八神一紀の憂鬱な日
0 八神一紀の憂鬱な日
夢を見た。悲しい夢だった。
――何が悲しかった?
そんなことは覚えていない。
だが、ただ一つ……これだけは覚えている。
世界の残酷さ、世界の寂しさ。それが身に染みるような思いをした。
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昨日は、だめだった。
「これくらい分かるだろう。どうしてきちんと見れないんだ?」
冷たい声色で放たれる言葉。バイトで、先輩にとても叱られた。自分がしでかしたミスは、自分がよく分かっている。もっと余裕と視野を持たなければならない。
始めて三ヶ月も経てば、もう新人なんて言ってられないのだ。
明日こそ頑張ろう。……そう思っていたけれど。
今日も、全然だめだった。
「え? なんで? これくらいできるでしょ。なんでできないの?」
鼻で笑いつつ、助手席から疑問が飛んでくる。「こうするだけだよ?」とか言われても、それがまるで分からない。
だが、普通は分かるのだろう。しかし、自分は教官の常識に届かないらしい。
教習所に通い始めたばかりで、なんて言っていい期間って、ほんの五回くらいまでなのだろうか。
ああ、自分が嫌になる。「常識だ」とか「当たり前のことだ」とか、そういうのが全くできないらしい。でも、全部、自分がやろうと決めたことだから逃げられない。
明日は、明日こそは……やれるの、かな…………?
小さな希望を求めて、夜道をふらりと歩く。
憂鬱だ。とても憂鬱な夜だ――。
「ニャア」
「えっ、と……」
これは一体、どういう状況なのだろうか。
白い猫が扉の間からこちらを見ている。いや、完全に自分を見ている。いや、もう自分しか見ていないくらいだ。
八神一紀は戸惑いつつも、この状況を少し楽しんでいた。
黒髪、茶色の瞳、目立つところは何もなく、本当に自分は影が薄いなと思い知らされる日々。そこにあるほんの刺激として、心を躍らせていた。
平凡な毎日――だが、それはいい。
多くの人が楽々と手に入れている平凡な技術があって、それにさえ手こずるような自分。他人に自慢できるようなことは、何もできない自分。自分にできることならば、それは誰にでもできることだろう、と思うくらいだ。
詳しいことは思い出したくないのだが、こう思ってしまうことがあった。
だから、いっそ変な人と思われてもいい。いや、誰も見ていないだろうが……この小さな白猫に少しばかりすがりたいような気分なのだ。
「なにかな、猫ちゃん?」
その白猫は、ずっと扉の向こう側から動こうとしない。何がしたいのだろう?
一紀は近くに寄っていき、しゃがみ込んで猫を誘ってみる。
「こっちにおいでよ?」
すると、猫はきらっと瞳を輝かせ、扉を押し開けた。「やったぁ! いこういこう!」とでも言っているような瞳で一紀を見つめている。
「……ん? いや、そういうわけじゃ……」
なんつう目で見てくるんだ、まったくもう。そんな視線を向けられてしまえば、ちょっとくらいついて行ってもいいかな? なんて思ってしまうじゃないか。
「ちょっとだけだよ、猫さん?」
――そう。このときの一紀は非常に軽率であった。
この現実世界に、イレギュラーなことなんてあるはずがない。ちょっとした異世界があるにしても、真っ暗で陰湿な世界からネオン煌めく陽気な世界に、ほんの少しだけ足を踏み入れるくらいだろう。そう信じて疑っていなかったから。
だが、そんなことはなかった。世界の裏側には、信じ難いことが存在した。
これは、扉の向こう側にある物騒な世界に迷い込んだ八神一紀の物語である。