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白い花の歌  作者: タク
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7.号哭に沈む

「アレクセイ殿は斬首刑に処されるそうです」

 マリアが言った。タグヒュームでの一件は、トーマたちがステルラに帰還する前に、彼女の耳に入ることになった。傷付き、疲れ果ててステルラへの帰路を歩む彼らよりも、マーンカンパーナからの知らせの方が早かったのである。

「斬首、ですか」

 リヒャルトは大きくため息をついた。

 東の空が炎に染まるのをその目でみた王は、即座にタグヒュームへ使いを出し、アレクセイをマーンカンパーナへ呼びたてた。しかし、アレクセイが何を語るよりも早く、その全ては、マーンカンパーナへやって来たウェクシルム王国騎士団副騎士長、ランク=キルヒによって明かされた。

 アレクセイは、ネムスの森を焼き討ちにした。そして、強風にあおられて瞬く間に肥大化した炎に、ランクは即座に退却を命じた。

 焼き討ちなどというおぞましい行為に、王国騎士団を関わらせてはならない。

 その名を汚すなというロークの言葉を、彼は間違いなく遂行しようとした。

 騎士たちを退却させると、ランクは数人を連れ、襲いかかる炎をかわしながらネムスの森へ入った。生き残った者がいないかを探すためである。

 しかしそこには、惨憺たる光景が広がっていた。

 切り刻まれ、吊るされた亡骸。炎の中で焼かれる小さな手、細い足……。

 連れてきた騎士の一人が、膝から落ちて嘔吐した。ランクは両の目を大きく見開いたまま、閉じることもそらすこともできない。

 ネムスの森に、生きた者など一人としていなかった。

 ランクは、激しい怒りを宿したネムスの民の目を思い出した。その身を炎に焼かれながらも、死を受け入れることを許さなかった怒りの正体――、それは、これだったのだ。彼の目の前に広がるこの光景を目にし、怒り、その命のあらん限りを以て報復を果たそうとしたのだ。

 なぜこんなことを?なぜこんな恐ろしいことを――。

 ランクは、ロークの腕にすがりつき、瞳をわななかせてロークに問うた。

 その瞳は憤りと、そして、恐怖に震えていた。

 ネムスがベジェトコルを攻撃せんとしているというそれ自体が、偽りだった。

 女、子どもを殺し、激高した男たちに火をかけて、アレクセイはネムスの民を虐殺した。

 全てを話し終わると、ランクはぶつりと意識を失った。

 ロークは、やがてマーンカンパーナに連れて来られた祖父を、何を言おうと聞かず、応じず、力づくで王の前へ引きずり出した。凄まじく憤った王の前で、アレクセイはこう弁明した。

 ―――この国が、異形の者に冒されてはならないと、この国のために、私は決断したのです。

 その言葉は、さらに王を怒らせた。そしてその場で、アレクセイは斬首を言い渡されたのだった。

 アレクセイの娘である王妃は、それを止めることはしなかった。彼女自身も、王妃という身分をはく奪されることとなった。




「『この国のため』とは、よく言ったものだ」

 リヒャルトは苦々しく吐き捨てた。

 少なくとも、王国騎士団に援軍を要請した理由は、「己のため」ではないか。騎士の国たるベジェトコルで、王国騎士団の行為は王の意志を表す。王国騎士団を出動させることで、自らの行為を国王の権威によって正当化しようとしたのではないのか。

「……ネムスの森に入ったのは、ランクだけではなかったそうです」

 マリアは小さくこぼす。リヒャルトは顔を上げ、それは誰かと問おうとしたが、彼女の表情で悟った。

 トーマである。

 パロスの軍勢に退却を命じた後、彼はウェクシルムの軍勢が布陣していた辺りに向かった。ウェクシルムはすでに退却を済ませており、トーマはランクの後を追って、ネムスの森に足を踏み入れたのだった。

「行かせるべきではなかった……!」

 マリアは、絞り出すように言った。

 出動しないわけにはいかなかった。タグヒュームを統治する者に与えられた権限は、ネムスの民の危険性と、国境の守りを重視してのものである。襲撃があると言われれば、事態を楽観視することなどできようはずもない。王国騎士団の名誉と、国境の守りを天秤にかけることは、マリアにはできなかった。

