学園のお仕事。VS犯罪者 (綾人視点)
逃げる。逃げる。逃げる。
時刻は深夜1時を少し回ったところ。
一人の男が狂ったようにアスファルトを駆けている。
脳は恐怖ばかりを主張し、冷静さを失わせているのだろう。
視界の悪い真っ暗闇の中、林につっこんでは肌を切り、
壁にぶつかっては痣を作り、それら障害物を破壊しつくしていく。
満身創痍、という言葉が相応しい。
しかし、男は己の身体の傷をモノともせずに、
ただひたすら一心に走り続けた。
やがて、男は足をもつれさせて蹴躓き、派手に転倒して止まった。
やっと、止まってくれた。
眼前に表示されているホログラムに映った映像の中で、
男が身体を起こしているのが見える。
位置座標はここからさほど遠くない。
感情に任せただけの考えなしの逃走もようやく終わった。
視界を覆っていた監視カメラ画像のモニタリングを終了。
ルート案内プログラムを立ち上げ、男の国民固有IDをセットする。
視界の端に表示されるルートと距離を確認して、歩を速める。
「そろそろ交戦する。
指示をよろしくね、知枝」
男は一歩も動かず、辺りを警戒しながら身体を休めているようだった。
注意力が落ちているのか、僕の接近に気付いた気配がない。
不意打ちはご法度なので、声をかけることにした。
「おつかれさま」
男はびくりと身体を震わせて、俊敏な動作で振り向く。
恐怖を表情に張り付けて、今にも狂わんばかりといった様子だ。
僕は道路脇の塀の上にいるため、男の視線は見上げる形になる。
彼の眼には塀の上でたたずむ、
パーカーにジーンズ、
首輪をつけた白髪の青年が見えていることだろう。
ほっとしたかのように胸を撫でおろす男。
「なんだ、ガキか……。
俺は忙しいんだ。
どっかに行っちまえ」
こんな子供になら恐れる必要もない、と男はひとりごちる。
「分からないな。
僕はアンタの恐怖に気付かれずに、ここまで近寄った。
それなのにアンタは警戒しない」
呟きながら鬱陶しい首輪に触れる。
なぜ、この首輪を見ても反応しないのだろう。
……犯罪者のくせに。
「なにか? お前が俺の追手だとでも言うのか?」
男の声は、疲れ果てているためか、言葉に力がこもっていない。
「そういう意味で言ってるんだけど……。
アンタの恐怖は注意力散漫だね。
素質ないよ」
素質はなくても、感情は使いこなせる。
だから、――人も殺せる。
僕は塀から飛び降りて、男を真正面から見据えた。
目の前の男は、感情を揺さぶられたのか身体を小刻みに揺らす。
携帯端末を取り出して、短縮ボタンを押す。
自分のプロフィールが書かれた
学生証のデータを相手に見えるようにかかげた。
「アンタを殺人の容疑で拘束する。
速やかに投降しない場合には、暴行の許可が与えられている」
学園本部、高等部所属、四條綾人。
ClassはC。
階級を表すClassはGから始まってA、そして最上級を表すSまである。
大学でCになれば上等と言われている中、
高校1年でなれたのは単に人より長くこの仕事に従事しているからだ。
学生証を見せても男はぴんと来ないようで、
不思議そうにホログラムを見ている。
どうも、世間的な常識がないらしい。
それとも、出身がこの街じゃないから知らないのだろうか?
「犯罪者は許せないけど、どうせ痴話喧嘩のもつれでしょ?
明日から学校が始まるし、もう眠たいんだ。
さっさと捕まってくれるなら乱暴はしない」
きちんと睡眠をとらないと、明日の生活に支障が出る。
ただでさえ感情表現が苦手な僕としては致命的だ。
淡々と告げただけなのだが、嘲りの言葉と取ったのか、
男は目を鋭くさせて睨みつけてくる。
「俺もなめられたもんだな!
