行き詰まったら
2 苦難の決断
その夜、一紀は仮眠室を借りて睡眠を取った。
朝起きて、目に飛び込んできたのは仮眠室の質素な壁だ。何も変わっていなかった。
これは夢ではなく現実のことだ。アリスのような不思議の国じゃない。夢じゃない。
「はぁ……」
ベッドから起き上がる気になれない。自分は何をすればいいんだろう。この世界で、できることはあるのか。そもそも、この世界に来た意味があるのか、ないのか。
カチッ。
事務所の方で鍵の開く音が聞こえた。仁か景、もしくはその両方が入ってきたのだろう。
「ん、一紀はまだ起きてないのか」
「放っておきなよ。あの子だって、疲れているだろう」
「別に起こしに行こうとかしてねえからな?」
「へえ?」
二人ともだった。
喧嘩でもしたのか、声色がギスギスとしている気がする。
正直に言うと、起き上がる気が本当に失せた。これは二度寝コースだ、そうしよう。
「朝食、どっちが作るんだっけ?」
「景だ」
「……そうだっけ?」
「文句あんのか?」
彼らはそんなに仲が悪かっただろうか。だんだんと心配になってきた。
やっぱり起きよう──そう思って、おそるおそるドアノブに手を掛け、ゆっくりとドアを開ける。
ん、なんだろう……聞き覚えのあるフレーズのようなものが聞こえたぞ?
仮眠室から出て、事務所に向かってみる。彼らはソファの後ろで向かい合って立っていた。
「ハハッ、俺の勝ちだな」
「あーあ、今日は俺だね」
「…………」
仁と景の姿を見た一紀は、まず言葉を失った。
何をやっていたのだろう、その手はどう見ても「グー」と「チョキ」だ。
……そんなものは、じゃんけんに決まっているじゃないか!
「おう、一紀。おはよう」
仁が先に気づいた。一歩遅れて、景も一紀に朝の挨拶をする。
「おはよう」
「おお、おはようございます」
「ふふっ、ははは」
「っ」
景に挙動不審さを笑われてしまった。彼はそのまま楽しそうに、キッチンで朝食の支度を始める。
「どうした、一紀」
「あっ。い、いえ」
彼らとじゃんけんがあまりにも違う次元に思えて、ついボーッとしてしまったことを誤魔化す。しかし、仁の怪訝な顔が苦しい。
「あー……お二人も、喧嘩やじゃんけんをするんだなぁと」
「あ? ハハッ、そんなことかよ。言葉を失うほど変か?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
「行き詰まったら、じゃんけんだろ。それが一番いい。あと喧嘩は……元々、俺と景はそこまで息が合わん。やり方の違いで争うのは珍しくねえことだ」
「そうなんですか」
「ああ」
会話が途切れると、仁は左のデスクに腰を掛けて、卓上の資料を取って眺め始めた。
手持ち無沙汰になった一紀は、ひとまずソファに座る。だが、気まずい。
真っ直ぐに前を向いていると、顔を上げた仁と目が合いそうだ。
と考えているそばから、目が合ってしまった。
「寝れたか?」
「あ、はい。夢を見たかどうかも覚えてないくらい、ぐっすりと」
「それはよかった」
彼は何かと気に掛けてくれる。面倒見がいいのだろう。物騒な雰囲気にはまだ慣れないが、仁とは普通の会話を交わせている気がする。
一方で景は──まったく、人物像が掴めていない。柔らかな物腰かと思いきや、影のかかった笑顔を浮かべるし。人の気を無視した客観的な発言や、冷静な判断をすばやくできる割には、感情のままに喧嘩をしたりもするらしい。
本当に良く分からない。
「ねえ、手空いてる?」
景がキッチンから呼びかけた。仁が無視しているということは、自分だろうか。
「自分は空いてます、暇です」
「そっか、よかった。じゃあ、手伝ってくれる?」
「はい、もちろんです!」
複雑な気持ちはとりあえず置いておく。出会って、まだ一日しか経っていない。理解には足りなすぎる。
「まず、これで机拭いて」
「分かりました」
布巾を受け取り、景の隣に立つ形でそれを濡らして絞る。
チラリとフライパンの中を見ると、そこには卵があった。クルッと何かを包み込んで、器用に形を整えて焼いている。
「美味しそうですね?」
「好みの味は分からないけど」
「楽しみにしてます」
「そう」
彼は目を合わせなかった。やっぱりやりにくい。そう感じつつ、一紀はキッチンを離れた。
布巾で机を拭いた後、キッチンに戻ると景からどんどん指示が飛んでくる。
「シンクの後ろの棚開けると、箸入ってるから適当に取って。色が違うだけで、どれも同じ」
「あっ、はい」
「一人分できた。これ置いて、仁呼んで」
「はい」
「ん、二人目。あとは俺のだけだから、席に着いてていいよ」
「分かりました」
景の無駄のない動きに圧倒されつつ、気づけば席に着いていた。ふぅと息をついていると、ポットを持った仁に呼ばれた。
「コーヒー飲むか?」
「はい、いただきます!」
「おう」
それからすぐ三人分のプレートが並び、いただきますと手を合わせる。
朝食のメニューは、サラダ、オムレツ、そしてバターロールと洋食風だ。
はじめに、オムレツを箸で割ってみた。とろっとした卵とネギや肉などの具が出てくる。
一口目を入れた途端に、一紀は驚いた。
「お、美味しいです、景さん」
「口に合ったようでよかった」
一紀が幸せそうな顔で言うと、景はふわっとした笑顔で答えた。
また調子が狂いそうである。