5.うたかた
三年ばかり、時を遡る。騎士の街、ステルラ。
その日、ステルラ公マリア=ウェルグローリアは、ステルラ王国騎士団の総騎士長であるリヒャルト=ウルブリヒト、副騎士長トーマ=ウルストンクラフト、同じく副騎士長ダミア=ガルシアを自らの執務室へ呼んだ。
執務室にはその他に、マリアの副官、クレイグ=メルウィルがいる。
「タグヒューム公アレクセイ=ライティラ殿から援軍の要請がありました」
マリアは、静かに告げた。
「援軍、とはつまり、緊急派兵ですか」
尋ねたのはダミアである。うねった黒髪に、腫れぼったい目、鷲鼻の、じきに五十を迎える老騎士である。しかし、七十になっても前線に立つリヒャルトが総騎士長である。ステルラ王国騎士団における老騎士の基準は曖昧だった。
マリアは、一枚の手紙をリヒャルトに差し出した。内容を確認して、リヒャルトは眉間に皺を寄せる。
「異族ネムスがタグヒュームに総攻撃を仕掛ける動きあり、ですか。大層な話ですな」
一通り目を通してから、彼はそれをダミアに渡す。ダミアもまた、表情を険しくする。
「『各騎士団に援軍を請う』とありますが、ウェクシルム公とパロス公は何と?」
「パロス公は了承し、すでに援軍を向かわせたそうです。ですが、ウェクシルム公……、あの聡明な甥が、返事を渋っているとか」
「ローク=ウェルグローリア王太子殿下ですか……」
マリアの返答に、リヒャルトはうめくようにつぶやく。素直な反応に、トーマは苦笑した。
後にタグヒュームの領主となるロークはこの時、「騎士城」と呼ばれる城塞都市、ウェクシルムの領主だった。もう七年にもなる。東方の要であるウェクシルム王国騎士団を、彼はより強固な軍隊に錬成した。
今、「騎士城」の名は、城塞都市という外形的な特徴を示すものではなく、「次代の騎士王が君臨する城」として象徴的に認知されている。
彼の名にリヒャルトが渋い反応をするのは、性格的な問題である。竹を割ったような性格のリヒャルトと、柳に雪折れなしといったふうのロークとは、どうにも相容れなかった。
ともあれ、事態は深刻である。
「ネムスの民は森に生きるのだと聞きますよ。白帯に踏み込めば命はない、といわれるほどには気性は荒いのでしょうが、その領域を侵さない限りは戦いなど……。少なくとも、前例はない」
白帯とは、ネムスの森を囲む白砂の一帯である。トーマの話に、リヒャルトはふんふんと頷く。しかし、ダミアは彼をぎろりと睨んだ。
「前例がないからといって可能性がないとは言えん。判断を誤れば取り返しのつかんことになる」
「それはそうですが、本来、王国騎士団は王陛下の命令なしに領地外に出動することはできないのですよ。タグヒュームの緊急派兵要請は、あの土地の特殊性を鑑みて、相応の事態が起こった時のことを想定して与えられた権限なのですから。相応の事態かどうか、考えないわけにもいかない」
「そんなことはわかっている!だが、異族の腹積もりなどわかるものか!」
「だからこそ、慎重にと申し上げているのです」
「私が浅薄だと言いたいのか!」
「……内親王殿下の御前だぞ」
ダミアが声を荒げたところで、それまで置物のようにマリアの後ろに控えていたクレイグが言った。マリアがクレイグを制するように右手を小さく上げる。ダミアは、むっつりと口を噤んだ。
「王陛下は例年通り、コンルーメンの聖霊祭に出席されておいでです。お戻りは半月ほど先でしょう。タグヒューム公の言う通りの事態が起こっているとすれば、陛下が戻られるのを待つ猶予は……、ないと考えるべきですね」
マリアは言った。
眉間の皺を一層濃くして、リヒャルトが口を開いた。
「直接関わりはないかもしれませんが、いいですかね、ステルラ公」
マリアは、右手を前に差し出して「どうぞ」という仕草をした。
「アレクセイ殿についてですがね。どうも、腑に落ちんところがあるんですよ。タグヒュームは難しい土地です。ネムスの民は地上に残された異族、神の眷属ってやつですよ。神輝の力を生まれながらにその身に宿してるってんだから恐ろしい。そんなものが住まう地に、上流貴族で、しかも文官出身のアレクセイ殿が自ら志願したってのが、どうもね」
マリアは両手を組み、目を伏せた。長い睫毛の影が頬に落ちる。
