三
「私は翡翠という」
ほろほろと燐光を零しながら、翡翠は魚の手を弄び言った。
「ここでは長いこと仕事をしているけれど、君のような人は初めてだよ」
知らない人の手を取ってはいけないと、君は教わらなかったのかい?
なにがおかしいのか、彼は始終笑っていた。薄い羅をシーツ代わりに纏って、さながらよく出来たお人形のようだ。シーツがこすれるに合わせ、長い髪が四肢を覆っている。波打ち弛む先で、鉄臭いにおいが染み込んでいく。煙草の甘いにおいが、濃く迫ってくる。
頭の端から侵される明晰夢のような光景に、ぐらぐらと内が沸き立つ感覚を覚えながら、それでも魚の心内は凪いでいた。この夜のようなひとは、いったい私に何を求めるのだろうか。
「ふふ、細い指だね・・・でも骨は太い。あぁ、太腿には肉があるね。へぇ、甲にかけて傷ひとつないんだ・・・いい脚だね」
うん、素敵な身体だ。翡翠はかがみ込んで、魚の腹を割った。へその触れ、くぼみのふちを冷たい感触がなぞる。
「とても、うらやましい」
妬ましいと嗤って、翡翠が魚を啄ばもうとしたときだ。
「はいそこまで!」
甲高い声が飛び込んできた。
「もうもうもう! だめですようつまみ食いなんて!
ハイエナだってもちっと紳士的ってもんですよ!」
丸めた背を起こして、翡翠は不機嫌な顔を作る。
「・・・なんだよ、べべ。おまえ、僕の邪魔するっていうのかい?」
「いやいや、そんなつもりは毛頭ございませんよう!
でもでもですよう?
この街一番の花が下品とあっちゃあ、この店の存続に関わるのです!
わたしまだ仕事なくしたくないので!」
姦しく駆け寄ると、パンパン、っと手を打った。暗がりの隙間から数人の人間が出て来て、手際よく死体を片付ける。べべと呼ばれた青年は、掬い上げるように魚を抱きこむと、翡翠に断った。
「ほらほらお仕事してくださいね! これはちゃんと籠に入れときますから!」
幾つかの天幕をくぐり、日除けのない一角にでた。ずいぶん陽が傾いてきたらしい。橙色に空が燃えていた。
半ば崩れかけた石畳の上に魚は放り投げられる。ごろん。そのまま竹を編んだ籠が覆いかぶさってきた。
格子状の影の向こうで、べべはにんまりと顔に弓をつくった。
「可愛いかわいいニワトリちゃあん、あんたはどこのお客かな?
花にはしては貧相だし、丁稚にしちゃあ礼儀がない。
卸したての奴隷ってとこだと思ったが・・・」
細く、ほそく弓がしなるようだ。耳に障るような道化の声を真似て、青年は魚を暴こうとする。けれども魚の瞳はどこまでも凪いでいて、一向にその真を掴ませない。
「まぁなんだっていいさ、翡翠が気に入ったのならなんでもいい。
しばらくここでおとなしくしとくんだな」
絞めるにはまだ陽が高すぎるからね。そう言うと、べべは久しぶりの宴だと声を立てて笑った。竹格子の向こうから、爛々と光った目がいくつも近づいてきた。その中にはとても気の毒そうな色をしていたが、やっぱり堪え切れぬとばかりに弾む息をついている。
空の端で、赤錆と菫色が滲んでいた。