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もう聞こえない

作者:鯨井あめ
「おとーさん」

うとうとしていた私は、ベッドで寝返りをうって寝室の入り口を見た。
今年7歳になる比奈ひなが、巨大なクマのぬいぐるみを抱きしめて立っている。その後ろから廊下の明かりが差し込んでいた。

「どうした?」

起き上がりながら声をかけると、比奈はゆっくり寝室に入ってきた。そして黙ったまま寄ってきて、ベッドに控えめに座った。
よく見えないので、私はベッドサイドランプを点けた。
比奈はモコモコしたパジャマを着ているが、それにしてもこの時期は冷える。枕元の暖房のリモコンを手に取り、運転のボタンを押す。

「比奈?」

比奈はクマを抱きかかえたまま、ベッドに足を上げて体育座りをした。ぷう、と頬を膨らませた。

「お母さんがいなくて寂しかったか?」

小さな頭がコクンと頷いた。なるほど。
妻の絵美子えみこは、親戚の葬儀のために地元へ帰省している。
私には仕事があったし、妻が「親戚っていっても遠いし、わたしだけでいいから」と言うので、私と比奈は留守番をしているのである。

「お父さんと寝るか?」

分厚い布団をめくるが、比奈は首を振った。

「ねむれない」

ふむ。
明日は土曜日。比奈は学校が休みだ。

「……よし、じゃあ比奈、散歩に行こうか」
「さんぽ?」

効き始めた暖房のスイッチを切って、布団から抜け出す。比奈を抱きかかえた。
大きなコートをはおれば、寝間着でも問題ないはずだ。

「眠れないときはな、比奈、むりに寝なくていいんだ」

比奈がぱちぱちと瞬きをした。

「一昨日買ったモコモコのやつを着ておいで」

モコモコにモコモコを被せば、寒くないだろう。

ベンチコートを着て玄関で待っていると、比奈がクマのぬいぐるみを抱えてやってきた。さっき持っていたものより、ひと回り小さなサイズである。
比奈が着ているのは真っ白なモコモコのパーカーだ。大きめのものを買ったので、手がほとんど隠れていた。手袋はいらないだろう。
フードを被せて、よいしょ、と比奈を抱き上げた。

「さ、行こうか」

寒空の下、外に出て、玄関に鍵をかけた。
このあたりは住宅街で、夜になると人通りがなくなる。電灯の数もそこまで多くない。比奈は近場の公園でよく遊ぶが、「帰りが遅いと心配なのよ」という妻の意見にも頷ける。
夜にひとりで出歩く娘にはなってほしくないが、「お父さんが一緒なら大丈夫」なんて思ってほしいのは、私のワガママだろうか。
女の子って思春期になると大変らしいからな……。

「比奈、どこまでいく?」
「んー」

私の肩に顔をぐいぐい押し付けた比奈は、小さな声で「おかしやさん」と言った。

「今の時間は開いてないぞ?」
「おかしやさんがいいー」
「わかったわかった」

クマのぬいぐるみが、私と比奈に挟まれてつぶされている。今にも悲鳴が聞こえてきそうだ。
比奈がおかしやさんと呼んでいるのは、お菓子製造会社のチェーン店だ。
住宅街を抜けて、駅前に向かう大通りの途中にできた真新しい店である。
スーパーやデパートと違ってお菓子しかない店内に、小学1年生が魅力を感じないわけがない。外出すると必ず立ち寄りをねだられる、我が家行きつけの場所だった。

静かな夜の街を歩く。

「どうだ、比奈。いつもとちょっと違うだろ」
「ん」
「怖いか?」
「んーん。おとうさんがいるからだいじょーぶ」

おおっとこれはまさかの。
「そうかそうか!」と思わず声が大きくなる。慌てて抑えた。立派な父親への道は、まだまだ程遠い。

住宅街を抜けた。幹線道路の左右に、これでもかとチェーン店が並んでいる。
今は深夜だが、営業している店もあるようだ。看板が点いていて、昼間さながらの明るさだった。
比奈の体から、少し力が抜けた。
やはり怖かったのだろう。
腕がしびれてきたので抱え直した。
車の通りもわずかながらあり、人の笑い声も聞こえる。
こんな狭い通りに、よく有名チェーン店が並ぶものだと思う。
田舎だったこの街は、少しずつ都会の色を帯びてきていた。

私がこの街を出たのは、高校を卒業した年の春だった。
桜が咲いた受験生の例に漏れず、大学のないこの街から離れ、一人暮らしを始めたのだ。
都会に慣れず、自炊も苦労して、彼女ができて別れてまたできて。必死に勉強して、それなりに遊んで、卒業して、就職して、結婚して、子どもができた。そして転勤。
気づけば15年だ。
目まぐるしくもあり、早くもあった。

比奈が小学校に上がるのと同時、この街に戻ってきたのだが――
私の故郷は、15年の間に変貌していた。

知らない店が増えていて、馴染みの駄菓子屋は潰れていた。
昔釣りに行った池は埋められていて、川沿いには大きな堤防が築かれていた。
実家の隣に住んでいたおばあさんは亡くなったし、オンボロだった小学校は改装工事でキレイになっていた。
この街はたしかに私が生まれ育った場所だが、今は少しだけのズレを持った、知らない空間に変わってしまっている。