こんなガキごときに生意気な口を利かれてよぉ。
ふざけやがって。
安心しろ、学校に行けない身体にしてやっからよ!」
男は懐から錠剤のようなものを取出し噛み砕く。
そして、精一杯の虚勢をあげながら、
右手を顔にあてて仮面を切り替えた。
指の隙間から見える相貌は、
先ほどまでの恐怖をにじませた顔から一変し、憤怒をたたえている。
目をひんむき、抑えようのない怒りは、
歯を食いしばることで外界に逃がしているようだ。
口元には笑みを浮かべている。
暴力に喜びでも感じる性質なのだろうか。
男の身体の周りには、
ゆらゆらと湯気のように感情の波が立ち昇り始める。
身体のそこかしこにある細かいすり傷は、
最初からなかったかのように消え失せた。
内出血を起こして痛々しく見えていた痣は
みるみるうちに薄くなっていく。
……パトスを使いこなせる仮面は最低でも2つ。
恐怖と怒り。
外界に解放しているパトスの波も大きい。
28歳という男の年齢を考えると、訓練をしていない割に手ごわそうだ。
「無知な人だな。
なんで、年齢差だけで人を判断できる?
そもそも若い方が……」
「黙れ! その顔、叩き割ってやらあああああ!」
言葉と共に男は大きく2歩踏み出し、
勢いを殺さずに右手で殴りかかってくる。
先ほどまでの憔悴しきった人間が繰り出した拳とは思えないほど、
俊敏な動作だった。
出来るだけ腕を引き付けて、避ける。
伸びきった腕を掴み、
男の勢いをそのまま利用して一本背負いをお見舞いする。
背中から地面に叩き付けられた男は、
急な衝撃に胸腔の酸素を喘ぐように吐き出し、
くぐもった声を漏らした。
『綾人、早く戦闘用の仮面に切り替えて!
素の身体で当たったら、やばいよ』
耳元で知枝の指示が聞こえる。
「分かった。
適当に感情を浮かべてみる」
『ちょっと! 適当じゃ駄目だよ、ちゃんとやって……』
知枝の声が途切れる。
否、聞き取る余裕が無かった。
男が倒れたままの姿勢から叩き込んで来た蹴りを咄嗟に避ける。
なんとか蹴りを躱したが、
その勢いを利用されて男に立ち上がられてしまった。
男の表情は苦痛にゆがんでいる。
己の中の感情を高めているのだろう。
内側からあふれ出る怒りが増幅したのか、
男をまとっているパトスがさらに大きな揺らめきへと変わっていく。
男は憤怒を表現するかのように、声帯を使って全身を打ち鳴らす。
「ぶっ殺してやるよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
左手でジャブを見舞ってくる。
腕を使っていなすが、ジャブには力がこもっていなかった。
……フェイントか? 頭に血が上っているはずなのに。
男はジャブの左手を引き戻しながら、
その勢いで身体をひねって右手を繰り出す。
しゃがんで躱す。
僕はその体勢から鋭く足払いを放った。
手ごたえは、ない。
男にバックステップで大きく距離をとられて避けられていた。
……やりづらい。
なんでこの男は、激昂しているはずなのに
こんなにも冷静に対処してくるのだろう。
感情に任せて、突っ込んでくるのが普通のはずじゃないか。
開いた距離に安心を覚えて、男に目を配りながら立ちあがろうとして、
――視線の先で男はにやりと笑みを浮かべた。
〝射程外の位置〟から男は思いきり前蹴りを叩き込もうとしてくる。
「なっ……!」『障壁張って!』
僕の驚きにかぶさるように知枝が叫ぶ。
届くはずなんて無い蹴りの延長線上に、
急いで腕をクロスして身構える。
男の足は僕に触れてすらいないのに、重い衝撃が僕を貫いた。
かばった腕が押し出されて、肋骨を叩き、
耐えきれず後方へ吹き飛ばされる。
視界は空を捉え、数瞬後、地面に叩き付けられて視界が霞む。
「骨でもイっちまったか! かわいそうになぁ。
でも、お前が悪いんだぞ。
俺を怒らせちまったんだからなぁ。
ひゃはははははは」
狂ったように哄笑する男の笑い声が聞こえる。