Phase:2-β
地を蹴った/疾走った。
女郎蜘蛛――迫り来る2人の存在に気付き、地を這うような不気味な咆哮を上げた。
記念すべき第一撃=バルダー――背負っていた巨大な四つ刃のブーメランを走る勢いそのままに投擲=重く唸りながら飛んでいくブーメラン。
資料に記載のあった討伐対象の身体能力――視力は人並み/聴力も人並み/筋力は一般的な悪魔のそれ/知能はそれなり=これだけ見れば「平均的」の模範のような能力――だが抜きん出て高い能力がひとつ。
女郎蜘蛛に迫るブーメラン――だが刃は虚しく空を切る=突如姿を消した〈アリアドネ〉。
上空に高く舞う影=〈アリアドネ〉が建物の屋根に着地――とんでもない跳躍力を遺憾なく発揮――だが回避されることは作戦会議時点で織り込み済み。
細く光る糸=念糸を左手の指先から射出/女郎蜘蛛とは別の屋根の縁に念糸を絡ませる/ジャンプと同時に体を引き上げ屋根の上に躍り出る=女郎蜘蛛と同じリングへ。
更に右手の指先からも念糸を放出――ウィリアムの腕の振り幅+手首の角度+指の動きに合わせて光の糸×5×2が乱舞する。
縦横無尽に閃く光の糸を掻い潜る〈アリアドネ〉――皮膚を裂かれて血を滲ませようが/多少髪を切り飛ばされようがお構いなし――蜘蛛さながらの俊敏さと機動力でもってウィリアムに迫る。
闇に紛れ脇道から女郎蜘蛛の死角を確保したバルダー――ブーメラン投擲第二弾=〈アリアドネ〉がウィリアムと間合いを詰めないよう牽制/誘導ルートから逸れるのを防止。
隙を最大活用――念糸を駆使し、曲芸師も真っ青の身軽さで3軒ほど先の家屋の屋根に飛び移る――念糸の貫通力を引き上げる/片手の指をピストルの形に構える/〈アリアドネ〉に狙いを定めて撃った――念糸は敢えて発光させたまま。
女郎蜘蛛=嫌でも目につく光の糸の飛来を察知/紙一重で回避/先ほど自身を脅かしたバルダーから気を逸らし、一拍遅れてウィリアムを追跡――またも飛んでくるブーメランに牽制され、追いはすれど手を出せず。
屋根の上を飛び跳ね移ろうウィリアム/レンガの敷き詰められた地を駆けるバルダー――絶え間なく繰り返される2人の連撃――入り乱れる刃=まるで殺人ミキサー――お互いの隙をカバー/標的をてんてこ舞いにさせる/誘導ルートに沿った退路を提供/否応なしに気を引いて他の退路を見出させない。
2人と1匹=つかず離れずの距離を保ちながら攻防――順調そのものの誘導――要撃地点はもう間近。そろそろ要撃班へ通達しなければならない。
「コール、α班――」
そう呼び掛けたそのときだった。
《イイイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!》
身の毛もよだつ甲高い金切り声が、何の前触れもなく突如として勃発。
「うえっ!?」
ウァリアム=仰天・動揺/思わず耳を押さえる――しかし、それでもなお、絶叫は一定の大音量で響き渡る。
《なっ……なんなんだ一体――》
動揺の色濃いブランの声――向こうにも聞こえている。
《イイイイイアアアアアアアアアアアア!》《ウィリアムさん!? 綺利です! 聞こえ――》《イイイイイアアアアアアアア!》
「どーなってんのシンシアちゃん!」
叫ぶ――自分の声すら認識できるかどうか怪しい金切り声の嵐の中、オペレーターに呼び掛ける。
《だ、大規模な通信汚染が発生中で――》《イイイイイアアアアアアアア!》「通信汚染!? なんでそんな――」《イイイイイアアアアアアアア!》《コール! コール、β――》《イイイイイアアアアアアアア!》「何だって!? 畜生、聞こえね――」《イイイイイイイアアアアアアアアアアアア!》
ほとんど聞こえないチームメンバーの声/聴覚への暴力と言っても過言ではない壮絶な金切り声――頭がおかしくなりそう。
「どうした! 大丈夫か!」
バルダーが、耳を押さえて突っ立ったままのウィリアムに異常を見出して叫ぶ――どうやら通信をオンにしている人間にしか聞こえていない様子。
