VS知枝
首輪を外す。
これは後衛に様々な情報を通信するための機械だ。
今は必要ない。
入口近くの棚の上にある充電台の上に携帯端末と一緒に置く。
這うように込み上げてきた哀しみを手繰り寄せ、
額に手を当てて仮面を切り替えた。
普段使う事のないそれは、確かなエネルギーを内包している。
「知枝」
呼びかけに応じて顔をあげる知枝。
その頬に優しくそっと手を添えた。
瞬間。
知枝の瞳孔が大きく開かれる。
左手をひっこめたい衝動に駆られる無意識を意識で黙らせる。
しかし、その瞬巡は意味をなさなかったかもしれない。
目にも止まらぬ速さで頬に触れている親指を掴まれ、
もう一方の手で関節をひねりあげられる。
行動を察知していた僕は、
腕の力を抜き、ひねられる方向へと身体全体で倒れこんだ。
背中に障壁を張り、衝撃を緩和する。
体勢は悪いが、手首は折られることなく繋がっている。
安堵する間も無く、
視界を覆うように右腕を振りかぶっている知枝を確認する。
振り下ろされる腕を首だけひねって躱す。
その勢いを利用して、命からがら何とか立ち上がることができた。
床を蹴って、知枝から距離をとる。
同時に両腕を胴体の前で組み、パトスを総動員させて防御障壁を展開する。
一息もせずに、知枝のパトスをまとった渾身の拳がぶつかってきた。
重すぎる……。
まとった障壁ごと押し出されて壁にぶつかって止まる。
背中に障壁を作る暇はなく、激痛が全身をかけ巡る。
それを堪能している時間なんてありはしない。
追撃しようと肉薄する知枝に、蹴りを叩き込む。
前傾姿勢で体勢が最悪の知枝を捉え、……ることはなかった。
当たり前のようにそれを避けられ、
伸ばした足を両手でがっちりと掴まれ、放り投げられた。
空中で、頭をガードするために両腕で頭を抱えこむ。
一瞬の浮遊感の後、ぶつかった戸棚を粉砕して無様に地べたに倒れこんだ。
割れたガラスの破片が容赦なく降り注いでくる。
確固たる理由もなく、僕は障壁を身体全体に展開した。
怯える子供のように。
当然、全身を覆うように展開すれば各面の強度は落ちる。
そのせいで、降り注がれるガラスの破片の幾つかが僕の身体を切り刻む。
しかし、選択は正しかった。
戸棚が倒れこんでくる僅かの間に、
知枝は僕を1度殴りつけ、蹴りを加えて危険地帯から離脱したのだ。
壁がなければ、大きなダメージを負っていた。
……なんて判断力だ。
息をつく暇さえない。
上から迫ってくる戸棚を掌底で突き上げてぶち抜く。
それを掴み、精一杯の力を込めて叩き付け、支えにして立ち上がる。
都合、僕と知枝の間に上下逆さまの戸棚の壁ができた。
いや、
それは壁の役目を果たすことはなく、知枝の拳によって突き破られる。
その攻撃が僕に当たらなかったのは、……単に運が良かっただけだ。
急いで横にすりぬけ、姿勢をかがめる。
放たれた回し蹴りによって戸棚が横なぎにぶち破られ、
衝撃が僕の背中をかすめた。
今度こそ!
