怒り。そして、恐怖
安否を気遣う知枝の声がノイズ混じりにざわめく。
追撃すればいいのに、なんて冷静に考えながら、
右手で身体を起こそうとして、激痛が走る。
くそっ、……ヒビでも入ったかもしれない。
どうしようもない失態だ。
自分に悪態をつきながら、まともに動く方の腕で素早く立ち上がる。
「ダメージ、許容量は越えてないと思う。
……多分、動く」
まだ何事かを騒いでいる知枝に向けて、報告する。
知枝が安堵する声が聞こえ、今度は非難が開始された。
『綾人、ちゃんとやって!
相手は2人も殺してるんだよ?
私はなんのためにいるの? 私の言う事をちゃんと聞いて!』
男は立ち上がった僕を見て、怒りの中に驚きの表情を浮かべた。
今までの人間は、さっきの蹴り一発で
立ち上がることすらできなくなったのかもしれない。
得体の知れないものを見るかのように注視してくる。
「ごめん、知枝。わかったよ、ちゃんとやる。
わかったってば。言うことを聞くよ。
怒ればいいんだね?」
首輪を通じて、通信相手へ謝罪の言葉をつむぐ。
「うるせえ!」
男は一瞬たじろいだように見えたが、
湧き上がってきたそれをかき消すかのように叫んだ。
閑散とした街路に声がこだまする。
男の消えかけていた感情の波が、
力を取り戻して怒りを露わにしている。
先ほどの波よりも、……大きい。
知枝への謝罪を一旦止めて、男を見据える。
「なんだ。
パトス、ちゃんと使いこなせるんじゃないか」
パトス。
誰もが持っている感情の力だが、思うままに制御することは難しい。
大抵は感情の波に流されてしまい、
力を持て余し、霧散させてしまうことが多い。
訓練の受けてないただの犯罪者が
意識的にここまで使えるなんて珍しい。
「もっと早くそこまで出せてれば、僕から逃げられたかもしれないのに
でも、悪いけど、僕はアンタを怒ることにした」
空想の中で、左胸の辺りにわだかまり始めたソレを掴んで引き寄せる
ドクン。
心臓の音が感ぜられ、僕の中で何かが形を持っていく。
僕は顔を覆うように右手をかかげた。
戦闘の最中、無防備な隙のはずなのに、
男はチャンスを活かそうとはしなかった。
僕の一挙手一投足にただ注意を向けているだけだ。
動作を停止させ、全神経を集中させて観察して、
……僕の変化に気付けただろうか。
男の顔は、先ほどまでの憤怒の形相はひきつり、
ともすれば恐れているように見えた。
一回り以上も幼い僕に対して。
目の前の敵は、何かに耐えるように両手で己の身体を抱きしめる。
全身を覆っていた怒りの波は、
今や吹いたら掻き消えるロウソクのように弱々しく揺れている。
あ、あ、あ。
目の前が朱色に染まったような錯覚を受ける。
僕の意思を勝手に反映したこめかみが小刻みに震える。
身体が熱い。
頭が痛い。
視界がぎゅっと狭くなり、
中央に移る一人の男だけが僕の世界に存在する。
顔から手を離す。
身体の痛みが薄れる。
右腕は……痺れるような痛みがまだ残っている。
くそ、さっき折られていたのかもしれない。
……まぁ良い。
このくらいの痛みなら動かすのに支障はない。
軽い足取りで男へと歩を進める。
男は湧き上がってくる恐怖の波に押されて、
一瞬逃げるような仕草を見せた。
しかし、迎え撃つ決意を固めたようだ。
「おらっ!」
男が力を込めて蹴りを叩き込んでくる。
射程外から放たれる不可視のはずの攻撃。
僕は頭に流れ込んでくる知枝の指示に従って、それを避ける。
射程はもう分かった。
そんな子供だまし、もう当たってやらない。
男は突き出した前足を踏みしめ、僕の胴体に向けて拳を振るう。
上半身をかがめて避ける。
男の腕だけでなく、その延長線上の力ごと。
男は目を見開いて驚いている。
見えているのか? とでも言いたげだ。
あはは、男の馬鹿面がおかしい。
僕には何も見えていない。
僕が理解しているのは、自分は何も見えていないということだ。
何も考えらないということだけを自覚している。
だから、耳に響く知枝の声に従って、この身を動かす。
敵の攻撃の手は緩まない。
もう片方の腕で僕の顔に一撃をお見舞いしてくる。
男の見えざる拳が顔面を捉える前に、僕は腕を振り上げる。
そして、男の発した〝力ごと〟殴りつけた。
さして力を込めてはいないが、
男は強い力を叩き上げられたかのように上半身がよろめいた。
左手を伸ばして、男の顔を鷲掴みにする。
腕力だけで地べたに叩きつけた。
一度腕を引き上げて、もう一度コンクリートに後頭部をぶつける。
叩き付けた地面に、少し遅れて男の血が広がった。
男の両肩をかかとで踏み砕く。
乾いた破裂音が響いた。
小気味良い音に僕は表情を緩める。
男は激痛のためか声もなく呻いた。
呼吸が苦しそうだ。
肩に乗せた足を振りほどこうともしない。
骨を砕いたのだから当然の結果だけれど。
男の顔へ向かって両の手を伸ばす。
男の眼球は、近づく僕の手のひらに釘付けになった。
恐怖が増幅されていくのが目に見えて分かる。
「あああああああああああああああ」
唯一動かせる声帯を震わせて男は力いっぱいに叫んだ。
脳は恐怖だけを考えさせ、脳内をかけ巡っていることだろう。
どくん、と男の身体がびくついた。
踏みつけている肩口から湯気のように波が立ち昇る。
耳元で知枝が何事か叫んだのが聞こえた。
分かってるよ、大丈夫。
よろよろと男は折れたはずの腕を伸ばして僕の足を掴もうとする。
「もらっていくよ」
男の下顎付近に爪をたててがっちりと両手で掴み、
指にパトスを込める。
両足で肩を踏み込んで男の身体を固定させ、
思いきり両腕を引っ張りあげる。
ぎちぎち、という音と共に男の面の皮が徐々に剥がれていく。
男が絶叫する。
……うるさい。
いっそう力を込めると、皮は口まで剥がれて男の声は止んだ。
目まぐるしく動く眼球は、恐怖をたたえている。
やがて頭皮の辺りで面の皮はぶちん、と音を立てて切れた。
反動で僕は後ろに倒れこむ。
背中にパトスを総動員してクッションにしたので、
衝撃はほとんどない。
自分の身体の熱が引いていくのを感じる。
抱えていた怒りが拡散し、達成感がこみあげてくる。
「はぁ、疲れたー。
この時だけは、ホント苦労するよなー」
寝転がったまま呑気に声を出すと、
残っていた僅かな怒気が消え失せていく。
一仕事終えた成果である男の仮面を叩く。
それはコンコン、と陶器のような乾いた音を響かせた。
僕は満足しながら立ち上がって、
取り出した携帯端末で119をダイアルする。
要件と現在位置の座標を簡潔に告げて、端末を閉じる。
数分待てば、後片付けをしに来てくれるだろう。
傍らの男を見やる。
痛みで気絶したらしく、倒れたまま動かない。
「あ、そうそう、そういえば。
パトスを使うなら若いほうが向いてるんだよ。
情動は理性を得るにつれて薄れていくからね。
アンタにはもう思春期の頃の強い感情は残ってないでしょ?
ま、聞こえちゃいないだろうけど」
黙したままの男の顔は、
本来あるべき器官が欠如し、漆黒に染まっていた。