 ――それでも。

 その日の夜遅く、ステルラの騎士たちは、重い足取りで帰還した。

 街は寝静まり、出迎えたのはステルラに残っていた騎士たちだけだった。帰還した者たちの目は虚ろで、自らの足で歩けない者も多かった。迎えた者たちは、皆口をきつく結び、歩けない者に手を貸した。

 リヒャルトを前にして、トーマは憔悴しきった様子だった。普段は端然とした男が、別人のようだった。

 トーマは何も言わなかった。リヒャルトも黙っていた。長い長い沈黙の後、リヒャルトはようやく言った。

「ステルラ公に」

 トーマはびくりと体を震わせた。

「帰還報告は私がしよう。とにかく休め」

 トーマは騎士館の自室に戻り、ベッドに腰掛けた。つい先ほどまで真っ暗闇だった窓の外の空が、白んでいく。

 彼は自らの体を抱くようにして抱えた。体が震える。朝が来るのが恐ろしい。太陽が昇るのが恐ろしい。光の下に立つのが恐ろしい。

 窓から差し込む光から逃げるように、体を縮める。

 あの美しい、清らかな人の前に立つのが――。



 翌日の朝、騎士たちの帰還をリヒャルトから知らされたマリアは、しばらく彼の顔をじっと見つめていたが、「そうですか」とだけ言った。

「私はこれから、王都へ参ります。今後のことを国王陛下とお話ししなくてはなりません。留守の間を、頼みます」

 そう言い残して、マリアはマーンカンパーナへと旅立った。リヒャルトは、複雑な思いでそれを見送った。おそらく、次に帰るときが最後になるだろうと、直感していた。

 騎士館では、どこからかすすり泣く声が聞こえた。あの惨劇を目の当たりにした者は悲嘆に暮れ、ステルラに残った者には慰める術がなかった。

 トーマは、暗く冷たい部屋で、横になって眠る気にもなれず、床に座ったまま朝を迎えた。雨戸を閉じれば、日陰にあるトーマの部屋は、昼間でも薄暗い。

 昼頃に、ヴェルナーが彼の部屋にやって来た。

 昨夜、帰還してから祖父に聞いたのであろう話を聞かせてくれた。ヴェルナーの目の下にはくっきりとくまができていて、普段はそうした繊細さとは無縁の彼も、さすがに眠れないようだった。

 トーマはそれに気が付いても、しかしどうすることもできない。

 アレクセイは、数日の後に、首を切られてその生涯を終えるのだという。

 それに一切心が動かなかったのは、少々意外だった。王がアレクセイを万が一罰しなかったとしたら、その首を切ったのは彼であったかもしれなかった。それほどまでにいきり立っていた心は、今は完全なる無だった。

 何もない。どうとも思わない。自分自身を底のない湖に落としたように、怒りも、悲しみも、虚しさも、もう、何もない。

 ――無だ。

 ゆえに、トーマは泣かなかった。涙は出なかった。ただ茫漠と無に沈んで、虚ろなまま、しばらくの時を過ごした。

 数日後、マリアはステルラへ帰ってきた。それは、リヒャルトが直感した通り、最後の帰着だった。

 彼女は、ステルラ統治の任を解かれることになった。

 仮にどうしようもなかったのだとしても、出動を決断したのは彼女だ。王の意志に反し、王国騎士団を動かした責任はとらなければならなかった。

「殿下」

 向かいに座る副官が、心配そうに声をかける。

「大丈夫です」

 マリアは言った。しかし、その声の震えを隠すことはできなかった。

 馬車の窓から、ステルラの街が見える。彼女は十年近くの時間を、ここで過ごした。西に広がる騎士館。今、悲しみに暮れたその場所を思うと、この地を去らなければならないことがこの上なく悔しく、歯がゆい。

 そしてその場所で、おそらく今も深い悲しみ沈んだまま、ステルラに戻った日に、しかしマリアのもとには戻らなかった青年のこと――。

 青碧の瞳ににじむ涙が、ステルラの街並みを歪ませる。彼女は目を閉じた。湛えた涙が長い睫毛を濡らす。瞼が震えた。

「殿下」

 副官が、もう一度彼女を呼ぶ。彼は、マリアとともにこの街へ赴任し、同じだけの時間を、ステルラで過ごした。

「――私は」

 マリアは言いかけて、口をつぐんだ。

 できることなど、祈ることしかなかった。祈れるものなど、ただ一つしかなかった。祈っても祈っても、起こったことを変えることなどできないだろう。それでも、ほかにできることはもはやなかったのだ。

