物騒な世界
1 不思議なくらいに物騒な世界
息を切らし、息を整え、息を潜める。
この世界にイレギュラーなことがあるのなら、状況としては『不思議の国のアリス』のようでありたかった。素敵なファンタジー世界。きっと、白ウサギも白猫もそう変わらない。
くぐった扉の向こう側には、一九世紀のイギリスに似た町並みが広がっていた。探偵やら殺人鬼やらが、そこらの角からひょっこりと出てきてもおかしくないような……そんな雰囲気だ。曇天の空もそれらしい。
いや、いやいやいやいや、それどころではない。
一紀は今、息を潜めなければならない状況にあるのだ。
それは体感でいう一〇分くらい前のことである。
この町に踏み込んだはいいが、一紀はすぐに白猫を見失ってしまった。ひょっこりと何かが出てきそうな角を警戒しながら、とりあえず曲がってみるが見当たらない。
「ここにもいない。一体どこに……」と小さく、ごく小さく独り言を呟いていると、扉のあった場所から男性二人の声がした。
「おや、かわいいネコだね。ほら、扉の間から覗いているよ?」
「そうじゃねえだろ。なんで扉が開いてンだよ」
「さあ? この子のせいじゃない?」
一紀が恐る恐る覗いてみると、そこには柳の葉のような茶髪の男と黒髪の男がいた。それぞれYシャツを身につけており、歳は二十代後半くらいだろうかと思われる。
柳茶髪の男は屈み込んで、黒い手袋をしたままに白い猫を撫でている。その傍らで、黒髪の男は腕を組んで立っていた。
「はぁ。早く閉めんぞ」
「はいはい。じゃあね、白いネコさん」
白猫を向こう側へ送り出し、ガチャリと扉が閉じられる。
どうしようか、と一紀は考えた。
しかし、答えは考え込むまでもないだろう。彼らが去ってから再び扉をくぐるのがいい。それしかない。そうしよう。
――と胸をなで下ろしたとき、柳茶の男が思い出したかのように呟く。
「ねえ、ネコだけだったのかな?」
「は?」
「もし、誰かが紛れ込んでたら大変だね。放っておいたらダメじゃない?」
「今更そういうこと言うのかよ……。まあ、まさかはあるかもしれねえが……」
一紀はゴクリ、と唾を呑む。その瞬間、柳茶の男が一紀のいる方向を鋭く見つめた。
それに気づいた一紀は、瞬時に首を引っ込める。血の気がサァッと引くのを感じて、静かに後退った。
「おい、ケイ? なん――」
黒髪の男が尋ねようとすると、柳茶の男は口元に人差し指を当て、静かにしててと彼に示す。そして、ゆっくりと一紀の方へ近づいた。
「んー……あれま」
「あン、どうした?」
だが、彼の視界に人影は入らなかった。ギリギリ、小道に潜むことができたのである。
「ここにいた、と思ったんだけどなぁ。どこへ行ったのやら」
「はあ。じゃあ、急いで探すしかねえだろ」
ライターで火を点け、ジリジリと紙の焼けるような音がする。危険な香りが漂ってきた。
「おっと、俺の仕事だね」
「得意分野だろ。さっさと済ませてこい」
――なんか、ヤバい気がする……っ!
肌で危険を感じ、本能のままに走り出した一紀は、現在進行形で彷徨っている。
そんな中、とある情報が飛び込んできた。どうやら、この道の先が「戦場」と化しているらしいということだ。本来、そこがどんな場所なのかはさておき……とにかく、きっと今度こそ巻き込まれるとマズイ案件だろう。
「あれ~? アンタ見ない顔だね?」
「えっ、あの」
見つかった。だが、目の前にいたのはかわいらしい女の子だった。
長くて赤い髪を、耳よりも高いところでツインテールにしている。それだけ見れば、天真爛漫な娘だ。しかし、どこか恐ろしい。
瞳、だろうか。辺りが暗いために良くは見えないが、ギラギラとした何かがある。逃げなければ、と本能が警鐘を鳴らすくらいに。
「よく分かんないけど、もっとこっちに寄りな。アタシが守ってやるよ」
「あ、あの、自分……」
彼女に手首を掴まれ、冷や汗をかきかける。そのとき、背後からあの声がした。
「ああ、ここにいたのかぁ」
振り返ると、やはり柳茶髪の男だった。ふわりと笑顔を浮かべながら、一紀の身体を自身の方へと引き寄せる。
「なに、アンタんトコのお客?」
赤髪の娘が不機嫌を滲ませて問いかけた。対し、男の方は涼しげな様子で微笑みを返す。
「んー、そんなとこかな」
「へー、どーでもいいけど。それよりさァ、そろそろ他と縁切って、うちらと組まない?」
「仕事の依頼なら、いつでもどうぞ?」
「あっそ。ま、今日のところはここまでにしといたげるわ。アンタ個人への話とか色々あるけどさ、アタシは暇じゃないの」
「それはお邪魔したね。じゃあ、失礼するよ。おいで」
赤髪の娘と別れると、彼は一紀の腕を引いて歩き出した。一紀は流されるように、黙って後ろをついていく。手を離されても、逃げることなく彼を追った。
どっちみち、一紀には行く当てがない。今更ながらに気づいたことであるが、元より、ただ逃げていても仕方がないのである。
それに……前を歩く彼は、特段悪い人ではなさそうだった。多少なりとも独特の雰囲気をもってはいるが、それはそれだ。
しばらくは俯きがちに歩いていた一紀だが、ふと顔を上げてみると、彼の後ろ姿に意識が向いた。
柳茶色をした、肩まで届く長めの髪。三角形のバレッタを使って、ハーフアップスタイルで留めている髪。その不思議な色彩に、なんとも目が惹かれる。