はじめはその変わりように虚しさを覚えたものだ。
戻ってきた、という感覚が、すうっと消えてなくなるほどに。

「おかしやさん……」

比奈の声がしゅん、と小さくなる。
辿り着いた店舗の入口には、容赦なくシャッターが下りていた。

「あいてないよー」
「開いてないなぁ。また昼間に来ような」

私がこの街にいた頃、ここには写真屋があった。
個人経営の小さな写真屋だったが、カメラマンのおじいさんが人気で客が絶えなかった。毎度おじいさんが最高におもしろいジョークを言うものだから、証明写真を撮るときに苦労したものだ。
店内には、「生涯現役!」と達筆な張り紙が貼ってあったのを思い出す。
あのおじいさんはどうされたのだろう。店が取り壊されてしまったということは、もう亡くなったのだろうか。

「さて、比奈、どうしようか」
「んー」
「あっちに行ってみようか?」

私はお菓子屋の脇道を示した。
ここをまっすぐ行くと、豪勢なつくりをした一軒家がある。クリスマスを過ぎてもイルミネーションを外さないので、私が小学生だった時分は地元の子供たちのちょっとしたスポットとなっていた。
今も、あの家はピカピカ光っているのだろうか。

「ちょっと暗くて静かになるけど、大丈夫か? 怖くないか?」

唇を突き出した比奈が、「んー、おとうさんちゃんとついてきてね」と言うので、笑ってしまう。よいしょ、と抱きなおした。
ちょっと暗くて静か、と言っても、このあたりは地価が高いこともあるので、電灯も多い。
例の家は、果たしてイルミネーションを点けていた。もはや家すべてが光り輝いている。明らかに規模が大きくなっていた。
一昔以上も前の記憶が呼び起こされる。
比奈が「わー」とクマのぬいぐるみから片手を離した。

「きれいだねー」
「だろう?」

公園で遅くまでかまくらを作って、陽が落ちると鼻が痛くてもここまできて、友人とこの景色をこっそり見た。この家の前を彼女と通って、「毎年すごいよな」「電気代やばそう」と、カップルとは思えない会話をした。
規模は進化したけれど、それでもこの街の中では変わっていない方だ。
思わず感慨に耽ってしまう。
じっとその光景を見つめていると、比奈が小さくクシャミをした。
この眩しい家の前で左に曲がり、まっすぐ行くと、うちの近所にたどり着く。

「比奈、そろそろ帰るか?」
「んー」
「帰ろうか」
「ん」

白い息を吐いて夜道を歩いた。腕にだるさを感じた。

いつの間に比奈はここまで大きくなったのだろう。

比奈が生まれたとき、初めてだっこして、その小ささと軽さに震えた。比奈は今にも壊れてしまいそうだった。早産だったので、余計とその未熟さを感じた。守らねば、と思ったのだ。同時に、成長が楽しみでもあった。
今は、ずいぶんと重くなった。
ずっと一緒にいたはずなのに、どうして成長に気づけないのだろう。抱きかかえてみて初めて、その重さを痛感する。
首が座って、はいはいして、喋って、歩いて、走って、自転車に乗って、気づけば小学一年生だ。
街も比奈も、みんな私を置いていってしまう。

「おとうさん」

比奈が私を見上げた。

「なんか、うるさいよ」
「うるさい?」

比奈は、顔のパーツを鼻の頭に寄せるようにした。クマのぬいぐるみから手を離して耳を塞いだ。
私はクマが落ちないようにと、どうにかその布の足を掴んで辺りを見回した。
別に何も見当たらない。

「うるさいって、人の声か?」
「ううん」

今は、家から一番近い公園の傍に建つ、神社の前だ。
この神社は夜通し電灯が点いている。そのせいか非行少年がたむろするとかで、中学生の時に何度も学校から注意喚起されたのを思い出した。
そういえば、越してきた時も、小学校のPTA役員から同じことを――

「あ」

私のこぼれ落ちた言葉に、比奈が首を傾げた。

いつの頃だったろう。
私もかつて、この神社の前を通って、耳を塞いだことがあった。

「ああ……そうか」

私は止めていた歩みを再開し、家路を進む。

「比奈、大丈夫だよ。そろそろ音が聞こえなくなるからね」
「ほんと?」

私が頷くと、比奈はやがて、ゆっくり両耳から手を離した。

「ほんとだ」
「だろ?」
「なんのおと?」

にっこりと笑っておく。

「今のうちに聞けて良かったかもしれないな」
「?」
「さっきの音」

今しか聞けない、期間限定の音だ。

そうだ。置いていかれたのではない。とんだ勘違いだ。
街だけでは、時代だけではない。
取り残されている訳でもない。
私だって変わっているのだ。

私はいつの間に、大人になってしまっていたのだろう。
地元を離れた時か、大学を卒業した時か、就職した時か、結婚した時か、それとも、比奈が産まれた時か。
いつまでが子供で、いつからが大人で、なんて境界線は存在しない。けれど、たしかにこの街の一角に、私が大人となったことを示すものが存在していたのだ。
もう二度と出会えない、見えないそれが、ここにあったのだ。
私は大人だ。
間違いなく、かつてこの街に住んでいた時から、この街が変わるように、時代が移るように、比奈が成長するように、絵美子が年をとるように、私も、瞬間という薄っぺらい記録を重ねている。

私には、あの耳障りな高音モスキートは、もう聞こえない。

いつからだったのだろう。いつから聞こえなくなっていたのだろう。
音が失せるその瞬間に立ち会えなかったことが、少し残念に思えた。

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