■第9話 初恋の相手
その夜、3人での表面上穏やかな夕飯を終え、内心ドっと疲れたアキラが2
階の自室に戻ろうとドアノブに手を掛けた時、急に後ろから声を掛けられた。
『ぁ、あのさ・・・。』
それは母ナミのソプラノの声ではない。
という事は必然的に消去法でヒビキのそれだということになる訳で。
アキラはドアノブに手を掛けたままビクっと身体を跳ねさせ、気まずさに
一向に振り返ることが出来ない。頭の中ではまるで何も無かったかの様に
ヒビキへと穏やかな顔を向けたいとは思っているのだけれど、実際アキラ
の表情筋はガッチガチに固まり、目の下の辺りはヒクヒクと痙攣まで起こ
して振り返って微笑むなど到底無理な状況なのだ。
ヒビキは声を掛けた瞬間は今朝のことをアキラに謝ろうと思っていた。
『ごめん』なんてストレートな言葉では言えないけれど、少し格好付けて
『悪かった』ぐらいなら言える、否。言おうと思っていたのだ。
しかし、目の前のアキラは呼びかけにも無反応で振り向きもしない。
きっと今朝のことを根に持っているのだろう。怒って当然だとは思うけれ
ど振り向くぐらいしたっていいのではないかと逆に苛立ってしまう。
(ツユクサをくれた兄ちゃんが、初恋の相手・・・)
すると、ナミから聞いたそれが一瞬頭をかすめた。
モヤモヤと重く沈殿する塊が、ヒビキの心の中をドス黒く染めてゆく。
その瞬間、ヒビキの喉元は歯がゆく震えながら当初言おうと思っていた言
葉とは全く違うそれを吐き出してしまった。
『お前、兄ちゃんが初恋なんだって・・・?』
言ったその刹那、ヒビキはギュっと目を瞑ってうな垂れた。
アキラの顔など見なくても、今どんな表情をしているかは分かる。
ゆっくりとスローモーションのように振り返ったそのショートボブの髪の
毛先が前に後ろに揺れて止まる。そして、まるで音が聴こえそうなほどに
冷たく目を眇め唇を噛み締めてコッチを睨んでいるのだろう。
咄嗟に『ごめん』と謝ろうとしたヒビキ。
もしアキラが呆気らかんと、幼い記憶のそれを笑い飛ばしでもしてくれた
らヒビキも軽くからかって、でもちゃんと謝って終わるつもりだった。
しかし、次の瞬間アキラの口から出たのは怒りと哀しみが混じったそれ。
『アンタに・・・
・・・アンタなんかに、関係ないでしょ・・・。』
その低く唸るような声色にヒビキは爪先に落としていた目線をゆっくりと
上げると、アキラの今にも泣き出しそうな不安定な表情が目に入った。
(ツユクサをくれた相手が・・・
ツユクサをくれた、兄ちゃんが・・・ 初恋の・・・)
『もし・・・
もし、例え兄ちゃんが生きてたとしても、
お前なんか相手にするはずないだろっ!!!』
何故かヒビキも泣きだしそうな顔でアキラへと吐き出すように怒鳴った。
2階の廊下に耳をつんざくような重い沈黙が広がっていた。