一紀の焦り
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一方、事務所に残っていた一紀はしばらく考え込んでいた。ようやく落ち着きを取り戻し、ドアを開けて仮眠室から出る。
もう外はすっかり暗くなっていた。これでどれくらいの時が経ったのだろうか。
気持ちが晴れないまま、ふらっと事務所内を歩く。すると、明かりが一点のみついた薄暗い部屋で、机の上に書き置きを見つけた。
『冷蔵庫の中、好きにどうぞ。資料には触れないように』
初めて見る字だ。おそらく、景のものだろう。仁とは違い、とめはねが柔らかい。その性格に反して、角のない字体だ。どこか裏切られたように感じる。見やすい綺麗な字で書かれているのも、妙にむず痒い。
「おなか減ったな」
空腹を訴える胃に従い、書き置きの通りに冷蔵庫を開けてみる。しかし、中には卵や肉など食材しか見当たらない。
料理はできなくもないが、ここの台所の使い勝手はよく分からない。つまり、できる気がしない。
「どうしよう」
呟いてもどうしようもなく、一紀はソファの上に寝転がった。電子レンジのない環境に溜息を吐くと、また四年がのしかかって悲しくなってくる。
「はあ……」
とりあえず目を瞑って、頭を落ち着かせることにする。こうしていても仕方がないのに、他に案がなかった。
少し経つと、ドアがノックされて、誰かが一紀の名を呼んでいるのが耳に入る。
「八神、そこにいるか?」
この声は仁だ。なんだろう、と一紀は首を傾げつつ、上体を起こして元気のない返事をする。
「はい。ここに、いますが……」
「いんなら、中から開けてくれねぇか?」
「分かりました」
一紀は立ち上がってドアまで移動し、カチッと鍵を動かす。そのロックが外れると、仁はすぐにドアを開けた。
「悪ィ。冷蔵庫ん中、何もねえだろ? ほら、握り飯だ。好みか知らねえけど、とりあえず食えよ」
「ありがとう、ございます」
差し出されたパックを受け取り、一紀はそれに目を落とす。形や容器から察するに、どこか店のおにぎりらしかった。わざわざ買ってきてくれたのだろうか。
その優しさがぐっと染みて、なぜだか泣きそうになってきた。
「どうだ、少しは落ち着いたか? まだ元気は戻ってねえみたいだが」
「ああ、はい、なんとか……」
「なんだ、元から悩みでもあったのか?」
図星を突かれ、一紀は息を呑む。余計な心配はされないよう、深く呼吸をした。
「……っ、まあ、そんなところです」
「他人に言えねえモン?」
「いえ、そういうわけではないんですけど」
「誰かに話さねえと、スッキリしねえってこともあるだろ。ま、無理には聞かねぇがな。俺で良ければ聞いてやっから、いつでも声掛けろよ」
やっぱり、黒須仁は悪い人ではない。一紀はそれを確信していいと思った。
「じゃあ……あの、仁さん」
「ん?」
続きを一瞬だけ迷った。自分は身を寄せる立場だ、悩みまで聞いてもらうなど……と。
しかし、仁はこう言ってくれたのだから、少しくらいのわがままは許されるだろうか。
「今、聞いてもらってもいいですか?」
「ああ。じゃあ、座るか。茶ァ入れるから、座って飯食いながら待ってろ」
「はい、ありがとうございます」
「おう」
安堵の気持ちを胸にしまい、一紀はソファに座って待つことにした。そして、一つ目のおにぎりを頬張る。中身は鮭だった。
「おいしい……」
行き着いた先が日本のような場所で、本当に良かったと思う。
一つ目はあっという間に食べきってしまったので、二つ目のおにぎりも食べ始めた。今度はおかかである。
それは特段珍しくもなく、家でも食べられた味だ。しかしながら、口内に味が広がると、この一瞬は旨みに包まれた幸せなものとなる。
「口に合ったンならよかった」
おかかのおにぎりを食べている間に、緑茶が入ったらしい。一紀の食べっぷりに肩をすくめつつ、仁は机に湯飲みを置いた。
「ほら、熱いから気ィつけろよ」
「いただきます」
ゴクリと最後の一口を食べきると、一紀は茶をもらってふーっと冷まして口をつける。
