7.狩りと出会い
少々グロテスクな表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
巣がある方向をしっかりと覚えてから、その方向に向かって歩いていると、前方に大きな川が見えた。飛んでいる最中にも見えたから、存在は知っていた。
水は綺麗で、中々の水深があるのにしっかりと川底が見える。
ここで少し休憩にしようと思い、僕は川に足をつけて座った。ひんやりとした感覚が、足の疲れを流していくような感じがした。
そう言えば、よく考えてみると人間の頃よりもいい生活をしているような気がする。
人間の世界では、落ちぶれた僕にはどれだけ頑張っても少しの成果しか上がらなかった。だが、この自然界なら、頑張れば頑張った分だけ食べ物も手に入るし、快適な巣だって作れる。その代わり、人間の世界ほど安全ではないが。
元の生活が苦しかったし、この自然界で暮らす方が正直言って快適かもしれない。ドラゴンの力が僕を守ってくれているのもあるだろうが。
もし人間に戻る手段が得られようとも、僕はこっちでの生活を選ぶと思う。僕を人間の世界に引き戻す要素なんて、記憶から抜け落ちているんだから。親しい人がいたのかどうか、一切分からない。
……一つ引っかかることがある。
もしかして、こうなることを見越して僕の記憶を制御したのだろうか。
モンスターに変えられたのに人間に戻りたいと願い続けていたら、いつまでもくよくよと悩み続ける生きた亡霊のようになってしまいかねない。そうなれば本末転倒だ。
ならば、人間の頃の、プラスの記憶を消し去り、マイナスの記憶をしっかりと残す。これなら、今の僕の状態にも当てはまるし、それなりにつじつまが合う。黒魔術師の優しさだと一度は思ったが、またそれが別の感情に移り変わる。しかしそんなことが可能なのだろうか。
分からないことを考えてしまうのは僕の悪い癖だ。最近は特にそうだ。
たまにはドラゴンの体が求めるように動いてみるのも悪くはない。
自分の意識の奥底に目を向けるような感覚で念じる。
頭に動物を追いかけている映像のような記憶がドッと流れ込んでくる。恐らくこれは狩りをしたいという欲なのだろう。
えー、やっぱりのんびりしたいよ。
自分はつくづくわがままだなと改めて思った。
とは言え、同じ体を共有する仲間の頼みだ。聞いてやらねば、後でまた怒られそうな気がする。
僕はゆっくりと立ち上がり、川の水を啜ってから、翼を広げて川を飛び越えた。どうせ今から狩りをするのだから、と、化物の樹の枝は、一本だけ手にして、残りはその場に置いてきた。あの肉、確かに肉ではあるが青臭いし、固いし、なんかマズい。だったら活発に動く動物の肉の方が食べたい。
できることなら、本当は狩りはしたくない。でも、今ならできる気がする。爪が無いのは少々不利だが、人間の知識を舐めてもらっては困る。
武器を使えばいい。今手元には、先端が尖った化物の樹の枝があるのだ。やつとの戦闘が終わった後自分の体に怪我が無いか確認したら、右腕に切り傷が見つかった。手刀でへし折った枝の先端に鮮血が付いていたし、多分こいつがやったんだろう。化物の樹の血は黒っぽいから見分けがつく。
竜の鱗ですら突き破ったこの枝なら、爪と同じくらいの力を持っているだろう。使えるものは使わせてもらう。
足音を潜めて獲物を探す。すると、五分と経たぬうちに鹿に似たモンスターを見つける。まだこちらには気づいていない。小川で水でも飲んでいるのか、頭を地に下げている。チャンスだ。
できるだけ音を立てぬよう、木と木の間を縫って接近する。かなり近くまで近づくことができた。向こうは依然として水を飲んでいる。
僕は枝を振りかぶり、思い切り投げつける。
投げた瞬間こちらに気付いたようで、その場から素早く飛び退いた。が、枝は鹿もどきの左ふくらはぎを削ぎ落とした。
怯んだ鹿もどきに向け走りこむ。向こうは震える脚で何とか逃げようと試みる。しかし、こちらの方が足の速さは上だ。手負いの相手に負ける自信は無い。
鹿もどきの脇腹に、体重を乗せパンチをぶち込む。鹿もどきはその威力の勢いのまま吹っ飛んで行った。
木にぶつかってやっと止まる。もう細い脚が痙攣するだけで、動く気配は無かった。
僕は鹿もどきの遺体を小さく撫でてから、首に牙を突き立てると、傷口から血が吹き出した。悪いね。僕が言うのも何だけど、これが自然界、だろう?