タグヒューム公、アレクセイ=ライティラは王妃の父である。
かつては宰相として王に仕えていたが、娘が王に嫁ぎ、王の姻戚となったことで腐敗を招いてはならないと、自ら宰相の任を降りた。それほどに廉直な男である。
しかし、どうにも潔癖すぎるきらいがあった。
そんな男が、一度隠居したにもかかわらず、突然志願してタグヒューム統治の任に就いたのである。それから一ヶ月足らずでの援軍要請、しかも、毎年王が不在にするこの時に、である。
――確かに、タイミングがよすぎる。
トーマは思った。
「……いずれにせよ、行ってみないことには結論は出ませんね……」
マリアは、静かに言う。
タグヒュームの特殊性とは、その土地が脅かされることが、国家の危機に直結する点にあった。一つには、異族であるネムスの存在、もう一つには、ネムスの森がある白帯の背後に、強国アルジャンジュが控えていることである。これらは、ベジェトコルにとっては存亡に関わる脅威なのである。
「おそらく、ロークも最終的には兵を出さざるを得ないでしょう」
タグヒュームと同じく、ウェクシルムは東の国境を守る役割を担ってきた。
さらに、アレクセイはロークにとって血のつながった祖父である。ライティラは代々ウェルグローリアに仕える家門であり、王の姻戚となったことで、さらにその力を増している。その繋がりもまた、軽視することはできないだろう。それは、マリアにも同じことである。
「トーマ」
マリアは、伏せていた目をトーマに向ける。
「貴方に判断を任せます。行ってくれますか?」
ゆるやかに肩に落ちるプラチナブロンドの髪に、長い睫毛に縁どられた青碧の瞳。
その髪に、瞳に、トーマはかつて親衛隊の兵として仕えた幼い姫を思い出した。あの幼くも気高い姫君を思うと、無条件に口元が緩む。あるいは眼前の女性に惹かれたのも、始めはその面影によるものだったかもしれない。
「どうぞ『行きなさい』とお命じください。私はその声の永久の奴隷となりましょう」
トーマは、芝居がかった所作でマリアにお辞儀をする。そんな彼に、彼女は柔らかく笑んだ。
「では、行きなさい。トーマ」
「おれは絶対に連れて行けよ!」
トーマは、騎士館の屋上で煙草を吸いながら、団員の名簿を眺めていた。
顔を上げると、ヴェルナーがずんずんとこちらへ向かってやって来る。その後ろに、軽やかな足取りでシン=ウィーラントが続く。
王国騎士団で、トーマが最初に任されたのは、腕は立つが問題児だらけの第一分隊だった。二人は、かつての問題児の筆頭である。
今、トーマは昇格し副騎士長となり、二人もそれぞれ分隊を任される長となっていた。
「何の話だ?」
「すっとぼけんな!タグヒュームに行くんだろ?」
「おれも行きたいです、タグヒューム。ネムスの民ってどんなんでしょうね?でっかい翼が生えてるって本当ですかね」
「お遊びならすっこんでろ!」
「何を?お坊ちゃんこそすっこんでろ!」
「誰がお坊ちゃんだ、こらあ!」
トーマは呆れ顔で、ため息と一緒に煙を吐く。
分隊を任されるようになったといっても、トーマの前では何も変わらない。彼が王国騎士団に来た直後と比較すれば、大分角が取れてはいるが、相変わらず真っ当なコミュニケーションがとれない問題児たちである。
「お前ら、うるさい」
「なあ!じいさんがちょっとキナ臭い感じがするって言ってたぜ。信頼できる奴を連れて行ったほうがいいだろうが!」
「それじゃあ総騎士長を連れて行くしかないじゃないか」
「てめえ!」
トーマは笑った。ヴェルナーも、シンも笑っている。
親衛隊での日々も、穏やかに思い起こされるが、ここ王国騎士団での日々は、毎日がめまぐるしく、面白い。生まれて初めて、この身を捧げてもいいと思える恋もした。たとえ叶わぬことがわかりきっていても、悔いることはないと、そう信じていた。
「わかったから仕事しろよ。お前ら午前訓練の指導だろうが」
「あ、やべえ!トーマ、絶対だからな!」
「わかったわかった」
「おれも絶対ですよ~」
「ハイハイ」
ヴェルナーとシンは、互いを小突きあいながら走り去った。その様子を、手のかかる弟を持った兄のような気分で見送る。
――とにかく、行くしかないのだ。
