4分の1
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「ここだよ。この三階が俺たちの事務所」
足を止めた景が指で示した場所にあったのは、四階建ての建物だった。
この周辺は先ほどまでのイギリスらしい町並みとは違い、どこか日本らしい雰囲気が漂っている。建物の作りや配置の違いだろうか。
あちらは見渡す限り、どこも同じようなレンガ調の建築で、これまた同じような大きさの建物が多く並んでいた。
ここはどうかというと、やはり建物ひとつひとつがバラバラだった。何で作られているのかは分からないが、形も大きさも、どれにも統一性がない。これは一紀にも覚えがある。やはり、ここは日本だ。しかも、一紀の住む平成のものにかなり近い。
そういう場合ではないのだが、この気持ちをはっきり言葉にすると、「妙に落ち着く」になるだろう。地に足が着いているような感じで、心が自然と凪いでいる。
「八神、何ボーッと突っ立ってんだ?」
「あ、すいません!」
仁の後に続き、三階に直結している階段をのぼる。開けてもらったドアをくぐった先は、ザ・探偵事務所と言えるような光景が広がっていた。
「探偵事務所……?」
照明が点けられた部屋を見ても、その感想は変わらなかった。
ソファと机の置かれた相談スペース。窓を背にして配置された作業用デスク。パーテーションで区切られたスペース。なぜか本格的なキッチン――。
いかにも、想像にある「探偵事務所」らしい。
「その通り、ここは探偵事務所を名乗っているが……?」
「ねえ、二人とも入り口で立ち止まらないでくれる?」
仁が何か言いかけた時、後ろにいた景が冷たく遮った。それぞれで景に謝りながら、ソファに向かい合わせで腰掛ける。
「君たち、冷たい緑茶でもいい? 今はそれしかないんだけど」
「だ、大丈夫です」
「ああ。そっちは頼んだぞ、景」
景が茶を用意している間に、仁は真っ白の紙とペンを用意した。話したことをメモするのか、それとも何かを書いて説明するのか……。
「どうぞ?」
机に三つのガラスコップが置かれる。一紀は景へ礼を言ってすぐに、黄緑色の茶を喉に通した。冷たさと緑茶の甘みが口の中に染みていく。
「はぁ……」
やはり落ち着く。そういう場合ではないのに、落ち着いてしまう。
「八神、落ち着いてくれるのは結構だが……」
「はっ、そうですよね。すいません。お話をハイッ、どうぞ……?」
今の返しは変だったかもしれない。いや、きっと気のせいだ、うん。
一紀は自分に言い聞かせ、何かを書いている仁の言葉の続きを待った。
「まず、おまえのことを教えてくれ。名前、年齢、出身地、それと今日の日付を年月日で、この紙に書いてくれるか?」
「はい、いいですよ」
仁から渡された紙には、すでに「Yagami Itsuki/年齢/出身地/今日の日付」と丁寧に書かれていた。今さっき、さらっと書いていたものだが、彼の字は紛れもなく達筆だ。基本のとめはねがしっかりしていて、書写の教科書で手本ともなりそうなものである。
人は見た目と雰囲気で判断すべきではない。だが、どうして名前がローマ字なんだろうか。そこが僅かにだが引っかかる。
そう思いながらも、一紀は仁の書いた字の下に「八神一紀」と名前を書き入れた。それから、横に「十九歳/神奈川県/二〇一六年九月八日」と書いて、仁に紙を返す。
一紀から紙を受け取った仁は、「やっぱり、そうだよな」と声を漏らした。
「え? 何がですか?」
「おまえが違う世界から来たことだ」
「……これは夢ですか?」
「夢じゃねえよ」
顔色一つも変えない仁に、一紀は「ですよね……」と覇気なく返す。景が鼻で笑ったように思えたが、それは一紀の錯覚だったろうか。
「とにかく聞け、八神。ここはおまえのいた世界とは違う場所だ。なんとなく飲み込んでんだろ?」
一紀は「そんな滅茶苦茶な!」と反論したかった。だがしかし、仁の言った通り、割とこの状況を飲み込んでいる自分がいるのであった。
「飲み込んで、ますね……」
「よし。じゃあ、こっちのことを話すが、大丈夫か?」
「はい」
なぜ、仁は確認を取ってきたのか。なぜ、少し眉をひそめたのか。
その理由を、一紀はまったく気にしていなかった。この世界のことを知る──ただ、それだけだと思っていたから。
「おまえが向こうの世界に帰れるのは、一年後だ」
「一年後ですか。それなら、まあ、まだ……」
異世界に来てしまったことを飲み込んだ後なら、飲み込めないことではない。おいそれと元の場所に戻れると言われた方が驚きなくらいだ。
だが、その安堵を一言で景が遮った。
「けど、それはこっちの世界での話だよ」
「えっ……」
嫌な予感がした。
悪びれることなく言った景に、仁が何とも言葉にできない殺気を向けている。
だが当の本人はそれを気にする様子もなく、涼しい顔で仁の隣に腰掛けた。そんな景に呆れつつ、言ってしまったのなら仕方がないと、仁は続きを話すことにする。
「この世界は4分の1だ」
「え、えっと、どういうことですか?」
「こっちでの一年は、向こうの世界の『四年』にあたるってことだ」
「つまり、君が元の世界に帰れるのは、向こうでいう四年後の二〇二〇年だよ」
突きつけられた「四年」という時間に、一紀は言葉を失う。自分の腕を掴んで身体を抱え込み、目の前をじっと見つめた。
この世界は4分の1――つまり、沈黙に包まれているこの間にも、元の世界では刻々と四倍の時間が進んでいる。一紀には、それがとても恐ろしく思えた。耐えられない。
「あの、一人になってもいいですか」
ゆっくり立ち上がり、一紀は外に出ようとする。今はとにかく、一人になりたかった。
「待って」
「…………」
景がすぐに一紀の手首を掴んだ。口の端を固く結んだ一紀からの返事は待たず、焦りに震える背中に声をかける。
「俺たちが出て行くから、君は事務所から出ないで」
「…………」
景とともに、仁も立ち上がる。俯いた一紀の肩をポンと叩いて、今度は仁が口を開く。
「八神。キッチンの奥、仮眠室になっているから使っていいぞ」
「……はい」
一紀はようやく返事をした。そして、景から手を放されると、二人の方を見ることなく仮眠室へと入っていった。