一紀の決意
全ての荷物を片付け、事務所で紅茶を入れて話の場を整える。
「で? 何を考えてるの?」
一紀の正面に腰掛けた景が、足と腕を組んで訊ねた。先ほどより、少しは穏やかになっている。
「自分に、事務所を手伝わせてください」
「なるほど」
景は表情を変えなかった。何の感情も出されないことが、とてもピリピリとした空気を作る。
「俺は反対だよ。君に何ができると?」
「電話係はどうかと……」
「仁か」
デスクに座っている仁もまた表情を変えないで、景の背中に言葉を返した。
「電話を取ったり、スケジュールを管理してもらえば、少しでも楽になるだろ?」
「景さん、お願いします。何もしないのは、自分が落ち着かないんです」
必死に頭を下げてくる一紀に、猛反対するのは何か違う気がしてくる。景は組んでいた腕をほどいて、膝の上に置いた。
「ただ掃除するとか、それじゃダメなんだね?」
「はい」
「なんでわざわざ、俺たちと必要以上に関わろうとするの?」
「これも必要なことだと思います」
景は諦めた。そもそも、仁はこのことを認めているのだ。それに、自分は探偵事務所の中心というわけではない。
「まぁ、好きにすればいいんじゃない?」
パァッと一紀の表情が晴れた。快晴だ。分かりやすいにも程がある。
「ありがとうございます」
「あ、俺は電話出ないから。どんなときでもね。すべて、君が通してよ」
「お任せください!」
「はいはい、よろしくね」
話を切り上げると、景は自身のデスクに向かった。彼を目で追っていくと、その隣で仁が手招きしていることに気づく。
「なんでしょう?」
「これだ」
「黒電話……ですか」
「これも昔のモンだよな」
「み、見たことはあります。ここを回すんですよね?」
「受話器を取り忘れるなよ? あと、ダイヤルを回すときは端まで。回してみろ」
「こうですか?」
9の数字の横にある穴に指を入れて、ダイヤルをグッと回してみる。そして指を離すと、クルクルと音を立てながら、穴は元の場所に戻っていった。
「思ってたより、戻り遅いんですね」
「そういうもんだ」
わくわくしつつ、一紀は黒電話を眺めた。できれば、ずっとグルグルしていたい。
「後で好きなだけ触れ。だが、今はさっさとソファに座ってくれ、一紀。ちゃちゃっと大事なことを説明してやる」
「お願いします」
言い残した仁はパーテーションの向こうに行くと、ホワイトボードを引っ張り出してきた。
突然のホワイトボードという本格さに、一紀は立ったまま驚く。後ろから「ねえ」と呼ばれていることに、三度目くらいでやっと気づいた。
「あった方がいいと思うよ」
景の方へと振り返ると、紙とペンを差し出された。一体、何が始まるのだろうか。
「あ、ありがとうございます」
「うん」
彼から二点を受け取ってソファに座ると、仁がすぐにホワイトボードへ文字を書いた。
『 ヤード
マフィア
ギャング 』
「なんです、この物騒な単語は……」
「ここの有名な大きい組織だ。ここ押さえときゃァ、とりあえずなんとかなる」
「詳しくお願いします!」
「おうよ」
仁は再びペンをとって文字を書く。適宜キーワードを表しながら、詳しい話を始めた。
「まず、ヤードは警察組織だ。まあ、ここに法なんてねえがな」
「法、ないんですか?」
「ああ。人道的なものはあるが、明確な法はねえ。『襲うな』『傷つけるな』『殺すな』『奪うな』――その程度だ」
「それ、ええ……」
「まぁ、そうなるだろうな。次だ」
「えっ、はい!」
とりあえず、景にもらった紙にメモをしておく。仁は少しだけ待って、話の展開を始めた。
「マフィアとギャングは大型の武装組織だ。物騒なイメージは合っている。マフィアの方は今日見ただろ? あの金髪が現当主の息子だ」
「ああ、あのチャラそうな人……って事は、彼らはみんな外国人の顔ですか?」
「そうだ。どれもこことは地域が違うからな」
「なら、あの女の子も?」
「女の子?」
「はい、長い赤毛をツインテールにした……」
一紀は昨日会った彼女のことを思い出した。暗かったために良く見えなかったので、顔立ちが少し気になるのだ。
探偵二人が考え込む。それぞれ、前髪に手をやったり、顎に手を当てたり――。
「ああ、イザベラのことだね?」
「あいつかよ」
景が先に気づき、揃って笑い始める。何のことか、一紀にはさっぱり分からない。
「あははは、彼女こそギャングのお嬢様だよ」
「えっ!」
「つーか、あいつは『女の子』じゃねえ。あれで二六だぞ。俺らとそう変わらねえ」
「えぇーっ! っていうか、お二人ともいくつなんですか?」
「俺が二六で、景が二七だ」
「わーお」
「なんだその反応は」
「いや、もう頭がパンクしそうです」
「今のでかよ?」
一紀が仁と夢中で話している間に、景が「そういえば」とキッチンから二つの皿を手に戻ってきた。
「疲れたのなら、ケーキでも食べる? さっき、ゆかりちゃんが持ってきたよ」
「食べたいです!」
「仁のもあるけど」
「もらう」
「はい、どうぞ」
フォークを受け取り、一紀は早速「いただきます」と一口入れた。味わいながら、ゆっくりと首を傾げる。これは抹茶のケーキだ。
…………?
「景さん。これ、思ってたより甘くないんですけど……」
「そうだね。俺別に、甘いものなんて言ってないし」
「性格悪い……」
「え?」
「なんでもないです!」
例のにっこり笑顔に、思わず固まりそうになった。とりあえず、咄嗟に言葉を返せるくらいには慣れることができたようだ。そう思うことにする。
「お、これ美味ぇ」
一紀の気も知らないで、仁はケーキに心を奪われていた。彼の好みにピッタリと合ったらしい。
「そうだろうと思ったよ。あとで彼女に言ってあげたら?」
「そうだな、これはたまに食いたくなるかもしれねえし……一紀はどうだ?」
「美味しいです。けど、ちょっと苦いですね」
「景も甘い方が好きだろ?」
「もちろん」
「俺だけかよ。絶対言わねえと」
よほど好みだったようだ。
ケーキを食べ終えた後、仁の説明会は夕飯の時間まで続いた。
一紀が次々に質問をするものだから、もはや「ちゃちゃっと」の説明ではなく、本格的な授業になっていたことを一人おかしく思う景であった。
今夜きっと、長々と話した内容の薄さに両者とも驚くだろう。