続・黒須……
肉の美味しそうな匂いが漂い始めた頃に、噂の景が事務所のドアを開けた。
「ただいまー」
外では、雨がまだ音を立てている。だが、彼の濡れた様子がほとんどない。傘も持っていないようだが、どういうことだろう。
「あれ? 景さん、濡れてないですね」
「ああ、だって……ほら、入りなよ」
景が背後に呼びかけると、スーツを着た一人の男性が顔を覗かせた。ふんわりとした黒髪に、鋭い輝きを放つ瞳――言われなくとも、彼が黒須海斗だろうと察した。
仁とは違い、彼は額が髪で覆われている。それだけで、兄よりも柔らかい雰囲気をしていた。人柄はどうなのだろうか。
「どうも。気づかれているようだけど、黒須海斗です。あんたが八神一紀さん?」
「あ、はい。八神一紀です。お兄さんに、いつもお世話になっています」
「ああ、いやいや。こちらこそ」
少し口は悪いようだが、悪い人ではないらしい。仁よりも丁寧で、いい人という印象もすぐに受けた。
「ところで……茉莉、何してます?」
「奥のキッチンで、仁さんと夕飯を作ってますよ」
「呑気な奴だな、まったく」
外に傘を置き、海斗も中に入った。
そのままキッチンに向かっていくと、茉莉が「げっ」と声をあげる。
「げっ、じゃないだろ」
「海兄、来るのが想像以上に早かったんだもん」
「うるせえ。車舐めんなよ」
「よかったな、茉莉。海斗が車なら、濡れずに帰れンだろ」
「兄貴、押しつけるように言うのやめろ」
「あたしに失礼だぞ!」
とても楽しそうだ。
「楽しそうだなって思ってる?」
「えっ」
景に突然そう言われ、一紀は驚きの声を漏らした。いたずらっぽい表情が、一紀を面白そうに見ている。
「思いますよ。だって、楽しそうですから」
「なんでそう、拗ねたように言うの。俺、なんかしたっけ?」
いつもの態度ですよーと言いたかったが、無駄だろう。今日の景は、妙に機嫌が良さそうだ。きっと何を言っても、笑って終わらせてくる。
それ以前に、表情で読まれているかもしれない。景はそういうところがあるから、また恐ろしいのだ。
「さーて、そろそろ夕飯できるかな。どう? お兄さん」
「ここでそう呼ぶな、景。もうできてるぞ。ほぼ、な」
仁がキメたような顔で言うものだから、一紀の頭には疑問符がたくさん浮かぶ。しかし、伝わる人には伝わったようで、海斗が「そうきたか」と溜息を吐いた。
「ジャケット預かるよ、海斗くん」
「ノリノリじゃねぇっすか、景さん」
景は分かっていたのか、驚きも何も見せなかった。それどころか、楽しげに笑っている。
その空気には、海斗も折れるしかないとジャケットを脱いだ。景に手渡した後、シャツの袖をまくってキッチンに戻る。
「で、俺が仕上げればいいのか?」
「おう。頼んだぞ、海斗」
「冷蔵庫ン中、勝手に使うぞ」
兄妹と入れ替わり、海斗は慣れた様子でササッと動く。普段、黒須家では彼が食事担当らしい。ソファに腰掛け、茉莉が笑顔で語っている。
「仁兄のハンバーグに、海兄の仕上げソース……美味い以外の言葉ないよ、一紀さん」
「海斗さんも、料理が上手いんですね」
「そう! 仁兄は男飯って感じだけど、海兄はレストランのシェフみたいでね。どっちもほんと美味しいんだぁ」
茉莉は語尾に音符をつけながら、兄たちを褒めた。本当に仲のいいことが分かる。さすがの仁も少し恥ずかしそうだ。
「海斗の方が美味えだろ」
「高級感は断然、海兄」
「おめぇよ……そろそろ自分でも覚えた方がいいんじゃねえの?」
「えー。だって、美味しいご飯のがいいし。身近にシェフいるんだよ?」
「…………」
妹、強し。
仁が言葉を失ったところで、とても出汁の利いた香りが漂ってきた。
机に、ハンバーグが運んでこられる。
「理由になってねえよ。あと、俺は別にシェフじゃねえし」
和風ハンバーグだ。キノコの入った餡かけ出汁が、とろりとハンバーグを包んでいる。
「おまたせしました。なんてな」
兄がしないような柔らかい笑顔を、海斗は浮かべた。妹に褒められて、悪い気はしないのだろう。
「さて、じゃあ食べようか」
「俺も失礼します」
五人で机を囲み、賑やかなディナータイムが始まった。
兄妹喧嘩をしていたという二人だが、もう何事もなかったように笑っている。仁は海斗が来ることを想定済みでいたのだから、さすがとしかいえない。いい兄だ。
そんな兄弟のハンバーグは、落ち着くお袋の味だったことがまた面白い黒須家だった。