■第3話 お弁当
『昨日お願いした ”アレ ” ・・・頼むわよ。』
母ナミが出勤前に振り返りざま言い残したその一言に、玄関ドアの向こうに
もう消えて見えはしない母の背中をアキラは睨み続けたまま顔をしかめた。
ナミが言った ”アレ ”
それは、昼食の弁当作りのことだった。
毎朝早い時間に大切なコミュニケーションの一環として必ず顔を見合わせて
朝食を摂る母娘。朝食は母ナミが準備するが、アキラの弁当までは作る時間
がなく自分の分は自分で作って持参するという独自のルールが出来ていた。
アキラの家に同居するヒビキは、母マキコが入院している間は少し離れた隣
町の高校への電車通学を余儀なくされる。今までは母が手作り弁当を持たせ
てくれていたが、勿論それを継続など出来る状況ではないのは明らかで。
それを思ってナミが娘アキラにヒビキの分も併せて作るように頼んでおいた
のだった。
ヒビキはナミが出勤するのを笑顔で見送ると、玄関ドアがパタンと閉まると
同時に瞬時に能面のような顔に戻って、アキラの方を見もせずに仮住まいの
和室に戻って行こうとした。
『ちょっ・・・。』 呼び止めようとしたアキラにも、その学ランの背中は
無反応で全く足音も立てずに廊下の先へと流れるように進んでゆく。
アキラは眉根をひそめ不機嫌そうに溜息をひとつこぼした。
毎朝の流れとして、母ナミを見送った後は再びキッチンに戻りエプロンをし
て冷蔵庫を開ける。同時にリビングのテレビのスイッチをONにし、朝の情
報番組を時計代わりに付けっ放しにしながら、今日の弁当のおかずは何にし
ようかと前屈みになって、ナミがキレイに整理した庫内を眺めるのだ。
大雑把なアキラとは違いナミは食材を個別にキチンと保存し、まるでテトリ
スのように無駄なく美しく配置されている。昨夜の夕飯の残りの炒め物をリ
メイクし、冷凍食品の唐揚げをレンジで温め、ほうれん草入りの玉子焼きに
彩りの野菜を詰めれば本日の弁当は簡単に完成しそうだ。白米ではナンだか
ら挽肉を甘辛く炒めてそぼろご飯にでもしたら最高だなんて考えつつ、自分
の赤い弁当箱の他にもうひとつ青いそれを棚から取り出し、仕分けアルミカ
ップやバランを使って着々と弁当は出来上がっていった。
『出来たっ!!』
赤いチェック柄ハンカチで自分の弁当箱を包み、渋々作ったヒビキ用の青い
それを包み終わると、アキラは一応ナミとの約束は守った達成感に少しだけ
気分よさげにガッツポーズを作った。
その時、カバンを片手にリビングにヒビキがやって来た。
一瞬キッチンのアキラに目を向け無言ですぐさま逸らすと、テレビ前のソフ
ァーに静かに腰掛け、ローテーブルの上にあったリモコンでチャンネルを勝
手に替える。
それはアキラが決して観ることが無いNHKの朝のニュースだった。ヒビキ
はそれをさも当たり前といった顔で眺めている。定規で計ったような美しい
姿勢で座り、スっと伸びた痩せた喉元にはクッキリ浮き上がる喉仏が目立つ。
銀縁メガネの奥の目は感情は読み取れないけれど、母ナミと話して笑う時の
それは表面上ではなく心から愉しそうに笑うのだ。
だとしたら何故そんなに自分だけ嫌な態度を取られなければならないのか、
アキラには皆目見当が付かなかったが、それより何より今は一言の断りも無
くチャンネルを替えられたことが癪に触って仕方がない。
『あのさ・・・
ちょっと、なんか、無いわけっ?!
さっきの番組、アタシが観てたとは思わないの・・・?』
そう強めの口調で言ったアキラに、ヒビキは呆れた様に皮肉な声色で返した。
メガネの奥の目が馬鹿にしたように哂ったのがレンズ越しに透かし見える。
『NHK以外の選択肢があるなんて知らなかった。』
『アンタねぇ!!!』 怒り心頭でドタドタと足音を立てヒビキの目の前に
立ちはだかったアキラ。その手にはヒビキ用の弁当箱の包みを引っ掴んだま
まで。しかし、手に掴むそれの存在などスッカリ忘れる程に完全に頭に血が
上り、いまだ飄々とソファーに座るヒビキを真っ赤な顔で睨み付けた。