6.東方の口火
トーマが騎士たちを引き連れてタグヒュームへと向かう道中、彼らよりも一足早くタグヒュームへ辿り着いた軍勢がある。ウェクシルム公ローク=ウェルグローリアと、ウェクシルム王国騎士団副騎士長ランク=キルヒ以下数十騎である。
アレクセイは、予想していなかった孫の訪問を喜び、彼を抱きしめた。祖父の出迎えにロークは笑顔で応じる。しかしその胸中は穏やかではない。彼の胸には、リヒャルトやトーマが感じていたのと同様の、アレクセイへの疑念があった。
「それで、ネムスの民の総攻撃とは、どういった話なのです?」
応接室に通され、取り留めもない雑談をする中で、ロークはそう切り出した。祖父は、小さな子どもを見るように慈愛に満ちたほほ笑みを浮かべている。
「ローク、ここタグヒュームで起こることの全ては、この地を国王陛下から預かった私の権限で判断を下してよいことになっているのだよ」
――全て、だと?
ロークはわずかに眉を寄せる。
「タグヒューム公……。本来、王国騎士団の出動には勅命が必要なのです。私とてウェクシルムと、ウェクシルムの騎士たちを陛下から預かる身。どうかご理解くださいませ」
ロークはあくまでも腰を低くして語りかける。それは祖父の廉直さの裏に潜む自尊心を傷付けないためだった。アレクセイは目尻を下げたまま、うんうんと頷く。
「よく兵を連れてきてくれた。決断には苦労があっただろう。しかし、大事になって国王陛下の地を汚すようなことがあってはならないと思ってくれたのだろう?それは英断だ。大丈夫。私は国王陛下のご意志に背くようなことは決してしない」
ロークは閉口した。言葉が通じないものだ。この男は、継君であるロークを、自分の孫としてしか認識していないようだった。
腐敗があってはならないと宰相の任を降りたとはいかにも美談だが、その実、王位継承者に自らの血が流れていることに酔いしれているのではないか。そんな思いが胸中で腐り、臭うような心地がして目を伏せた。
その日のうちに、ロークは王都マーンカンパーナへ発つことにした。国王はじきに帰城するはずだ。
ロークがタグヒュームを離れることは一種の賭けでもあった。しかし、騎士団を出動させた以上、この違和感が芽吹いてからマーンカンパーナへ馬を走らせても手遅れだ。そう考えたのである。
ランクが彼を見送った。ウェクシルム統治の任についてからの、腹心中の腹心である。ロークは彼に耳打ちした。
「君たちは栄えある騎士城の騎士だ。決して名を汚すな。四日後に戻る。いいね」
ランクはロークの目をしっかりと見据え、頷いた。
ステルラ王国騎士団の一行は、ロークがタグヒュームを発った三日後にタグヒュームに到着した。
彼らは、トーマの判断でタグヒュームに行く前にウェクシルムに立ち寄っていた。トーマは、出動を渋っていたというロークの話を聞いておきたいと考えたのである。しかし、ロークはそこにはいなかった。ウェクシルム王国騎士団の軍勢とともに、タグヒュームに向かったのだという。
――なおよい。
トーマはそう思っていた。彼は彼で、上流貴族の出であるが、国王の姻戚となったアレクセイに対しては分が悪い。ロークが行動を起こすのであれば、その方がいい。
アレクレイは、彼らを満面の笑みで出迎えた。
ステルラからタグヒュームまで、数十の軍勢を連れ、彼らは十四日かけてタグヒュームにやって来た。それも遊山に来たのではない。戦いに来たのである。アレクセイのそれは、戦いに赴いた者たちを出迎えるには、似つかわしくない笑顔だった。
「何か、気持ち悪い」
トーマの隣で、ヴェルナーがぼそりとつぶやいた。
アレクセイに続いて、パロスとウェクシルムのそれぞれの代表者が出迎えに現れた。二人ともトーマと同じく、役職は騎士団の副騎士長であるという。丸顔でころころとした平和そうなパロスの副騎士長と、すらりと背が高く、険しい顔つきのウェクシルムの副騎士長は、対照的だ。
その晩、作戦会議が行われた。作戦会議といっても、タグヒュームの周辺の地図をみせられ、大仰な体をしたタグヒュームの軍隊長が、王国騎士団の三人の代表者にネムスの森の対面に布陣するよう告げた、それだけだった。
「白帯にこちらから踏み込むのですか?」
トーマは尋ねた。ネムスの森を囲む白い砂の一帯は、ネムスの領域だ。そこを侵せば何が起こるかわからない。
「兵は揃ったのですから、襲われるのを待つわけにもいかないでしょう?先手必勝、というではないですか」
呑気な声で、アレクセイは言う。トーマは眉を潜めた。
「しかし、具体的に我々は何をすれば?」
パロスの副騎士長が鷹揚な調子で問う。軍隊長は、不遜として答えた。
「この通りに布陣して下されば結構です」
どうやら、その作戦の全てを知らせる気はないようだった。パロスの副騎士長は肩をすくめる。
のんびりとした顔で椅子に腰かけ、戦いの前夜とは思えない様子でアレクセイが続けた。
「ネムスには大きな翼があるといいますからなあ。残党が国王陛下の治める地を冒すことがないように、見張ってください」
――残党?