 そうして、馬車は教会へ向かった。

 マリアの馬車がステルラに到着したことを聞き、リヒャルトはトーマの自室を訪れた。

「最後になるかもしれんぞ。会わないままでいいのか」

 トーマは、日の当たらない石造りの部屋に、うつむいて座っていた。親衛隊の兵として王城に仕えていた彼は、いつも身なりをきちんと整えていた。しかし今の彼は、不精髭を生やし、頭はぼさぼさで、その指には、じりじりと灰になっていくだけの煙草が挟まっていた。

 リヒャルトは、それ以上は何も言わず、部屋を出た。扉が閉められる。部屋はぼんやりと青い闇に閉じた。

 不意に、トーマの頬を涙が伝った。そうして、タグヒュームから帰って初めて、彼は泣いた。顔を伏せ、声を殺して。



 マリアが教会にやって来たとき、神官は不在だった。誰もいない教会は静かだ。彼女は祭壇へ向かってゆっくりと歩く。足音だけが響いた。天窓から注ぐ柔らかな光が、皮膚に刺さる。

 祭壇に掲げられたリナムクロスを、マリアは見上げた。

 十字に捧げられる祈りの花。その中央に、神の光を宿す神輝石が揺らめく。

「どうか、この街を見守ってくださいますか」

 口にして歯噛みする。言葉の何と無力なことか。彼女は両膝をつき、両手を胸に抱えるようにして組んだ。そのまま、随分と長い時間、彼女は動けなかった。様々な感情が押し寄せ、急き立てて、いつしか、倒れるように床に額をつけていた。

 彼女は祈った。言葉になどできない、ただ強く、強く望むだけの願いを、祈りに託して。ただ硬く、両の手を組み、歯を食いしばって、瞳を閉じて。

 静寂――。




 どれくらいそうしていただろう。教会の外から、短いうめき声が耳に届き、マリアは目を開けた。

 外には副官を待たせていた。彼女は不穏な空気を感じながら立ち上がる。

 わずかに開かれた扉に人影が差した。

「どなたですか」

 彼女が問うと、扉にぶつかるようにして若い男が中に入ってきた。

「あなたはどなたですか」

 逆光で、男の顔は見えない。しかし、その口元がわずかに歪むのがわかった。

「考えたんです」

 マリアは眉をひそめた。男の手には、血のついた剣が握られていた。

「その血は――」

「考えたんです、ステルラ公。何が、いけなかったのかなって。どこで間違えたのかなって。俺の仲間が、炎にまかれて死んで、助けられなかった」

 マリアの言葉を遮って、男は覚束なく話し続ける。男の両手は包帯が巻かれている。火傷だ。彼女は背を伸ばし、男にまっすぐと向き合った。

「剣を捨てなさい。何をしているかおわかりですか」

 男は自らの体すら支えきれないといった様子で、ゆらゆらと体を揺らす。

「それで、考えて、考えて、わかったんです」

 男は、あちこちにぶつかり、よろめきながらマリアに近付く。マリアの言葉は聞こえていないようだった。マリアは後ずさるが、いくらも下がらないうちに、祭壇にぶつかった。

「あなたが」

 天窓の下に照らされた男の顔は混乱に歪み、涙が次から次にあふれている。その顔にこそ、彼女はひるんだ。考えても考えても、答えは出なかったのだろう。涙は、拭っても拭っても止まらなかったのだろう。

「あなたが俺たちをあの地獄に送り込んだんだ――!」

 男は剣を構え、マリアの元へ走る。悲鳴をあげるように叫びながら。

 逃げられはしなかった。

 口にはしなかった。それを口にしても、もはや事は起きてしまった。今更だ。しかし心の底で思っていた。

 ――私は、間違えた。

 男は、体ごと彼女にぶつかってきた。彼女はわずかにうめいた。男は体を引く。剣が引き抜かれるのに従って、彼女は前に倒れた。床に手をつき、男の足元に四つん這いになる。視界に、赤い血だまりが広がっていく。目の端に、左手の指輪が映る。その指輪に、彼女は顔を歪める。この上なくやりきれない思いがこみ上げて、こぼれた。

 次の瞬間、再び背中から襲った衝撃に、マリアは倒れた。たった一粒の涙すら、血の海に呑まれて、消えた。

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