■第10話 宿題
それ以来というもの、アキラはヒビキと家の中でも目も合わせず口もきかず
にいた。
最初はヒビキから突然からかわれた ”初恋の件 ”に本当に怒り狂っていた。
誰にでも他人に安易に揶揄されたくない事のひとつやふたつは有る。
アキラにとってはそれのひとつが ”カズキ ”のことだった。
しかも亡くなった人との想い出なのだ。それを大切に大切に胸に秘めている
のに、あんな風にバカにされしかも『相手にするはずない』なんて、そんな
事わざわざ言われなくたって自分自身で分かっているのに。
アキラはいまや半ば意固地になってヒビキを避けていた。
まるでヒビキなんてそこには存在しないかのように、視界の片隅にも入れず
たまに物言いたげに口元をうごめかすヒビキの横を表情筋を1ミリも動かす
ことなく通り過ぎた。
しかし、元来誰かを無視し続けるなんて出来る性格ではない。
怒りのパワーは相当なもので、アキラの気力体力をいとも簡単に奪ってゆく。
それはヒビキの猛省している気配にも影響を受けていて、普段は過剰に上か
ら目線なその態度も心なしかしょんぼりとしているように感じる背中を目に
アキラも仲直りのチャンスを狙ってはいるものの、自分からは踏み出せずに
時間ばかりが過ぎていった。
それは、とある夜のことだった。
夕飯を終え母ナミは自室に戻っていき、静かなリビングにはアキラひとり
だった。ローテーブルの上に教科書とノートを開き、シャープペンシルの
頭でコメカミをカリカリと掻きながら、明日までに仕上げなければならな
い宿題を不機嫌そうに睨んでいる。
そこへ、リビングのドアがふいに開いた。
キッチンで水を飲もうとリビングに足を踏み入れたヒビキが、まさかそこ
に居るとは思いもしない相手を目に、驚いて一瞬その場で固まる。
しかし、慌ててアキラから目を逸らして気まずそうに足早にキッチンへと
向かう。アキラもまた驚いて目を見張るも、慌てて教科書を真剣に読み耽
っている素振りをして顔を伏せた。
リビングとキッチン、たった数メートルの距離がなんだかやけに遠い。
互い、声をかけたくて。
でも、なんて言ったらいいのか分からなくて。
ヒビキはキッチンのシンク前で、手にグラスを持ったまま立ち竦んでいる。
アキラはラグにぺたんこ座りをしていた脚を両腕で抱えて体育座りの体勢
に変え、膝に顔をうずめて小さく小さく丸まっていた。
ゴクリ。。
水が喉を通って流れる音がリビングに響いた。
ヒビキの痩せた喉仏が上下に動き、冷水と覚悟を呑み込んで沁みてゆく。
軽くグラスを洗って洗い桶にそれを置くと、ゆっくりとアキラへと近付い
て行った。そしてソファーの下で体育座りをしているアキラの背中越しに
テーブルの上に広げられた教科書やノートを覗き込む。
ヒビキのかすかな足音が近付く気配に、自分の脚を抱きかかえるアキラの
手が思わず親指を隠してぎゅっと拳を作り身構えた。
すると、
『そんなのも分かんないの?
・・・終わってんな。』
ヒビキの口から出たなんだか久しぶりに感じるその嫌味ったらしい一言に
アキラは一瞬不機嫌そうに眉根を寄せ、しかしそんな遣り取りがなんだか
少し嬉しくて上半身をひねり後方に立つ姿に向かって大袈裟に言い返す。
『うるっさい!! 放っとけ!!』
その瞬間、久々に目が合った互いの目の奥の奥が愉しそうに笑っている事
に気付く。しかし、そんなこと気付いてないフリをして掛け合いを続ける
ふたり。
『ってゆーか、
なんで自分の部屋でやんないの?』
その至極真っ当な質問に、アキラはちょっと照れくさそうに口を尖らす。
『だってさぁ・・・
自分の部屋だと、マンガとか・・・ 誘惑があんじゃん・・・。』
まるで小学生のようなその答えに、思わずプっと吹き出したヒビキ。
各種誘惑物が無いリビングにわざわざ移動して宿題をしなければ自制でき
ないなんて、同じ歳とは思えない。
なんだか可笑しくて可笑しくて止まらなくなってしまって、ヒビキは無意
識のうちにアキラがラグに体育座りする隣まで行き、ソファーに腰を下ろ
して笑いながら全くペンが進んでいないノートを斜め後方から覗き込んだ。
『あー・・・ 違う違う。
そこの数式はそうじゃないだろ~・・・。』
『うるっさいってば!!
あっち行ってよねぇ!!』
学校の教科では ”体育・美術・音楽 ”が得意なアキラは、目の前の最も
苦手とする ”数学 ”を睨み、斜め後ろで愉しそうに笑っているヒビキへ
もジロリと睨みを利かせる。
しかし数学が最も好きで得意なヒビキは、こんな単純明快な数式が何故理
解できないのか全く以って意味がわからない。
不貞腐れたように頬をふくらますアキラの横顔を、そっと見つめた。
長いまつ毛が瞬きに併せてやわらかく揺れている。
『アイスでどうだ?』 ヒビキが突如呟いたそれに、アキラはその意味
が分からずに小首を傾げた。