知枝の足が地につく前に、僕は知枝に向かって掌底を叩き込む。
重い手ごたえを感じ、"結果的に"知枝は後ろに吹っ飛んだ。
……知枝は僕の掌底に自分の手のひらを合わせ、
瞬時に僕の力を抑え込むほどの障壁を展開させた。
そして、自分で作った壁を蹴って、後方へと飛んだのだ。
1秒にも満たない、完璧な身のこなし。
圧倒的なまでの技術と潜在能力の差を見せつけられた。
一生埋まることのないだろう力量を知枝は兼ね備えている。
……けれど。
あれ程までに続けざまに放たれた追撃は、もう襲ってはこなかった。
よろけながら体勢を整え、
反対側の壁まで下がった知枝に焦点を合わせる。
知枝は瞳孔が開ききり、瞳からは涙を流していた。
恐怖にゆがんだ表情を、右手で必死に押さえつけようとしている。
しかし、身体は言う事を聞かないのか小刻みに震えている。
一歩踏み出す。
知枝は身体を大きくびくつかせ、嫌々をするように頭を左右に振った。
流れ出る涙が勢いを増す。
あと数歩踏み込めば、知枝の領域に入る。
人を近づけてはいけない領域。
侵入すれば、今のように小さくなって
恐怖にうち震えている女の子は、影を潜めるだろう。
そして、洗練された身のこなしで外敵を迎撃するのだ。
呼吸を整える。
いつの間にか息を止めていたらしい。
喘ぐように酸素を求めた。
荒々しい2人の呼吸が夜の静寂の中に響く。
「確かに僕より知枝の方が強い。
けど、その状態でちゃんと戦える?
僕の声を聞ける?
相手を、……殺さずに捕まえられる?」
知枝は嫌々をするのを止め、
問いかけに耳を傾けようと、努力しているように見えた。
ハッハッハッ、
呼吸の荒れを無理に正そうとしながら、僕の言葉を反芻している。
けれど、恐怖だけが頭を支配する今の知枝には、
耳には入っても理解はできないだろう。
「わ、たし、は……わた、にも、で、きる」
何度も何度も恐怖を振り払い、言葉を形にしようとする。
でも、今の彼女にとって何よりも重要なのは、そんな事じゃない。
目の前の敵である僕が、
自分に危害を加えないよう全身全霊を持って監視することだ。
僕は身体をリラックスさせて腕をだらりと下げた。
危害を加えるつもりはないというジェスチャーだ。
伝わらない事は分かっていたが、僕は緊張を解いた。
「風呂に入って寝るよ」
言って、知枝から視線を逸らさずにゆっくりと浴室へ向かう。
知枝との立ち位置が反対じゃなくてよかった。
2回も暴れまわって、
シャワーも浴びずに寝るなんてまっぴらごめんだったから。
仮面を外して無表情に戻っても、
身体のそこかしこの傷は完全には癒えなかった。
血を洗い流しながら、まだ治りきっていない傷を探る。
いくら仮面を付けて仮初の身体を作っても、
許容量を超えた損傷は生身に還ってくる。
「いってぇ……」
身体はぼろぼろと形容していいくらいに壊れかけていた。
感情を使い過ぎた為か、あるいは損傷し過ぎたのか、左腕の反応が鈍い。
日々、成長している自負はある。
学園に来てから何年も訓練を重ねて、実戦でその成果を証明してきた。
それなのに、知枝に追いつける気がしない。
……弱音を吐いても仕方ない。
僕が知枝を守るんだ。
とん、とん、とん。
シャワーの水音に混じって、ドアを叩く音が聞こえた。
シャワーをとめると、ノック音も止む。
「あやと、ごめんなさい。
ごめんなさい、ほんとうに。
……………………あした、ちゃんとあやまります。
ごめんなさい」
消え入りそうな泣き声だった。
何度もごめんなさいと繰り返して、悲しい囁きは洗面所から去って行く。
僕が、知枝を、守るんだ。
風呂から出て、リビングへと戻る。
知枝の姿はない。
向かって奥の寝室にいるのだろう。
息をひそめてこちらを窺っている気配が伝わってくるようだった。
部屋の中央に鎮座しているソファーを隅にずらす。
大きな音をたてないように、ゆっくりと、丁寧に。
暖房をつけ、無いよりはマシだろうと
一番温かい上着を手に取って、ソファーに横になる。
上着は上半身しか覆えないが、思ったよりは温かかった。
1日くらいなら風邪をひくこともないだろう。
今日はほとほと疲れた。
……そのはずなのに、目を瞑ってもどうにも睡魔は訪れない。
しばらくすると、ひたひたと足音を殺して、
知枝は警戒しながらリビングを横切って風呂場へ向かった。
静まりかえった部屋に、シャワーの音が聞こえてくる。
やがて、そこに嗚咽が混じり、いつまでもいつまでも彼女は泣いていた。




