ない。ただ前を向き、その先を見つめている。
「この道を歩くペースは自由だ。君ならもっと早く歩いていられると私は思うのだが」
「急ぐ旅じゃない。俺は俺の好きなペースで歩いているだけだ」
「そうかい」
老人は僅かに嬉しそうに笑うと、そのまま自身の好きなペースで道の先を見つめ直した。それ以上青年に何か言うのは無意味だと悟ったようだ。
長い直線。果ては見えない。
「爺さんは、この道の先に何があると思う?」
休息をとっていると、意外にも青年の方から老人に話しかけていた。太陽という概念はその空には無く、いつまでも真昼のような明るさが保たれている。
つまりは昼夜の境目が無いということになるが、彼らは疲れこそ感じても空腹や眠気は一切感じていない。そしてそれを不思議に思うことなく、ただ歩き続けている。
「さあ、なんだろうな」
座ったまま老人が首をかしげる。
「私の欲しているものがあるかもしれんし、誰も望んでいないものがあるかもしれない」
寂しそうな表情をして、しかし僅かに笑顔をにじませていた。
「本当は何があるのか、それは誰にも分からんよ。分からないからこそ、こうやって迷うことなく歩いていけるのだろうが」
「じゃあ爺さんは、なんのために歩いてるんだ?」
青年は積極的に質問を続けた。急に口の軽くなった彼に老人はやや驚いているようだが、それでも落ち着き払っているようにしか見て取れない。
「なぜかな、それは本当に私にもわからん。心のどこかで感じているなにか、使命感のようなものが私を歩かせるんだ。変なことだと思うが、それに逆らう気はないよ」
「そうか。変わっているな、爺さんは」
青年が初めて、老人に笑って見せた。
「自分の好きなようにこの道を歩く。それでいいのではないか?」
老人も力強く笑って見せた。
二人して笑いながらお互いを見つめあった後、重なった溜息で唐突にその笑顔が消える。
「この道は、何なんだろうな」
青年は、落ち込んだような表情をしていた。老人は答えず、ただ黙ってうつむいていた。
のんびりと歩き、疲れたら休む。その繰り返し。
青年は老人を置いていくことなく、そのゆっくりとしたペースに合わせていつまでもついて行っている。いつの間にかそれが当たり前になっていて、青年も老人もその道を独りで歩きだすようなことはしようとしない。
「一つ、聞いてもいいかな」
老人だ。
「以前君は私に、何故この道を行くのか聞いてきたな。私は分からんと答えたが」
青年は無言で頷く。やはり老人の方は見ていない。
「君はどうなのかな?何故この道を歩いているのか」
「さあ、な」
肩をすくめてようやく老人と目を合わせた。その質問にはしっかりと答えようとしているらしい。
「正直なところ、俺も分からない。なんでこの道を歩いているのか、なんで歩き始めたのか、なにも思い出せないんだ。歩いていることしか覚えてない」
「私もそうだ。なぜこの道を歩き始めたのか、その動機が思い出せない」
「爺さんに聞いたのは、どこかで不安だったからかもしれない。誰かのそれを聞いておこうと、無意識に思ってたんだな」
ふと、老人が歩みを止めた。感情的になったわけではなく、何も変わらない笑顔で青年を見つめているのだ。つられて青年も足を止める。
「どうかしたのか」
「私は、この道は人生そのものだと思っているんだよ」
「人生?」
明らかな疑問符を浮かべる青年に老人は深く頷いて見せる。
「この道の先に何があるのか私たちは知らない、しかし歩くことはやめない。何故歩いているのか、それは心の内の使命感のせい。私は、まるでこの道を行くのが人生を謳歌しているように思えてならないんだよ」
「うーん…確かに、人生ってのはそんなものかもしれないな」
「君は変わっている。私のような老いぼれに声を掛け、ずっと付き添って歩いてきた。私とペースを合せ、一緒に歩いてくれた。そんな人間など、もういないとさえ思っていたのに」
「俺の好きなペースで歩いてるだけだって言ったろ」
それは明らかな照れ隠しだったが、老人はすべて分かっているかのようにただ頷いている。
「きっとこの先には、君の望んだ物があるのだろう。私が保証するよ」
「爺さんの望む物は無いのか?」
「いや、もうあったんだよ」
質問を返そうと青年が口を開くが、それを老人が手で制した。何が聞きたいのか、何を答えなければならなくなるのか、老人はすべて分かっていた。
「私は、ここまでだ。もう歩くことはできない」
「そんなに疲れたのか?俺は待つぞ」
「いや、君だけで行きなさい。私はもう二度と、歩き出すことはできないようだからね」
青年は無表情だった。老人の言っていることが分からないのか、固まったまま動こうとしない。
「私はね、最後にだれか話し相手が欲しかったのだろう。君との出会いは本当に偶然だったが、おかげで最後は良い旅路になった」
「爺さん、何言ってるんだ?」
「言ったろう?この道は人生そのものだと。私の旅はここらでお開きらしい。君はまだ、もっとずっと先まで行くことができるのだろうが」
老人は笑っていた。旅の後輩に向かって、最期の心得を託すために。
「君はこれからさまざまな経験をし、出会いや別れも経験するだろう。私もそうだったからね。その一つ一つが君にとってかけがえのないものとなり、ひいてはこの旅の目的、この道の終着点を決めていく。私の場合は、ここが終着点のようだが」
そこは他と何も変わっていない、ただの道だ。青年にとってはまだ途中にすぎない場所なのだが、老人はその座った場所から全く動こうとしない。
「この道で君に何が起こり、何を感じるのかは誰にも分からない。ひょっとしたら喜びかもしれないし、悲しみかもしれない。だがそれは、決して君が独りでは得ることの出来ないものばかりのはずだよ。歩いている限り、それは絶えることなく君に訪れるだろうね。それが人生…いや、旅の醍醐味なのだから」
老人に向かい、青年は無言で笑顔を見せた。ぎこちない笑顔に、老人は苦笑いをする。
そして、老人は消えた。その道から姿が、消えた。
青年はしばらく立ち尽くしていたが、老人が旅を終えたのだと分かると、彼のいた空間に向かって頭を下げた。
そして青年は歩き始めた。
自分のペースで。
好きなように。
そこは確かに『時の止まった世界』かもしれない。だが、そこを行く人たちは誰一人として立ち止まることはない。
たとえ時が止まっていようと、その道の先に何かがある、そう信じているから。
「あの、こんにちは」
のんびりと歩く彼に、後ろから話しかける声がする。