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Flow Light フローライト ~扉の向こうの物騒な世界~  作者: 久河央理
第1話 dangerous world ~不思議なくらいに物騒な世界~
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一紀の焦り

       **



 一方、事務所に残っていた一紀はしばらく考え込んでいた。ようやく落ち着きを取り戻し、ドアを開けて仮眠室から出る。


 もう外はすっかり暗くなっていた。これでどれくらいの時が経ったのだろうか。


 気持ちが晴れないまま、ふらっと事務所内を歩く。すると、明かりが一点のみついた薄暗い部屋で、机の上に書き置きを見つけた。


『冷蔵庫の中、好きにどうぞ。資料には触れないように』


 初めて見る字だ。おそらく、景のものだろう。仁とは違い、とめはねが柔らかい。その性格に反して、角のない字体だ。どこか裏切られたように感じる。見やすい綺麗な字で書かれているのも、妙にむず痒い。


「おなか減ったな」


 空腹を訴える胃に従い、書き置きの通りに冷蔵庫を開けてみる。しかし、中には卵や肉など食材しか見当たらない。


 料理はできなくもないが、ここの台所の使い勝手はよく分からない。つまり、できる気がしない。


「どうしよう」


 呟いてもどうしようもなく、一紀はソファの上に寝転がった。電子レンジのない環境に溜息を吐くと、また四年がのしかかって悲しくなってくる。


「はあ……」


 とりあえず目を瞑って、頭を落ち着かせることにする。こうしていても仕方がないのに、他に案がなかった。


 少し経つと、ドアがノックされて、誰かが一紀の名を呼んでいるのが耳に入る。


「八神、そこにいるか?」


 この声は仁だ。なんだろう、と一紀は首を傾げつつ、上体を起こして元気のない返事をする。


「はい。ここに、いますが……」


「いんなら、中から開けてくれねぇか?」


「分かりました」


 一紀は立ち上がってドアまで移動し、カチッと鍵を動かす。そのロックが外れると、仁はすぐにドアを開けた。


「悪ィ。冷蔵庫ん中、何もねえだろ? ほら、握り飯だ。好みか知らねえけど、とりあえず食えよ」


「ありがとう、ございます」


 差し出されたパックを受け取り、一紀はそれに目を落とす。形や容器から察するに、どこか店のおにぎりらしかった。わざわざ買ってきてくれたのだろうか。


 その優しさがぐっと染みて、なぜだか泣きそうになってきた。


「どうだ、少しは落ち着いたか? まだ元気は戻ってねえみたいだが」


「ああ、はい、なんとか……」


「なんだ、元から悩みでもあったのか?」


 図星を突かれ、一紀は息を呑む。余計な心配はされないよう、深く呼吸をした。


「……っ、まあ、そんなところです」


他人ヒトに言えねえモン?」


「いえ、そういうわけではないんですけど」


「誰かに話さねえと、スッキリしねえってこともあるだろ。ま、無理には聞かねぇがな。俺で良ければ聞いてやっから、いつでも声掛けろよ」


 やっぱり、黒須仁は悪い人ではない。一紀はそれを確信していいと思った。


「じゃあ……あの、仁さん」


「ん?」


 続きを一瞬だけ迷った。自分は身を寄せる立場だ、悩みまで聞いてもらうなど……と。

 しかし、仁はこう言ってくれたのだから、少しくらいのわがままは許されるだろうか。


「今、聞いてもらってもいいですか?」


「ああ。じゃあ、座るか。茶ァ入れるから、座って飯食いながら待ってろ」


「はい、ありがとうございます」


「おう」


 安堵の気持ちを胸にしまい、一紀はソファに座って待つことにした。そして、一つ目のおにぎりを頬張る。中身は鮭だった。


「おいしい……」


 行き着いた先が日本のような場所で、本当に良かったと思う。


 一つ目はあっという間に食べきってしまったので、二つ目のおにぎりも食べ始めた。今度はおかかである。

 それは特段珍しくもなく、家でも食べられた味だ。しかしながら、口内に味が広がると、この一瞬は旨みに包まれた幸せなものとなる。


「口に合ったンならよかった」


 おかかのおにぎりを食べている間に、緑茶が入ったらしい。一紀の食べっぷりに肩をすくめつつ、仁は机に湯飲みを置いた。


「ほら、熱いから気ィつけろよ」


「いただきます」


