第八話
「なぜ、あんなことを?」
瞳真さんがそう尋ねたのは、スタウィアノクトの街を見回っているときだった。鈴樹は東屋に集まってゲームをする老人たちに、横から手を出していた。
「納得できないか?」
瞳真さんの方を向き直り、鈴樹は艶然と笑む。
「私のすることに納得できないのなら、ルドビルへ帰るか」
その一言に、瞳真さんの顔色が変わる。迅さんが何か言いかけたが、それが声として発せられるより先に、瞳真さんの拳が、東屋を支える柱の一つに、打ちつけられた。東屋に絡まる蔦の葉が、はらはらとゲームの盤上に落ちる。
老人たちは、盤上の小さな葉を気にすることもなく、駒を進める。
「どういう意味だ……!」
鈴樹は、瞳真さんの顔をじっと見ていたが、やがてあっさりと、言った。
「冗談だ」
「じょう……」
瞳真さんは顔をひきつらせる。迅さんが口をヘの字に曲げる。
「怒ったか?」
「怒らないと思うのか!」
「思わん。私が君を手放すときは、君が死ぬとき以外にない」
あっけらかんと言うわりに、目は真剣だった。瞳真さんもそれに気付いたのか、柱に打ちつけた拳を引き下げる。
「なぜ君が怒るのかと言えば、君がここに辿り着くまでの経緯、その一つ一つの体験に伴う感情がそうさせるからだろう。違うか?」
「……いいや」
「そしてそれを知るからこそ、むろんすべてではないにせよ、だ。私にも覚悟が生まれる。君に向けて、死ぬまで手放さんと、そう宣言する覚悟がな」
真正面にそう言われて、瞳真さんは少し気まずいようだった。唇を引き結んで、黙っている。
「だが、彼らにはそれがない。彼らの話が嘘であるとはもう思いはせん。そこにかける思いが偽物とも言い切れない。だがしかしな、数百年もの時間を越えて、はるか彼方の約束を頼りにして、私は一体何者だ?ただ一人の個人として、十数年の時を生きたに過ぎないこの私は、この目で一体何を見ればいいのだ?」
鈴樹は、遠くを見ている。おぼろ山のその先にある、暗夜の騎士団の住まう、その地を、そうして眺めても、決して目に映ることのない、遥かなる地を、見るかのように。
「お姫さん、あんたって……」
迅さんがため息をつく。
「なんだ?」
「いや……、あんた、おもしろい人だな」
「それは褒め言葉として受け取っておこう」
「……だが、いいのか」
瞳真さんが、落ち着きを取り戻した声で言う。
「ああ、マーンカンパーナで君が言ったことならば覚えている。私の身を守るものが必要だと、そういう話だろう」
迅さんが片眉を上げる。それを一瞥してから、瞳真さんは言う。
「カイ=ノクスフォアが言う、『目に見える刃』ではあなたは守れないということ……。その意味はわかる。下手を踏めば、国が二つに割れることになる。だがだからといって、この街があなたを守るかと言えば……」
「わかっている。それに、このまま終われば私は味方を一人、失うことになろうからな」
「姫様」と、最後に鈴樹を呼んだ、アンゲロさんの怒声が蘇る。スタウィアノクトの領主として、鈴樹とアンゲロさんの間には、確かな信頼関係が成り立っていたのだ。アンゲロさんは、スタウィアノクトの若者たちを残して、マノックへ帰ってしまっている。
三年前、初めての鈴樹との対面を、愛おしそうに語ったアンゲロさん。その記憶は、彼自身のものだ。それでも、数百年の記憶と、それに基づく大義の前にあって、ただ一人の個人の記憶と信頼など、小さなものだろうか……。
鈴樹が軽やかに、ふ、と小さく笑んだ。
「不安か?」
そう問われて、瞳真さんは眉を寄せる。
「確かに私は、彼らに石を投げつけたのだ。しかしその一石とて、今このときに、ただ一人の個人である私と彼らとの間に投じられたものなのだよ。いかなる展開になろうとも、人と人との間に紡がれる関係性に、心が伴わないものなどない。それが怒りであろうとも、だ。これがただ道に打ち捨てられるものとなるか、波紋を広げるものとなるかは、結果を待たねばならん」
「しかし……」
瞳真さんは食い下がる。その背景にあるものを僕は知らないが、この国の内情に関わる心配ごとがあるのだろう。
瞳真さんの様子に、鈴樹は人差し指を立てて瞳真さんの目の前に差し出した。
「ステルラの一件に意味はある、と言っただろう」
そう言って、鈴樹はまたにやりと笑んだ。
「ステルラの始まりは、迅がステルラを出たときか……、あるいはもっと前、私がそこを訪れたときからかな。私は撒いた種が芽吹くのを待っているのだよ。これはそう遠くない。というか、私と相対するものが、まず最初の一手に選ぶであろうものへの返礼だからな」
それは、いたずらが成功するのを待つ少年のようでもあり、一方で、老獪な……、形容しがたい、笑みだった。
「我らの姫様は、怖いお方じゃあ」