トーマは思う。事態がどの程度のものなのかわからない以上、マリアの言う通り、行くかどうかを迷っても仕方がない。それならば、行った上で、然るべき選択をしなくてはならないのだ。
ヴェルナーのいう通り、信頼できる者を選んで行かなくてはならない。どんな事態になったとしても、トーマの意思をくみ取って動くことができる者を。
不穏な気配を、確かに感じていた。
その晩、トーマは再びマリアに呼び出された。今度は彼だけが、彼女の自室に呼ばれた。
マリアが個人的にトーマと会う時、取次役であるクレイグは、必要事項以外、一切トーマと会話をしない。目を合わせることすら、ほとんどなかった。
いつも通り、頑なに背中を向けるクレイグに、トーマはふと、話しかけてみたくなった。この事態に際し、物言わぬ彼が何を考えているのかを知りたくなった。
しかし、彼の背中から感じる拒絶感は、マリアに落胆しないでいるための、彼の複雑な感情の表れだと、トーマは考えていた。マリアと共にこの地に赴き、それ以降ずっと彼女を支えてきた彼とマリアの間には、揺るぎない信頼関係が築かれている。そこに水を差したのは、むしろ自分の方なのだ。
その日も結局、話はしなかった。
部屋の前でクレイグと別れて、扉をノックして中に入る。
マリアはベッドに腰掛けていた。青碧の瞳には、昼間とは違って不安の色が見て取れる。
「ロークは兵を出すことを決めたそうです」
「そうですか……。まあ、そうでしょうね」
彼女は裾の長い白の寝巻に、光沢のある青色のガウンを羽織っている。プラチナブロンドの髪は片方の肩に寄せられて、白いうなじが露わになっている。燭台の炎が揺れるたびに、頬に落ちる睫毛の影と、濡れた瞳が揺らめいた。
本当に、美しい人だった。
「しかし、いささか穏やかでない話も聞きました」
「と、いうと?」
「アレクセイ殿は、大変な異族嫌いであると」
トーマは目元に力が入るのを感じた。
――異族嫌い?
まさか、今回の要請が全くの私怨による可能性があるということだろうか。
そんなことは許されない。やや潔癖に過ぎるとしても、王に並々ならぬ忠信を誓う男が、そんなことをするはずはない。
しかし、万が一そうであるとしたら、身内だけでことを済ませるほうがいいはずだ。タグヒュームに配置されている国衛軍だけでは足りず、王国騎士団に援軍を請う理由は何なのか。
「トーマ」
随分と険しい顔をしていたのであろう。じっと彼を見つめるマリアの顔は白く、色をなくしていた。
「その話とて、ただの噂にすぎません。ですが、知っておいてください。何があっても対処できるように」
トーマはマリアの前へ歩み寄る。片膝をつき、彼女の手を取った。小さく震えている。
王国騎士団に来たばかりの頃、この地を担う領主の肩があまりにも華奢であるのに驚いた。今となっては彼女の才覚に疑う余地はないが、距離が縮まるほど、この細い体が、このステルラを担うものであると思うたびに、幾重にも、彼女を守りたいと願う覚悟が重なる。
トーマはその白く滑らかな手の甲に口づける。身を乗り出し、マリアの頬に触れ、そっと唇を重ねた。
「指輪を」
彼女は言い、右手の人差し指にはめられた、赤い石の付いた指輪をトーマに手渡した。それは、彼女が母親から譲り受けたという指輪だった。
「マリア、これは――」
受け取れない、と言いかけた。しかし、マリアは指輪を置いた彼の手を両手で包み、祈るように両目を伏せる。儚く、清らかな姿に胸が締め付けられる思いがした。
首に下げた小さな指輪が、胸元に当たった。王国騎士団に入る折、幼い姫が授けてくれたものである。姫が自ら注文して作らせたという指輪は、彼の指には随分小さく、小指にもはまらなかった。それをお守り代わり、ずっと首から下げていたのである。
トーマはゆっくりと笑んだ。大事なものだったが、だからこそ目の前の彼女に差し出す意味がある。トーマには小さくても、彼女の指には合うだろう。
丁寧に革紐に通した指輪を外し、彼女の左手の薬指にはめた。マリアはしばらくその指輪を眺めていたが、そっとそれに口づけ、トーマを見て言った。
「必ず、無事に戻ってくださいね……」
その、消え入るような声を、彼は永遠に忘れることはない。