破壊衝動 (綾人視点)
知枝に指導してもらっても、
僕は一向にパトスを扱えるようにならなかった。
知枝は「一緒に転校して欲しい」と言った。
そのために、僕の訓練をしているのだ、と。
話を聞いた時、嬉しかった。
今まで誰にも何かを求められたことなんて一度もない。
僕はいつもお荷物で、期待されたことなんてなかったから。
そして、また思った。
どうしても、パトスを使いこなせるようになる必要がある、と。
//
夢を見た。
数年後の未来、僕はいつまでたっても役立たずのまま。
知枝は愛想をつかして、
僕ではない誰かと手を繋いでどこか遠くへ行こうとする。
「待って」
手を伸ばそうとしたら、僕の目の前にはいつの間にか壁があった。
手のひらは堅い感触に阻まれる。
壁の向こう側で、夜中の廊下のように足音がこだました。
音は遠ざかっていくのに、耳に響く足音はだんだん大きくなっていく。
胸がムカムカして飛び起きた。
部屋は真っ暗だ。
未だ夜は明けていないらしい。
ドアに体当たりをして、口を両手で押さえながらトイレへと向かう。
静まりかえったトイレの洗面所。
暗い中、手探りで水道を探して蛇口を思いきりひねった。
洗面台に手をついて、喘ぐ。
こみ上げてくる嫌悪感をすべて吐き出してしまいたい気持ちと、
頭の中に広がる、
みじめに吐いている映像を否定したい気持ちが相反する。
吐いてはいけない。
自分の中の理性がそう囁いた気がした。
なぜかは分からない。
開いた口から不快感を伴った唾液がぼたぼたと垂れていく。
そのまま祈るように待っていると不快感は徐々に薄まっていった。
……これなら吐かなくても済みそうだ。
なんてみじめなんだ。
情けない夢に気を滅入らせて、
右往左往している自分が酷く滑稽に思える。
なぜ、自分はこうも情けないのだろう。
いつまでソコにいるつもりなのだろう。
いつまで自分に言い訳をし続けるつもりなのだろう。
そんな言葉が取り留めもなく浮かんでくる。
何の事だか自分でも分からない。
いや、分かりたくない。
……それなのに、思考はループする。
『いつまでソコにいるつもりなんだ?』
うるさい。
『いつまで言い訳をし続けるつもりなんだ?』
うるさい。
いつまで、いつまで、いつまで、いつまで。
オマエは一生ソノママなのか?
「……うるせぇよ」
口から出た言葉は弱々しかった。
それが余計に腹立たしくて、僕は右腕を大きく振りかぶった。
何をしようとしている、怪我をするだけだぞ?
うるせぇ構うもんか。
こんな身体、どうだっていいんだ!
振り上げた腕を洗面所のタイルに叩き付ける。
僕の右手は堅い感触と鋭い衝撃に挟まれて、
……ぐしゃりと、つぶれた。
//
翌朝。
食堂で朝食をとっていると、院内アナウンスが鳴った。
『生徒のみなさんは9時に体育館に集まりなさい』
何事かと集まってみると、
昨晩、院内の施設が破壊されたとのことだった。
「感情がたかぶった時は、先生たちに声をかけてください。
力はモノを壊すためにあるのではありません。
感情のままに行動することは、人間として恥ずべき行為です。
誰かを傷つけることにも繋がります。
何かあれば、先生たちを頼ってください」
檀上で二見先生が喋っている。
「全校生徒のカウンセリングを行うから、
指定した日時に保健室まで来てください」
そう言って、二見先生は言葉を締めくくった。
体育館の入口で、日程が書かれた紙が配られる。
僕と知枝は最終日だった。
僕はパトスを扱えないとされているし、
知枝は暴走なんてしないと信頼されている。
だから後回しなのだろう。
昨夜の事を思い出す。
――僕は自傷的に怪我をしようとして、……洗面所をぶち壊した。
気の済むまで呆気にとられた後、蛇口をひねって水を止め、
慌てながらも物音を立てないように部屋に戻った。
電気をつけ、手鏡で眺めると、僕はパトスをまとっていた。
鏡の中の自分は無表情ではなかった。
「どうしたの」
突然の照明と慌ただしい音で、知枝を起こしてしまったらしい。
眠そうに眼をこすりながら、
二段ベッドの上から抑揚のない声をかけてきた。
「あっ、パトス出てるじゃん!