後ろ足をつかんで持ち上げ、もう一度首に食らいつく。そして顎に力を入れ、鹿もどきの頭を胴体から切り離した。
多分、今までの僕ならここで吐いていただろう。
頭を繋いでいた部分から血を抜く。その様子はできる限り見ないようにした。
ある程度軽くなったのを感じ、地面に寝かせる。爪が無いため、牙で腹を裂き、脚をもぎ取る。今自分が何をしているのかは、絶対に深く考えないようにした。
腹の中に手を突っ込み、内臓を取り出す。その中には白くて固いものも混じっていた。どうやら殴りつけた時に骨がバラバラになってしまっていたらしい。
ドラゴンから、内臓を食べたいという思念が伝わってくる。ごめん、僕こんなグロテスクな見た目してるもの食べられないよ。
毛皮も剥がしておきたかったが、爪が無いのでは道具を用いなければ難しいだろう。後先考えずに爪を全て折った過去の自分を殴りたい。
ふと、後ろから視線を感じた。一匹の狼がこちらを狙っている。
僕はそいつに向かって、さっき取り出した内臓を投げつけてやった。狼はそれを咥えると、そのまま森の奥へと走り去って行った。
さて、これで解体は終わりだ。
表面に炎の息を吹き付ける。さっき戦闘で使った時よりも火力は弱いが、しばらく続け、なんとか焼くことはできた。
焼き立ての肉にかじり付く。
美味しい。贅沢を言えば、塩と胡椒が欲しいが、そんなものは上手く手に入らないだろう。
久々にまともな食事にありつけた感じがした。空腹の紛らわしではない分、満足感もかなり強い。
全て食べ終えた頃には、体が喜んでいるように思えた。ずっと空腹だったから故のことだろう。
また何かの気配を感じ、後ろを振り返ると、さっきの狼が、口元を赤く染めたままの顔でまたこちらを見ていた。もう何も無いよ。……あ、そう言えば筋があって噛み切れなかったから捨てたものが……。
僕は固い肉筋を手にし、狼に見せる。おそるおそる近付いてくる狼を見ていると、なんだか可愛らしくも見えた。向こうの牙が僕の鱗を貫けないのは、以前狼に噛まれた時に把握済みだ。
僕の手に乗った肉筋のにおいを嗅ぎ、そのまま食べる。まるっきり犬みたいだ。
狼はそれを食べ終えると、僕の手を舐めた。そんなに美味しかったのかな。もう片方の手で頭を撫でてやった。
この狼、もしかして僕に懐いてないか?噛み付いてくる気配も無ければ、飛びかかってきそうもない。
試しに両手で抱き上げてみる。そこで、この狼がまだ子どもなのだと知った。顔は幼い。多分産まれて1年も経っていないのだろう。周りに他の狼の気配だってない。
いつも何かの死肉を漁って食べていたのだろう。この小ささで親から見放されるとは、かわいそうなことだ。
僕は狼を抱き上げたまま、森の中を歩き出した。子狼は澄んだ目で僕の顔を見た。その顔は血で汚れてはいるものの、子どもの顔だった。
大きくなるまで、僕が育ててやる。そう決意した。自分のことも手一杯なのに、もう一つ命を預かる余裕なんて僕には無い。だが、この子を放ってはおけない。
またここで、人間の理性が、野生世界の理を小さく崩した。