「つ、通信が――」
悩ましい金切り声に苛まれている現状を伝達しようとして――〈アリアドネ〉と目が合った。
ヒビ割れた唇を歪めニタリと嗤う女郎蜘蛛――次の瞬間にはこちらに背を向け、誘導ルートを逸れる方向に逃亡。
その背に直感的確信が閃く――奴だ。
《イイイイイアアアアアアアア!》《β班! β班応答してくれ!》《イイイイイアアアアアアアア!》
「通信を切れ! 〈アリアドネ〉だ! 奴が通信に介入してきてやがる!」
未だ収まる気配を見せない金切り声の隙間を縫って通信。
《どういうことです!?》
《〈アリアドネ〉の資料にこのような能力は記載されていなかったはずです!》
同じく金切り声の隙間から聞こえる声=ブラン+シンシア。
《文句なら上に言ってくれ! α班は要撃地点をN2-W3に変更! γ班はN3-W4 に移動! いいな!?》
《わかりました!》
《了解!》
《了解しました!》
綺利+ブラン+シンシア=迅速に返答/通信を終了。
忌々しい金切り声が消える/反動で夜の静寂を煩く感じる。
不快感の残滓を振り払うように頭を振ったウィリアム――誘導ルートから逸れた〈アリアドネ〉を追うべく屋根を蹴る――バルダーも追随。
既に遥か先を行く〈アリアドネ〉――開いた距離に高い機動力も相まって、追いつくどころかどんどん引き離されていく。
ヤバイ。本当にヤバイ。
じわじわ染み出てくる焦り――もう作戦破綻してんじゃねえの/いやまだ大丈夫だろ多分――悲観と楽観のせめぎ合い。
つーか/そもそも――わざわざ要撃なんて回りくどいことしなくても今ここでスパッとスライスチーズにすればよくね? そっちのが断然早くね? それがいいわ。だってうっかり逃がしちまったら被害が出るかもしんねーし。うんうんそうしよう。
横着と合理性の最適解を導き出す/焦りに駆られ即実行――走る勢いそのままに腕を振りかぶる/念糸の切断性能を引き上げる/一気に振り抜く。
だが直前になって脳裏を過ぎる疑念――本当に届くのか? この距離で?
ほんの一瞬気を取られる――もしかしたら外してしまうかも/何を今更/そんなの知るか/とにかくやっちまえ――というコンマ数秒以下の逡巡が致命的な遅れの原因に。
ウィリアムが腕を振り抜く前に、その横を抜け女郎蜘蛛めがけて飛んでいった四つ刃のブーメラン=バルダー。
遅れて放たれたウィリアムの念糸――だがしかし――「あっ、これダメなやつだ」と感覚で察知。
コンマ数秒の行動の差=わずかとはいえ女郎蜘蛛を切りつけたブーメラン/見切られてあっさりかわされた念糸=虚しく空を掠める――いずれも足止めには至らず。
痛恨のミス=行動の遅延――バルダーよりも先に行動を起こしたあの時点で振り抜いていれば/あの躊躇がなければ当たっていたはずなのに――心臓どころか魂すらも凍りつくような途方もない後悔の念。
間一髪で2人の逃れた〈アリアドネ〉――これ幸いとばかりに街灯も何もない一層濃い暗闇の中へ飛び込む。
舌打ちするバルダー+一拍遅れて屋根から降り立ったウィリアム――〈アリアドネ〉が逃げ込んだと思われる路地へ急ぐ――二又に別れた道が出現。
「左を頼む」
「う、うっス」
ウィリアム=完全に気後れ――言われるがまま左の道へ 。
息切れを堪えながら奥へ――道を塞ぐ障害物=積まれた木箱――念糸で切り裂く――音を立ててバラバラに崩れ落ちる木箱=何も出現せず。あるのは暗闇と、寂れた路地特有の湿っぽい臭いと、今しがた解体した木箱の破片の山のみ。
仕方なく引き返す/バルダーと合流――ウィリアムの顔を見た直後、バルダーは無言のまま首を横に振った。
目標の完全消失。
追跡の手がかり――なし。
重くのしかかってくる現実――作戦失敗。
想定外の事態に対処できず/作戦を立て直せず/その上討伐対象を取り逃がすという最悪の成果――エクソシストになって1年目、初の失敗体験にしては重すぎた。
ウィリアム=肩で息/呆然/悄然――もはや「ヤバイ」といった焦燥を通り越し、虚無の中に放り出されたような気分。
