一
月下奇談と同世界上にあるお話です。まったく異国のお話なので、これ単体で読んでも問題ありせん。
ファンタジー色は薄いですが、醜い物語の絵巻の一ページに、挿し込んでくださいませ。
2015/9/5
最初から書き直すことにしました。またいつ終わるともしれませんが、きちんと、形にしたいです。
白い道を歩く。まるく削れた石が連なる。道幅が広がっていき、二頭立ての車も余裕で通れるようになるだろう。歩き始めたときはほとんど人通りは無かったが、にぎやかな屋台が両脇に並んだ。やがて市場といっていいほどにぎやかな通りまで行き着くと、魚は足を止めた。ひとやすみしよう。お腹も空いたし、なにより水がほしい。適当な屋台の布をめくった。
金の嵐。
この砂漠に住むものはみな、熱砂の風をそう呼ぶ。水晶を多分に含んだ砂地が太陽の光を反射し、夜でも光を帯びているように見えるからだ。まったくの光源がなくとも、前夜の月明かりを反芻して瞬くために、砂漠はいつでもぼんやりと光っている。その光が常に吹く強い風に巻かれるため、人の目は砂で潰れる前に、その強い光に眩まされた。
その金の嵐のなかで生きる一族がある。一所にとどまらず、ただ気の向くまま金砂を歩く一族。自分たちの氏も土地も持たないまま、時折その土地の血を取り込む彼らは、長きに渡って得た知恵と知識と、固い足だけで生きてきた。遠くとおくと続く旅人としての慣習に則り、時折訪れた国の人間を取り込みながら細くかぼそく、けれど確実に血を残す。
幾つもの文化の種を受け入れては気まぐれに落とし、砂漠のどこにでも連なる影を見せる様子は、やがて伝承のように語られるようになった。
いわく、彼の氏の響きは熱風であると。
いわく、彼の血は黄金の砂地より湧くのだと。
いわく、彼の足は果てを知らず、ゆえに果てに向かうのだと。
魚は思う。いつか、だれも知らない砂地を踏みたい。他でもない、自分の足で。
一族でさえ知らない土地を歩く、それが魚の夢だった。だから半ば追放されるように砂嵐の中で一人放り出されたことは、魚にとって僥倖でしかなかった。
魚は一族で一番最近生まれた子供だ。ちょうど何人かが砂蛇に飲まれてしまったものだから、いくらか血を分けに放逐された年嵩の血族の中で、唯一帰ってきたものが産んだのが魚だった。産んですぐの体が砂漠についていけるものではなく、魚が顔を覚えるまえに、その者は脚行の列から消えてしまった。
物心ついた頃には、魚は自分の足で歩いていた。たまに石の花につまずいたが、誰かに助け起こされることもなかった。隣を歩くものはみなそれが当然であるかのように、一瞥をくれるだけであったので、魚は一人で歩き方を覚えたようなものである。ときおり数を見るために名を呼ばれることはあったが、戯れに呼ばれることは一度もなかった。
一族には家族の概念がない。彼らにとって親とはこの砂漠そのものであり、失われた氏名は風音の唸りである。彼らはみな等しく黄金を踏むべく、家族を持たない。ある学者が言う。彼らの愛は等しくその裸足が踏むものらへ向けられる。それこそが彼らの神なのである。かといって連綿の知啓ゆえ他の神を否定などしない。ただひたすらにさまよう様は、この世でもっとも幸福な流浪人であるのだ、と。
そんな一族であったが、言葉はどんな民よりもたくみに扱う。きっと、彼らに知らぬ言葉などないのだろう。けれど、魚には誰も知らない音を一つだけ持っていた。
耳裏を掻く砂風に応えるよう、魚は蹴った砂音に紛れこませるようにその音唄う。腹の底をえぐるように、けれど柔く臍をなぞるように。砂の賢者も知りえない音を、魚は知っていた。
これが歌というものなのだろうか。魚が血を貰った人間は、水より生まれたときく。豪奢な首輪に引かれてやってきた人間は、この熱砂のなかであっても瑞々しい水をその目に湛えていたそうだ。砂に売られた人間は、この砂漠に何を見たのだろうか。