 ゴクリと最後の一口を食べきると、一紀は茶をもらってふーっと冷まして口をつける。


「今度こそ落ち着いたら話してみろ。最初、俺は口挟まねえで聞いてやる」


 仁は腕を組んで、一紀の隣にゆったりと腰掛けた。目を見て話す緊張感のないように、という彼なりの気遣いかもしれない。


「はい。ありがとうございます」


 一紀は温かい緑茶を、ホッと一息つきながら飲んでいく。安堵が染みわたるような感覚を得たことで心を決め、湯飲みをコトンと机の上に置いた。


「自分、怖いんです。置いていかれるってことが」



 何か一つの基準があって、それができないと「なんでできないのか」とか「そんなことではまずいぞ」とか言われてしまう。


 まずい――そんなこと、自分が一番よく分かっている。けれど「なんでできないのか」は分からない。

 なんで、できないんだろう。できないのはおかしい。何がいけない? なんでできない? できていいはずなのに、なんで……。


 変なプライドがあった。やっと気づいて、今度はそれを捨てた。確かに気持ちは楽になった。でも思ってしまう。


 ――やっぱり、置いていかれたくない。



「……だから、焦ったんです。どうしようもなく、時間が自分を置いていってしまうことに」


 一紀は言葉を切り、自分の拳をぎゅっと握った。


 その様子を横目で見て、仁は一つの疑問を投げかける。


「八神、おまえの基準はどこにある?」


「自分の基準……ですか? それは一般人の基準というか……」


「んなの考えてどうすんだ、ってのが俺の意見だな。たとえば、十人のド真ん中にいるやつが百人中でもド真ん中か? 十人中一番のやつが百人中でも一番か?」


「い、いえ」


「人が変われば、基準なんてすぐ変わんだろ。だから、関係ねえ。気にすることじゃねえよ」


「あ……その通り、ですね」


「できねえなら、自分自身だけを見てればいい。むしろ、おまえ自身を見ねえでどうする?」


「自分だけを……」


「そうだ。自分のペースでやることの何が悪い? 他のやつや周りのやつは気にすんな。どうでもいいって切り捨てちまえ。おまえはおまえだけの、八神一紀の時間を生きてんだからよ」


 刺さった。仁の言葉は心にぐさりと命中して、全身に染みこんできた。


 ――自分は一体、何に悩んでいたのだろう。


「……あはは、ははは……」

 ふいに笑いがこぼれてくる。今は思いっきり笑いたかった。


 一方で仁は軽く微笑んで、立ち上がってキッチンへと向かった。湯気は消えてしまったが、まだ温かみのある緑茶を湯飲みに入れて飲む。


「はは……ふぅ。あの、仁さん」

 ようやくスッキリとできた一紀は、立ち上がって仁を呼んだ。


「ありがとうございました。なんか、悩んでいたことがバカらしくなってきました」


「おう、解決すんのが俺たちの仕事だからな。だがいいか? これは勘違いすんな」

 悲しげに微笑む一紀の傍に、仁が歩み寄る。そして、ポンと優しく肩を叩いた。

「悩むのは悪くねえ。悩めるだけ悩みゃいい。大事なのはその後だ。そっから先に進んでかねぇと、全てが無駄になっちまう。そりゃもったいねぇだろ」


「そうですね。ええ、まったく。おかげで元気出ました」


「ふっ、ならよかったよ。今夜は寝れそうか?」


「ええ、大丈夫だと思います」


「仮眠室で悪いな。明日、買い出しに行こう」


「いえ。むしろ、本当に何から何まで……」


「気にすんな。巻き込んでるのはこっちだしよ」


 一紀が「巻き込んでいる?」と首を傾げたのを見て、仁は苦い顔をした。この場に景がいたら、また冷笑を買われていたかもしれない。


「なんでもねぇ。もう寝ろ」


「……? はい……あ、もう一ついいですか?」


「ん、なんだ?」


「よければ、ですけど……一紀と呼んでくれませんか?」


 自信なさげに顔を下に向け、やや上目がちに問いかけてきた一紀。性格の表れたその素振りに、仁はやれやれとうなじを押さえた。


「そんなこと、ちっとも構わねぇよ。……おやすみ、一紀」


「……はい。おやすみなさい、仁さん」


 仮眠室へと向かった一紀に背を向けて、仁は事務所を出る。


 いいところで鈍い一紀の性格に少し救われた思いをしつつ、彼は階段をさらに上がって、四階の部屋へと入って行った。




 それぞれ見上げるこの夜空は、気持ちのいいくらい晴れやかだった。


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