どーしよ――鈍る思考=具体策など浮かぶはずもなく。
「もっと奥に〈アリアドネ〉の痕跡があるやもしれん。ぼんやりしている暇はないぞ」
立ち尽くすウィリアムの横をすり抜ける黒=バルダー。
「挽回の機会なら、生きていれば後でいくらでも回ってくる。だが我々の命は一度きりで、君はそれを6人分も背負っているのだ。それを忘れてはならない」
淡々と、やもすれば冷厳ともとれる言葉=口数少ない男が紡ぐ叱咤。
「まだ何も終わってはいない。今すべきこと、考えるべきことを見失うな」
濃い影の中に踏み込むバルダー――その背は「この場にいる資格があるのは、期待されたことを期待通りにこなせる人間だけだ」と語っているように見えた。
まだ何も終わっていない――脳内で反芻される言葉――そうだ、止まってる暇なんざない――否応なしに/有り難くも思い出される指揮官としての責務。
折れるのは後回し――心を奮い立たせ/思考停止に陥りかけた脳にリブートをかけ/暗闇へと消えかけていた男を追って小走りで踏み出した。
2人の靴が砂利を踏む音が、そこそこ狭い路地に小さく響く。バルダーの先導でどんどん路地を進んでいく――立場が逆転している気がするが、如何せん経験の差に大きな開きがあるため何も言えず/大人しく追従。
やはりというか、〈アリアドネ〉の痕跡は見つからず――だが/それでも、女郎蜘蛛が逃げたと思われる方角へひたすら進行。
そして再びの二又分岐路=T字型。
バルダー+ウィリアム=足を止める――その耳にはっきり聞こえた音――前方から何かが走ってくる足音。
2人に走る緊張感――身構えるウィリアム/背のブーメランに手を伸ばすバルダー。
だが姿を現したのは――〈アリアドネ〉でも、悪魔でも、命知らずの阿呆なゴロツキでもなく――青ざめた顔を引き攣らせ、息を切らした少女だった。
「女の子!?」
ウィリアム=仰天――まさかこんな深夜にこんな路地で少女に出くわすとは露ほども思わず。
「あっ、あの――あっ!」
2人を視認し、引き攣った顔に若干の安堵の色を浮かべた少女――切羽詰まった様相/足をもつれさせ転倒/小さく呻く。
「あ、ちょ、大丈夫!?」
「どうした!?」
転んだ少女に駆け寄るウィリアム+バルダー――少女=艶やかな黒髪・黒目/恐怖に青ざめた東洋系の顔立ち/両耳に十字架のピアス/ゴシック調のスカート――全身ボロボロ――震えた声で必死に訴える。
「たっ……助けてください……! 悪魔が、悪魔が――」
少女が言い終わらないうちに、殺気と共に何かが飛来してくる気配を察知した2人――迅速に行動。
バルダー――少女を引っ張り起こし背後へ=自分を少女の盾に。
ウィリアム――念糸を一閃=何とも言い難い微妙な手応えを感じると同時に、顔に何かの液体がかかった。
咄嗟に拭う/指先にヌルリとした感触――今までの人生で水に次いで最も多く触ってきた液体=血液――だが生命体を斬った手応えはなかったはず――もしかして/まさか、自分は飛んできた血を斬ったのか?
そこまで思考が駆け抜けたところで、暗闇の中から声。
「おぉ? 七面鳥が増えたようだ」
少女が「ヒッ」と小さく悲鳴を上げる/警戒度が最大限までに高まるウィリアム+バルダー。
そして――少女が来たのと同じ闇の中から、ジャケットを翻し現れた長身痩躯の男=傲慢さと不遜さを湛えた笑み/歪んだ唇の隙間から覗く牙/不気味な微風に揺れる白銀の髪/逆さ十字の刻まれた紅い双眸――誰の目にも明らかに異様な/いかにも悪魔的な風貌――いっそ優雅ともとれる威風を従え3人と対峙――足元で泡立ち蠢く液体=とんでもない量の血。
「フン、エクソシストか」
驕傲の権化とも言い表すべき悪魔が鼻で笑う/新たな獲物を見澄ます――まるで品定め。
「丁度いい。そろそろ貧相な小娘を追い回すのも飽いていた頃だ。俺の暇潰しの道具にしてやろう。光栄に思え、人間共」
凄惨たる笑みを浮かべた地獄の住人――その足元で蠢いていた血溜まりが、3人へ向かって槍の如き鋭さで迫った。