柳茶色――灰色みがあって、茶色がかった黄緑色の一種。初めて目にする髪色だが、染めているようにはどうも思えない。それは、新緑の柳の芽のようにキラキラと、だが柳よりは明るすぎない具合で光を反射する。自然な光沢がそこにあった。
そして、爽やかな緑と紫の三角バレッタも、彼の印象をより引き立てているのだ。
一紀はそのまま観察しつつ、彼の後に続いて角を曲がる。
すると、黒髪の男が一紀の視界に入ってきた。薄暗い路地裏の壁に寄りかかり、くわえタバコを手に取り、ふーっと煙を吐き出してから声をかけてくる。
「おう、見つけたか」
「うん。今回、君は本当に探す気がなかったね? さっきから一歩も動いてない」
「てめぇの仕事だろ?」
「確かにそう言ったけどさ。いいよ、俺を信じてくれたってことで受け取っておくから」
「よく言うぜ……」
微笑む柳茶髪の男に対し、溜め息を吐き。そんな黒髪の彼も悪い人ではなさそうだ。
そうは思っても、一紀は緊張を隠せないでいた。
彼の黒髪は癖でふんわりとしているが、印象は全くふんわりではない。
強い橙色を放つ、タイガーアイという宝石のような瞳。つり目なこともあり、鋭い眼光。黒シャツの上に灰色のジャケットを羽織った、色のない格好。
そして何より、口にくわえていた「タバコ」だ。暗い路地裏で紫煙をくゆらせる様が、妙に物騒な雰囲気を際立たせる。タバコを挟み持つ手元を見ると、はめた白い手袋は黒ずみ、よれていた。まさか、裏稼業の人間だったりするのだろうか。
「んで、そいつはなんで逃げたんだ?」
「まあ、事務所でゆっくり訊けばいいんじゃない? こんなところで話すのは、落ち着かないでしょ」
「また逃げる心配はねえのか?」
「俺たち二人を相手に?」
柳茶の男は一紀に対して、にっこりと笑顔を向ける。穏やかなタレ目だが、それは形だけだ。おっかない黒き笑みに、一紀は身体が硬直するのを感じた。
「~っ!」
だから、必死に首を振った。「逃げません!」と、言葉にする心的余裕は、持ち合わせていなかった。
「ほら、逃げないってさ?」
黒髪の男は再び溜息を吐き、コホンと咳払いをして話題を変える。
「俺は黒須仁だ、仁でいい。おまえ、名前は?」
「八神一紀、です。よろしくお願いします、仁さん」
「八神一紀だな。ああ、よろしく。ケイ、おまえも自己紹介しろ」
「はいはい。俺は志木崎景だよ、よろしくね」
「あ、はい。よろしくお願いします、景さん……」
景から黒手袋の右手が差し出されるが、一紀は戸惑った。いや、正確に言えば、握手に戸惑ったのではない。
彼の顔を初めて真正面から捉えたことで、一紀は見惚れてしまった。
とある宝石のような紫と緑のグラデーションが映える瞳。現実の人間ではないようなその色彩に、つい反応を忘れてしまったのである。
「…………」
景の顔を見上げながら、一紀の喉がコクッと鳴る。
すると、仁が横から一紀に差し出された景の手を遮った。
「怖がってんじゃねえか。てめぇのせいだろ、景」
「あれ、そうだっけ?」
「……やはり、ここで訊いておくか……。八神、おまえはなんで逃げたんだ?」
把握しておいた方がいいと判断し、仁は再度その問いを口にする。
これには、一紀も黙っているわけにいかなかった。はっきり答えてしまおうと口を開く。
「その、景さんが『放っておいたらダメ』とか言っていたので、怖くてつい……」
「あぁ……」
仁と景は顔を合わせた。なるほど、言葉の受け取り方で違いが生じたらしい――と話す。
「こんな町で放っといたら、危険が多すぎるって話だ。俺たちは逆に、おまえを守らなきゃならねえ立場だよ。すぐに信じろってのは、無理な話かもしてねぇがな」
どういうことか、一紀にはさっぱりだった。だが、仁の言葉は嘘でないと思えた。
「なるほど……そうだったん、ですか」
「ああ、詳しい話は後でゆっくりさせてくれ。今はとりあえず、ここを離れることが先だ」
行くぞ、と仁が壁から背中を離した。景もそれに続いて、身体の向きを変える。
「あ、あの!」
今まで必要以上に警戒していた自分がバカらしくなり、一紀は彼らを呼び止めた。そして、二人に向かって、手を差し伸べる。
「なんか、すいませんでした。改めて、よろしくおねがいします!」
「改まっても、なんもねえぞ。だがまあ、ほらよ」
仁の手は大きく、がっちりとしていた。手袋越しでも伝わってくる温かさがある。
「はは、俺にも? リベンジかな」
対して景の手は、仁よりもスラリとしているという印象しかなかった。それ以外は特に何も伝わってこない。
握手を終えた後、一紀は無意識に自分の手を見つめた。
「…………?」
「行くよー」
「あ、はい!」
景に呼びかけられ、一紀も足を動かしはじめる。
再び目にした景の瞳は、やはり宝石のように綺麗な色をしていた。
フローライト――一紀が最も憧れる紫と緑の宝石、別名「天才の石」。それを彷彿とさせる色彩が、穏やかなタレ目の奥で彼を主張しながら、異次元の輝きを見せている。しかし、人間の瞳として成り立っているのだ。
異世界に流れ着いてしまった一紀にとって、その色彩は心の支えという光になった。それを持ち主本人に言えるわけもないけれど。