トーマは、心中で繰り返す。
「決行は?」ランクが尋ねた。
「明日の朝です」軍団長が答えると、「明日の朝?」とランクは繰り返す。
「不満でも?」
アレクセイが聞き返すと、ランクは視線をさ迷わせた。ロークは昨日、四日後に戻るといった。明日の朝では早すぎる。その様子に、トーマが口を挟む。
「伸ばしてはいただけませんか」
その場にいた全員がトーマを見る。
「なぜですか?」
アレクセイは、心底わからないという顔でトーマを見た。その調子に、目元がひくつくのを感じながら、トーマは努めて冷静に話した。
「我々は今日ここに着いたばかりです。せめて一日、騎士たちを休ませたい」
トーマは淡々と、表情も崩さない。そんな彼の様子が気に食わなかったのか、軍隊長が舌打ちまじりにつぶやく。
「軟弱なことを言うものだ。何かが起こってからでは遅いだろうに……」
「何だと?」
トーマはきろりと軍隊長を睨んだ。
「ここに来ただけで、我らはすでに陛下からタグヒューム公に与えられた権限には十分に応じている。だが騎士たちは飽くまで国王陛下の剣。容易く扱われるものではない」
鋭い口調に、軍隊長は怯む。その隙を、ランクが衝く。
「“何か”あらば、この程度の布陣、十分とかからず完了できます。その“何か”を見落とさなければ、ですが。それともそこに不安があると?」
「なっ!?」
「では見張りは我らウェクシルム王国騎士団がしましょう」
ランクは、反撃の暇を与えずさっさと話をまとめた。パロスの副騎士長は、ニヤニヤしながら成り行きを見守っている。呑気なものだが、それでも平和そうな顔つきに好感が持てるだけまだいいと、トーマは思う。
「――いいでしょう」
冷ややかな声で、アレクセイが言う。その顔からは、笑みが消えていた。
「一日差し上げます。それでもまだ足りぬというのであれば、ステルラ王国騎士団はかくも軟弱なりと国王陛下にお伝えするしかない。よろしいか」
トーマは目を細めた。大層なことを言う男だ。ちらりとランクを見ると、彼は微かに頷いた。明後日であれば、ロークはタグヒュームに戻ってきているはずだ。
「ではそれまでに体調を整えさせます」
トーマは言った。しかし、笑みが消えたアレクセイの顔に、彼は不安を掻き立てられた。
――何か恐ろしいことを考えているのではないか。
不安は、的中する。
そしてその日はやってくる。
どんよりとした灰色の雲が、雨粒をこらえているかのように重たく空を覆っていた。
「なんか不思議な光景っすね」
ネムスの森を眼前に、シンが言った。彼らはすでに白帯に踏み込んでいる。その白砂の一帯は、過ぎ去った神話の時代と、現実との境界のようだ。
「風、強いですね。砂が巻き上がる」
シンは目をしぱしぱさせた。砂が目に入ったらしい。風は南から吹いている。
「つーかよ、暇。おれらここに何しに来たの?」
ヴェルナーは退屈そうに、馬の頭にあごを載せていた。主人に似て、繊細さをかなぐり捨てたような彼の馬は、特に嫌がる様子もない。
「襲撃に備えてって話だったんですよね?まさか襲撃があるまで毎日ここでこうしてなきゃならないんですかね。タグヒュームの軍はどこにいるんでしょう」
定刻に、ステルラ、パロス、ウェクシルムの王国騎士団は配置についたが、タグヒュームの国衛軍はそこにはいなかった。
「なあ、トーマ、何黙ってんだ?」
耐えかねて、ヴェルナーが尋ねる。
トーマは、配置についてからずっと沈黙している。ただ黙っているだけではない。何かを考えているらしく、沈黙は重さとなって、彼がまとう空気を重たくしている。
その様子に、ヴェルナーとシンは敢えて緊張感なく話していたのだが、どうやら耳に入ってすらいないらしい。二人は顔を見合わせ、仕方なく沈黙した。
――なぜ、反応がない?
