■第8話 初恋
ナミはリビングへの廊下を進みながら自分の右手で左の肩を揉み、右側に少
し首を倒しながら『今日も一日よく頑張った~ぁ・・・。』と独り言のよう
に呟いた。
ヒビキはその華奢な背中を後方から見つめながら、自分の母マキコは専業主
婦の為そんな姿もそんな一言も今まで見も聞きもしたことがないな、なんて
ぼんやりと考える。専業主婦だって頑張っていない訳ではないのに、働く主
婦ほどの評価はされていない事を今になって初めて気付いていた。
リビングのソファーに上着をポンと放ったナミは、そのままオフホワイトの
ブラウスシャツの袖を肘まで捲ると、キッチンのナミ専用エプロンをすぐさ
ま着けて夕飯作りに取り掛かり始めた。
冷蔵庫を開け、今朝解凍しておいたアジを取り出すとフライにする準備を始
める。同時に味噌汁の具は何がいいか、冷蔵庫内を覗き込むように見眇めて
豆腐とネギを取り出し急にクルリと振り返った。
『ねぇ、ヒビキ君。
お味噌汁の具、”豆腐とネギ ”と ”豆腐とワカメ ”
・・・どっちがいい??』
思いがけず問われたそれに、ヒビキは若干驚いて視線をキョロキョロと泳が
せた。正直なところどちらも好きだしどちらでも良いのだが、こういう場合
『別に、どっちでも』というのが一番相手にとって困ると知っている。
無意識の内に右手を口元に当て、『じゃぁ・・・ ワカメ、で。』と返した
瞬間ナミが『あ!』と少し大きめの声を上げた。
ヒビキはナミの発したそれに、自分が出した ”ワカメ ”という提案に問題
があったのかと、なんとなく申し訳なさそうに口をつぐむ。
すると、片手に豆腐のパックを持ったまま他方の指をヒビキへと向けて差し
ナミは愉しそうに笑って言った。
『それ!
アキラのよ、アキラの栞・・・。』
ヒビキは落とし物の栞を掴んだのを忘れたまま口元に手を当てていたようで
それが目に入ったナミの先程の『あ!』だったのだ。
『あ・・・ あぁ、コレ・・・
リビングで、さっき・・・ 拾って・・・。』
別に落とし物を拾った善意の第三者なのだが、なんだかまるでこっそり盗ん
だみたいにヒビキは背中を丸めて居場所無げに眉根をひそめる。
すると、ナミは更に愉しそうに笑いながら続けた。
『ソレ、ね・・・
アキラの初恋の人からもらったツユクサなのよ。
こどもの時にもらったのを、わざわざ栞にして・・・
ヒビキ君のお兄ちゃんの、カズキ君からもらったんだって~。』
なんだか嬉しそうにどこか切なそうに、ナミは目を細めてクスクスと笑う。
娘の初恋を胸の奥で宝物のように思っているような、そんなあたたかい顔で。
『あ~んな男の子みたいなアキラにも、
意外に可愛いトコあるでしょ~・・・?』
そう言ってヒビキへと近寄り手を伸ばし、ナミはツユクサの栞を指先で掴ん
で自分の目の高さに掲げ、再びやさしく穏やかな笑みをその口元に作った。
『カズキ君が生きてたら・・・
素敵な男の人になってただろうねぇ・・・。』
そのやさしすぎる声色に、ヒビキは思わず顔を伏せた。
突然のそれに、胸の中にはモヤモヤした霞が広がり落とし処の無い気持ちが
急速に広がってゆく。
今は亡き、兄カズキ。
そのカズキが、アキラの初恋の相手。
ツユクサをくれたカズキが、初恋の・・・
ぼんやりと足元に落としていた視線に、小さなため息がまざって揺らいだ。