簡家牡蠣煎小吃点
2017.1.16 台湾SGI新聞に載った簡さん一家の記事を紹介します。
「台北からバスで北東へ30分、夜市で有名な基隆市で牡蠣オムレツを中心にした簡家牡蠣煎小吃点を営んでいます。両親が創業してから今年で64年。ありがたいことに今、基隆はもとより台湾を代表する名店としてテレビや雑誌にもたびたび取り上げられ今や押しも押されもしない有名店になることができました。
ここに至るまでには長い長い苦難の道のりがありました。実は私は一度は両親のもとから逃げ出し今とは全く違う道を歩んでいました。そんな中で台湾SGIの信仰と出会い紆余曲折を経て自分の使命を自覚することができたのです。
私は1963年基隆市に生まれました。兄二人姉二人妹1人6人兄弟で幼いころから両親の牡蠣オムレツ店を手伝いましたが、その仕事量は膨大で、永遠に終わらないと思ったほどでした。父は酒を飲むのが好きでよって不愉快なことがあると私たち兄弟に暴力をふるいました。
私たちは皆家庭が温かいところだとは思えず1日でも早く1人だちをして幸せな家庭を築きたいと願いました。ところが現実はそう甘くはありませんでした。家庭を持つとその難しさをいやというほど思い知らされたのです。1番上の姉は早世しましたが私たち3姉妹は皆離婚を経験。周囲の人からは「姉妹が同じ運命をたどるのは家の風水に問題があるからだ」などと陰口を言われました。
私が離婚したのは2000年。デパートで働いていた私の収入のほうがよかったため3人の娘は夫が預かり私が養育費を入れました。失意の中基隆に戻るとほどなく姉も離婚。3人の子供と基隆に帰ってきたのです。少しでも収入を増やしたい私と少しでも子供と一緒にいたい姉で話し合い、友人からの勧めで豆しょう(豆乳の一種)の店を共同開業。しかし商売経験はゼロでわずか半年で閉店を余儀なくされました。
そんな私たちに一人の婦人が台湾SGIの仏法の話をしてくれました。”この信仰で必ず宿命に打ち勝つことができる”と聞き、私たちは’01年に入会。二人で実家の軽食店を手伝おうと思い至りました。当時両親はすでに引退し店は兄夫婦が継いでいました。兄嫁は私が手伝うことに反対していたのですがこの時はなぜか賛成し私は題目の不思議さを実感しました。
’04年一つの転機が訪れました。兄が突然、兄、兄嫁、姉、私の4人で資金を出し合って共同経営にしようと主張。できなければバラバラになろうというのです。御本尊に祈って得た仕事を簡単にあきらめるわけにはいかないと、私は長年加入していた生命保険を解約し必要な資金を用立てました。
背水の陣で臨んだこの店は幸い順調でしたが客が増えると今度は経営方針を巡って対立し悩みはより深まりました。そんな’05年兄嫁が突然店をやめ、仕事が増えたことに嫌気がさして兄も店をやめてしまったのです。残された私と姉は途方にくれましたが、台湾SGIの同志が何度も訪ねてくれ、力強く励ましてくれました。
「よし、これだけの老舗を継ぐ以上、困難は覚悟の上だ。絶対に後には引かない」と、さらに祈りを深く挑戦したところ、’06年、有名なグルメ番組の取材を受けました。これが大きな転換点になり、経営は確固たるものになったのです。
しかし、’07年、再び宿命の嵐に襲われました。スクーターでの出前中後ろから来たバスにはねられ数メートル先に落下。事故現場を目撃した人は私が死んだと思ったようです。緊急手術を受けた後集中治療室で医師は「右の肋骨が数本と鎖骨が折れ肺の手前で止まっています。今後後遺症があるかもしれないが命には別状有りません」
事故直後は右手が全く動きませんでしたがそれでも私は転重軽受だと感謝しました。体のこと以上に店の経営も心配でした。再開できなければ利益がないうえ賃料が丸々赤字だからです。眠れない日々が続きましたがこの時もSGIの同志に温かく励まされました。
私は、①健康の回復②右手の完治③スタッフの団結と店の勝利、を目標に唱題に挑戦。入院中は長女と次女も店を手伝ってくれ、三つの目標はすべて叶えることができたのです。姉はそれを見届けて再婚し以後店は私が一人で経営することになりました。
今「この信心で必ず宿命転換できるわよ」と、周囲の人を励ましながらSGIの活動に走っています。励まされる側から励ます側にーーー。これからも自身の姿で勝利の実証を示していく決意です!」