トーマは、ネムスの森を見つめていた。白帯に踏み込んだ百の気配に、気付かないわけはない。
――静かすぎる。
頼みの綱としていたロークは、戻ってきてはいなかった。そのことも、トーマの不安をかきたてた。タグヒュームからステルラまでは、早馬を飛ばせば二日の距離だ。何事もなければもう戻ってきているはずだった。
トーマは、ここ数日の出来事を反芻するように思い起こし、考えていた。何が起きても対処できるようにと、マリアは言った。しかし自分たちは何も知らされず、この場にいる。
そんな中で、ふと、脳裏にアレクセイの言った「残党」という言葉がかすめた。
それはすなわち、もしネムスの民が彼らの前に姿を現すことがあれば、すでに残党なのだということではないか。
――もう、始まっているのか……?
「あの、どうかしたんですか?トーマさ――」
再び沈黙に耐えかねて口を開いたシンは、途中で言葉を切った。
声が聞こえたのだ。
それはトーマにも聞こえていた。
「……何だ?」
ヴェルナーが呟く。
霞がかったような声は遠くから聞こえる。その響きは、尋常でない気配を孕んでいた。
「……悲鳴?」
トーマはつぶやいた。
声は、南の方から聞こえる。
三つの騎士団は、ネムスの森に対面するように、南から北へ、ウェクシルム、パロス、ステルラの順に布陣した。声の遠さからして、おそらくウェクシルムが布陣している辺りで、何かが起こっている。
「……煙たくないですか?」
シンが言った。
トーマはびくりと反応し、シンを振り返った。
「そういやあ……」
ヴェルナーもシンの言葉に応じる。トーマは、鼓動が耳元で打ち鳴らされているような気がした。
「おい、あれ!」
騎士たちの間から、声が上がった。その指す方に、炎が立ち上がるのが見えた。緊迫した空気が流れる。
「……ウェクシルムがいる辺りだ」
シンがそう、呟いた。
強風にあおられて、南の端から立ち上がった炎は、森を瞬く間に呑み込んでいく。
「なあっ、何だこれ!?どうなってんだ!?どうすれば――」
予想だにしなかった光景に、ヴェルナーが声をあげる。
――どうすれば……!?そうだ、どうすれば――。
ぐるぐると考えを巡らせるトーマの目に、不意に、森を出てくる人影が写った。
そう、人影だ。人の、形をしている。
何人かの騎士が叫んだ。
それは、炎をまとっていた。全身を炎に焼かれ、それでもそこに立っている。その目は、鋭く、激しく、怒りに満ちて、こちらを見据えている。
誰も動けなかった。目も離せなかった。
それが「残党」だなどと誰が思うだろう。
その瞳に宿る怒りが、今際のそれとは思えないにしても、炎に包まれ、長く生きていられるはずはない。人影は、間もなく絶命するだろう。残党ではない。生き残ったものではない――。
トーマは手で口を覆った。
刹那、炎に包まれたネムスの民の背中から、大きな、黒い翼が広がった。翼が体を浮き上がらせる。そして亡霊のように瞬時に、それは目の前に迫ってきた。騎士の間から絶叫が上がった。たった一瞬のことだった。
もはや炎の塊と化したそれが、一人の騎士に飛びつき、しがみついた。飛びつかれた騎士は、炎にまかれ、おぞましいほどの絶叫を繰り返す。
「引きはがせ!」
トーマは叫んだ。周囲にいた騎士の一人が、その炎をつかんだ。素手だった。
「馬鹿!」
別の一人が、それを後ろから引っ張り、ネムスの民に剣を突き立てた。しかしもう遅い。
しがみついたまま離れないネムスの民も、しがみつかれた騎士も、すでに息絶えていた。それはそのまま倒れ込み、周囲には肉の焼ける臭いが立ち込める。あまりの出来事に、誰もが息をするのすら忘れ、動けずにいる。
「トーマさん!」
