全部、水分。
朝食を終えた余韻の後、一紀は景の片付けを手伝おうとした。
机に残った食器を下げると、景に困った顔をされる。
「いいよ。難しいことじゃないし、シンクも広くない。それより、早く出かけてきたら? ねえ、仁」
「んー、そうだな」
仁はグッと背筋を伸ばす。なんだか面倒くさそうだ。
「あぁ、食料買ってきてね? ほとんど使っちゃったから」
「あいよ。行くか、一紀」
「あ、はい!」
仁に続いて事務所を出ようとしたところで、一紀は思う。
何を買い揃えればいいのだろう? そもそも、どこに住むのか?
「自分には何が必要なんでしょうか?」
「ん? ああ、服と布団くらいだな」
「ああ……」
どこまで質問しようか悩んだまま、一紀は納得のいかないような顔をする。その表情を見て、仁は頭を掻いた後にこう提案をした。
「寝床が気になんなら、見て行くか?」
「いいんですか?」
「問題ねえよ。片付けておいたからな」
ほら来い、と鍵を振り回す仁は事務所を出て、そのまま階段を上がって行く。
思っていた以上に近い場所だった。
「ここだ。四階が俺たちの部屋になってる。こっちではちゃんと靴脱げよ……って、生粋の日本人に言うのもおかしいか」
「あはは……ええ、ご心配なく」
「ほら、入れ」
「お邪魔しまーす」
「おめぇも住むんだっての」
「はっ」
「フッ、ハハハ……」
仁は笑いを堪えて、いや堪えられていないが、とにかく壁の方を向いてしまった。
どうしようもなくなった一紀は、とりあえず中に入ることにする。
「広っ」
玄関から広かった。
それもそうだろう。三階の事務所と同じ面積の部屋だ。
靴を脱いで上がり、ドアを開けてみるともちろん広々とした空間――本当に生活空間なのか、ここは。ソファも机もないじゃないか。
唯一あるのは、キッチン横のカウンターとバーチェア二脚くらいだ。モデルハウスを見に来た気分になる。
「おい、何か変なモンでもあるか?」
仁が遅れて部屋に入ってきた。何事もなかったような顔をしている。
いや、きっと何事もなかったのだ……笑いを引き起こした元である一紀はそういうことにした。
「いえ、逆です。物が少ないなって」
「あー、そうだな。ほとんど事務所で過ごしちまってるから、ここに物が必要ねぇっていうか」
「もしかして、毎日の食事は事務所で……?」
「いや、ここでも食うぜ? たまにだが」
たまに、だった。
「ついでだから、いろいろ教えといてやるよ。まず見て分かると思うが、入って右にあるのはキッチンだ。そういえば事務所と配置が逆だな」
「冷蔵庫の中は」
「んあ? 昨夜の時点では、酒、茶、水、牛乳……」
全部、水分。
彼らはたまにどころではなく、ほとんどここを使っていないらしい。寝に帰っているだけだろう。
「次いくぞ。左っ側は便所や風呂がある。詳しいことは後でいいな。よし、次だ」
彼は手短に済ませるぞといった速さで話しているが、正直なところ時間のかかる部屋ではない。
「玄関抜けて正面、ここは各部屋だな。右から景、おまえ、俺」
「真ん中ですか」
「真ん中ですよ」
「っ? っ?」
突然の敬語に一紀は固まった。「似合わない」を通り越して、もはや「恐ろしい」。
「……悪い。まあ、入れ」
言葉が出ないまま、言われた通りに部屋へと入る。
置いてあるのは、ベッドとタンスのみの洋室だ。
「ここを使っていいんですか?」
「ああ。綺麗になってるだろ?」
「ありがとうございます」
「分かったか?」
「はい! 行きましょう、買い物」
「おう」
事務所の前を通り、階段を降りていく。
仁が通りかかる頃に、ちょうど景が出てきた。互いの持った鍵を交換して、何か言葉を交わしている。
「探偵か……」
真っ直ぐな仁、掴み所のない景――探偵としては、いいコンビだ。
「あ、いってらっしゃい?」
景がニコッと微笑んでくる。一紀は下から引きつった笑いで返した。降りてくる仁がギョッとした顔をする。
「ひっでぇ顔だぞ」
「き、気のせいでしょう」
「ふーん、行くぞ」
階段を降りると、隣の土地に向かった。そこは、駐車場になっているようだ。
「車ですか」
「そうだ。距離もあるし、量もある。乗れ、置いてくぞ」
景から受け取っていた鍵は、車のものだったらしい。
仁がエンジンを付けたシルバーの車に乗り込む。アニメで見たような古い仕様の車だ。
「古い型の車っぽいですね」
「さあな。この町自体、一紀にとっては昔のようだろ」
「まあ、否定はしないです」
「4年はでけぇよ本当に」
「はい」
「折りたたむ携帯電話とやらができたと思ったら、なんだ、こう、直接画面に触れて操作するやつになってるしよ」
「ああ、一気にガラケーからスマホになりましたね」
「ガラケー?」
「折りたたむやつをそう言うんですよ」
「ほーう」
仁は唐突に車を発進させた。一紀は慌ててシートベルトを着ける。その文化もないようであった。タイムスリップしたようで、本当に慣れない世界である。