■第7話 栞
ヒビキが帰宅すると同時に2階の方からドアがバタンと閉まる音が聴こえ、
それが ”誰の何 ”を意味するのか気付かないはずもなく、そっと階段の
方に目をやり眉根をひそめて視線を落とした。
『ただいま・・・。』 返事など返ってこないのは分かっているけれど、
小さく小さく呟くと静まり返ったリビングの、誰もいないそのやけに広く
感じる空間にヒビキのこぼした一言が寂しげに彷徨った。
(謝りたいのにな・・・。)
何故かアキラにだけは素直になれない自分が、どこか他人事みたいに不思
議で仕方がない。どうしてあんな態度をとってしまうのか、どうしてイラ
イラしてしまうのか、どうして言葉に棘が表れてしまうのか。
なんだか夢の中のようにぼんやりと考えながら、リビングのソファー横に
通学カバンを気怠げに置き座面に鎮座するクッションを肘掛け側によける
とドサっと腰を下ろし座る。自分の膝の上に肘をつき背中を丸めてうな垂
れた。すると、脚と脚の間にローテーブルの下に文庫本が転がっているの
が見えた。更に身体を屈め腕を伸ばしてそれを掴み上げる。手首を返して
それの表と裏を見つめる。先程までこの場所にいた人間が落としていった
物ということは火を見るよりも明らかで。
『こんなの読むんだ・・・? 意外だな・・・。』
思わずひとりごちたその一言。
あのアキラなら、推理モノとかホラーとか好き好んで読みそうなものなの
に今ヒビキが手に取るそれは恋愛小説の部類に入るそれ。恋愛なんか全く
興味なさそうな顔して実はロマンティックな恋物語に憧れているなんて、
体中がむず痒くなる感じがしてヒビキは苦笑いをしてそれをテーブルの上
にポンっと置いた。
すると、もう一つカーペットの上に何か落ちている気配に目を遣った。
リビングの照明に反射して何かが小さく光った気がしたのだ。
『ん??』 もう一度身体を屈めて指先をテーブル下に伸ばすと、それは
フィルムコーティングされた長方形の薄っぺらいものだった。そのフィル
ムの表面が光ったようだ。指先で摘んで、ゆっくり目の高さに掲げる。
すると、
『ぇ・・・?』
ヒビキの目に入ったものは、ツユクサが挟まれた栞だった。
ほんの少しくすんだ蒼色のそれ。栞にしてからそこそこ時間が経っている
ということなのだろうか。しかし逆にそんなに前のそれを大切に挟んで持
っているという事にもなる。
『コレ・・・。』
じっと栞を見つめていた。遠い記憶をゆっくりと呼び覚ますよう、じっと。
『・・・コレって。
あの時の・・・ じゃない、よな・・・?』
その時。
玄関のドアチャイムがけたたましく2度鳴り、来客の合図が物音ひとつし
ないリビング中に響き渡った。
『ナミおばさんかな・・・。』 ヒビキは慌てて立ち上がり玄関へと駆け
ドアを開錠して開けると、慎重に開けたその隙間の向こうには思った通り
仕事から帰宅したナミが少し疲れた顔で、しかし母親特有のやさしい顔で
微笑み『ただいま。』と笑う。
『おかえりなさい。』 ヒビキもそう小さく笑って返した。
どこか胸に引っ掛かるツユクサの栞を掴んだままなのをスッカリ忘れて。