瞬間、シンが叫ぶ。振り返ると、炎の塊が目の前に迫っていた。トーマはそれを薙ぎ払った。最後に一矢を報いることすらできなかったネムスは倒れ込み、両腕を胸の上でがたがたと震わせて絶命した。
考える間もなかった。覚悟もなかった。しかし彼は、ここにいるステルラの騎士たちの長だった。そしてヴェルナーの言う通り、彼は信頼のおける、言い換えれば、彼を心から信頼している騎士を選んでここへ来た。
トーマの一閃は、一軍の決断になってしまった。
もはや完全に巨大な炎と化した森から、同じように次から次へ、炎の塊が飛び出してくる。
騎士の一人が、うめくように叫んでそれに向かった。
それを皮切りに、次々と叫び声が上がり、騎士たちは炎の塊に向かって行った。
トーマは、その光景を慄然とみた。心拍数が上がり、呼吸が急く。
――これは一体、この目の前の、この光景は一体――。
トーマは唇を噛みしめ、そして叫んだ。
「退却する!下がれ!」
その声に、ヴェルナーとシンが反応する。
「ヴェルナー!シン!下がらせろ!戦わせるな!」
そうしてトーマは馬の横腹を打ち、北へ向かって駆け出した。
「おいっ!どこに行くんだよ!」
ヴェルナーは事態が呑み込めず、トーマの後ろ姿に叫ぶ。
「トーマ!」
しかしトーマは振り返らず、そのまま姿が見えなくなった。
「どうなってんだ……!」
ヴェルナーはあえぐように叫び、戦っている騎士たちの方を見た。
「……地獄だ」
隣にいるシンがぼそりと言った。その顔は白い。ヴェルナーは歯を食いしばり、叫んだ。
「退却だ!全員下がれ!下がれーっ!」
ヴェルナーは前線に駆ける。
シンは、その背中を見ていた。自分たちは、ネムスの襲撃に備えて戦いに来たはずだった。国を守るために。しかし眼前のこれはなんだ?戦いではない。誇り高き騎士の姿が、どこにある――。
シンの目から涙があふれた。なんの涙かわからない。馬の横腹を蹴って、喉が裂けるまで彼は叫んだ。
「退却しろ!下がれええええッ!」
トーマは、同様の惨事に見舞われているパロスの騎士たちの間を駆け抜けた。そして砂塵の中にパロスの副騎士長の姿を見つける。
「副騎士長!騎士たちを下げろ!」
トーマの声に、パロスの副騎士長は振り返った。その顔は、煤にまみれていた。
「これはただの虐殺だ!」
そう叫んだ瞬間、パロスの副騎士長の顔が凍りついた。トーマはそのまま走り去る。しばらく走った後ろから、退却を告げる笛の音が聞こえた。
トーマは歯を食いしばり、爆発しそうな心臓を握りしめ、叫び出しそうになる己を必死で戒めた。
これより、数日前――。
ロークは、タグヒュームから一睡もせず、マーンカンパーナへ馬を走らせていた。しかし、タグヒュームを出た翌日の晩から、南の一帯で降り続いた雨が、ロークの体をじわじわと弱らせた。マーンカンパーナへ、最後に馬を乗り継ぐために立ち寄った村で、彼は昏倒した。タグヒュームを出て、二日目の晩である。
意識を取り戻したのは、三日目の昼過ぎのことだった。軋む体をかかえるように、再び馬を駆け、マーンカンパーナへ辿り着いたのは、タグヒュームを出て五日目の朝だった。
王はマーンカンパーナに戻ってきていた。奇しくも、ロークが彼に全てを告げ、「止めよ」――、そう命じたときだった。東の空が赤く、黒く、禍々しさに染まるのを、ロークは見た。
「――ああぁ」
震える声で、彼は叫び、崩れ落ちた。
そしてまた別の場所、スタウィアノクトで、十五のリリーもその炎を見た。太陽は雲に覆われて見えないというのに、東の果てが赤い。
「爺、あれはなんだ……?」
リリーは問う。彼女の背後に控えている副官は沈黙している。
「爺……」
そして悲劇は、繋がり、連なり、さらなる悲劇を呼んだ。
ステルラという、舞台でもって。