え、なになに、どうしたら出てきたの?」
いささか情けない話のように思われたので、
「分からない」とお茶を濁そうという考えがよぎる。
しかし、それでは何も進展もしないだろうと、
事の顛末から正直に話した。
「……恰好悪い話だけど」
「え? 感情なんてそんなものだよ。
綾人は今まで抑圧されていたから、
強い感情がトリガーにならないと仮面を切り替えられないし、
パトスも解放できないのかもしれないね」
深夜に叩き起こされたというのに、
知枝はテンションが高く、嬉しそうだった。
鼻歌を歌いながら僕をつぶさに観察する。
話し合った末、器物破損は申し出ないことにした。
こういう事は、ここではあまり珍しい話ではない。
それに、ばれれば僕の仮面を奪われるのは明白だった。
一度も灯りはつけていないから、
監視カメラにも僕の姿は映っていないだろう。
「さて、じゃー消す練習をしよう」
「分かった。どうすればいい?」
「今はもう落ち着いてるよね?
顔に手をあてて、いつもの自分をイメージして。
無表情のね?
それができたら手の中で表情が
少しずつ戻っていくようにイメージしてみて」
言われた通りにすると、
手の中で強張っていた表情が徐々に収まっていく。
頭の中のごちゃごちゃとした思考がすーっと薄れていき、
思考がクリアになってきた。
知枝は「上手じょうずー」と拍手しながら褒めてくれる。
「はい、じゃあ、今の感覚を忘れないうちにもう一回出してみよう。
夢の内容思い出してみて。
『できないんなら、もう綾人なんていらない』。
ほらほら、知枝ちゃんどっか行っちゃうよ?」
クスクスと笑みを噛み殺しながら言う。
多少、
いや、かなり癪に障る部分はあったが、言われた通り想像してみる。
目を瞑り、夢の光景を思い出し、知枝の言葉を頭の中で繰り返す。
「そのイメージを掴んで、顔にあててみて」
仮面を思い出す。
灰色で、無機質で、能面なまっさらな仮面。
頭の中のイメージを仮面に投影して、ゆっくりと額に近づけていく。
仮面が顔に触れ合うと、それは僕の顔面と融け合った。
どくん。
胸が高鳴り、僕の中で何かがぐるぐると廻りながら大きくなっていく。
目を開ける。
指の隙間から見える自分の身体は、確かにパトスをまとっていた。
「明確なイメージがあると、やっぱり簡単みたいだね」
知枝の言う通りだ。
ずっと出来なかったのに、簡単にパトスを出せた。
そこで、ふと気づく。
さっきとは違い、破壊衝動がまるでない。
自分を包んでいるパトスの波も、心なしか小さかった。
「なんかさっきより小さくない? これ」
「使えば使うほど弱くなっていくの。
寝て起きたら回復するから平気。
気にしなくていいよ」
そういうモノなのか?
多分、この感情の名前は嫉妬とかそんなモノだろう。
パトスを放出するとその分だけ、感情が薄れていく。
感情を源としている訳だから、弱まるのは分かる。
でも、寝れば回復する?
パトスの出し入れができたし、
嫉妬する原因そのものが無くなってしまった気がするけれど。
うーん。
考えても分からない。
知枝がそう言うのだから、そうなのだろう。
「綾人、人前でパトスを解放しちゃだめだよ。
見つかったら取り上げられちゃうかもしれないからね」
寝る前に知枝はそう釘を刺してきた。
それは困る。
僕は言いつけを守ることにした。