「今度こそ落ち着いたら話してみろ。最初、俺は口挟まねえで聞いてやる」
仁は腕を組んで、一紀の隣にゆったりと腰掛けた。目を見て話す緊張感のないように、という彼なりの気遣いかもしれない。
「はい。ありがとうございます」
一紀は温かい緑茶を、ホッと一息つきながら飲んでいく。安堵が染みわたるような感覚を得たことで心を決め、湯飲みをコトンと机の上に置いた。
「自分、怖いんです。置いていかれるってことが」
何か一つの基準があって、それができないと「なんでできないのか」とか「そんなことではまずいぞ」とか言われてしまう。
まずい――そんなこと、自分が一番よく分かっている。けれど「なんでできないのか」は分からない。
なんで、できないんだろう。できないのはおかしい。何がいけない? なんでできない? できていいはずなのに、なんで……。
変なプライドがあった。やっと気づいて、今度はそれを捨てた。確かに気持ちは楽になった。でも思ってしまう。
――やっぱり、置いていかれたくない。
「……だから、焦ったんです。どうしようもなく、時間が自分を置いていってしまうことに」
一紀は言葉を切り、自分の拳をぎゅっと握った。
その様子を横目で見て、仁は一つの疑問を投げかける。
「八神、おまえの基準はどこにある?」
「自分の基準……ですか? それは一般人の基準というか……」
「んなの考えてどうすんだ、ってのが俺の意見だな。たとえば、十人のド真ん中にいるやつが百人中でもド真ん中か? 十人中一番のやつが百人中でも一番か?」
「い、いえ」
「人が変われば、基準なんてすぐ変わんだろ。だから、関係ねえ。気にすることじゃねえよ」
「あ……その通り、ですね」
「できねえなら、自分自身だけを見てればいい。むしろ、おまえ自身を見ねえでどうする?」
「自分だけを……」
「そうだ。自分のペースでやることの何が悪い? 他のやつや周りのやつは気にすんな。どうでもいいって切り捨てちまえ。おまえはおまえだけの、八神一紀の時間を生きてんだからよ」
刺さった。仁の言葉は心にぐさりと命中して、全身に染みこんできた。
――自分は一体、何に悩んでいたのだろう。
「……あはは、ははは……」
ふいに笑いがこぼれてくる。今は思いっきり笑いたかった。
一方で仁は軽く微笑んで、立ち上がってキッチンへと向かった。湯気は消えてしまったが、まだ温かみのある緑茶を湯飲みに入れて飲む。
「はは……ふぅ。あの、仁さん」
ようやくスッキリとできた一紀は、立ち上がって仁を呼んだ。
「ありがとうございました。なんか、悩んでいたことがバカらしくなってきました」
「おう、解決すんのが俺たちの仕事だからな。だがいいか? これは勘違いすんな」
悲しげに微笑む一紀の傍に、仁が歩み寄る。そして、ポンと優しく肩を叩いた。
「悩むのは悪くねえ。悩めるだけ悩みゃいい。大事なのはその後だ。そっから先に進んでかねぇと、全てが無駄になっちまう。そりゃもったいねぇだろ」
「そうですね。ええ、まったく。おかげで元気出ました」
「ふっ、ならよかったよ。今夜は寝れそうか?」
「ええ、大丈夫だと思います」
「仮眠室で悪いな。明日、買い出しに行こう」
「いえ。むしろ、本当に何から何まで……」
「気にすんな。巻き込んでるのはこっちだしよ」
一紀が「巻き込んでいる?」と首を傾げたのを見て、仁は苦い顔をした。この場に景がいたら、また冷笑を買われていたかもしれない。
「なんでもねぇ。もう寝ろ」
「……? はい……あ、もう一ついいですか?」
「ん、なんだ?」
「よければ、ですけど……一紀と呼んでくれませんか?」
自信なさげに顔を下に向け、やや上目がちに問いかけてきた一紀。性格の表れたその素振りに、仁はやれやれとうなじを押さえた。
「そんなこと、ちっとも構わねぇよ。……おやすみ、一紀」
「……はい。おやすみなさい、仁さん」
仮眠室へと向かった一紀に背を向けて、仁は事務所を出る。
いいところで鈍い一紀の性格に少し救われた思いをしつつ、彼は階段をさらに上がって、四階の部屋へと入って行った。
それぞれ見上げるこの夜空は、気持ちのいいくらい晴れやかだった。