東屋の老人の一人が、盤上に落ちた葉を指先でつまんで、そう言った。そうして、その葉を、鈴樹に差し出す。まだ幼い、淡い緑の小さな葉を、鈴樹は受け取り、くるくると回して見る。
「それは、芽吹くのを待てということか?」
瞳真さんが尋ねる。鈴樹は満足そうにほほ笑んでいる。
小さな葉の、葉脈の一本一本が、太陽の光にかざされて、より強く、瑞々しく、緑の線を描いている。
「さて……」
吸い込まれるように、小さな葉を見つめていた僕の口元に、鈴樹はその葉を差し出した。その白い指先を見やって、その向こうの、蒼碧の目を見る。強く、瑞々しく、美しい……、宝玉の目は、僕の目線を受け取って、柔らかく笑んだ。
「リコを呼んできてくれ」
「……リコ?」
「忘れたのか?」
鈴樹は、東屋から出る。僕の側を通りすがる瞬間に、風になびくプラチナの髪を、指先が追いかけそうになる。
太陽の下で、くるりと振りかえって鈴樹は言った。
「今夜は、満月だ」
もっと喜ぶかと思っていたが、月明かりが差し込む塔の底で、リコは静かだった。昨日の話が尾を引いているのか、そういえば、彼らの右手に埋め込まれた神輝石に対する反応は、少し過剰だったようにも思える。
神輝の毒をあおる禁術は、もうコンルーメンでも行われてはいない。
――少なくとも、表向きは。
でも、リコの反応は、それを目の当たりにした者のそれであるように思えた。
うつむいた横顔に、問いかけようとした瞬間、塔の回廊を鈴樹が下りてやって来た。後ろに、瞳真さんと迅さんもいる。
「優祈、持ってきたか?」
「ああ、うん……」
暗い顔をしたリコに気をとられつつ、懐から濃紺の布袋を取り出し、口を開ける。中には、青銀に光る、ルニスピアの神輝石をはめ込んだペンダントが入っている。
このペンダントを、ステルラでの一件が済んでから一度、鈴樹に返そうとした。鈴樹は笑って、差し出した僕の手を、そっと押し返した。
そんなわけで、ペンダントは今に至るまで僕が持っていたのだ。布袋から丁寧に取り出して、鈴樹に手渡す。
鈴樹はペンダントを受け取ると、回廊の出口とは反対の石の壁に向き合う。
「さて……、どこだったかな」
石造りの壁に、鈴樹は指を這わせる。そうされて注意を向けてみれば、壁に埋め込まれた石の一つに、気配を感じた。
「そこ……じゃ、ないですか?」
僕が言うより前に、リコがその一つを指さした。まだ少し声が暗い気がしたが、それでも少し安心する。
「ふむ、やはり君たちにはわかるものなのだな。ここに、紋がある……」
リコが指差した石の中心に、小さいが、ルニスピアの紋章が彫ってあった。神輝の気配がわからなければ、この小さな目印を探さなければならないらしい。……それでも、コンルーメンのルニスピアの教会を探すよりは、簡単かもしれないが。
鈴樹は、その小さな紋章に、ペンダントを重ねあわせる。じわりと、石の壁の隙間に青銀の光が広がったかと思うと、次には、光で視界を奪われた。
次に目を開けたとき、石の壁の一面は、なくなっていた。そして、その先に――。
「あれが……」
リコがつぶやく。
石の壁の先の湖に、ぽつりと、青銀の祭壇が浮かんでいる。昼の間、そこには何もなかったのに。
夜の空のような濃紺の、四本の柱に支えられた白銀の社。その中心に据えられた、八角形の青銀の祭壇の上には、まるで光の中から湧きあがったような、白い、白い花――。
「すっげえ……、けど、どうやってあそこまで行くんだ?」
目は祭壇に釘付けにされたまま、迅さんが言う。確かに、祭壇は浮き上がって見えるが、そこに行く足場がない。
「踏み出してみればわかる」
鈴樹はそう言って、迅さんの背を、消えた石の壁の向こう側に押し出した。
「ちょっ、おっ、……」
空に投げ出され、迅さんは慌てて瞳真さんのマントを引き掴んだ。突然引っ張られ、瞳真さんも体勢を崩し、湖の上に足を踏み出した。
湖の上の、見えない足場に。
「……なんじゃこりゃ……」
呆然と、迅さんが言った。その様子がおかしかったのか、けらけらと鈴樹は笑って、見えない足場をすたすたと進んでいく。瞳真さんは、渋い顔でマントを掴んだ迅さんの手を振り払う。
僕とリコは、少し顔を見合わせて、なんだかおかしくなって、笑った。そして、鈴樹たちの後に続いて、祭壇へと向かう。
「初めて見たときは、私も驚いた……。だが、およそ想像しなかったことが起こるそのことよりも――」
祭壇の前で、鈴樹は言う。
暗闇の中で光る、白い花、祈りの花。ルニスピアに捧げられるそれは――。
「死者を、悼む……」
リコがつぶやく。
祭壇の壁面に、小さく文字が刻まれている。
『永遠の友を悼む』
それは、神代の文字で刻まれていた。ここにこの言葉を刻んだ者は、この小さな祈りを、確実にルニスピアに届けようとしたのだ。
僕は、祭壇の前に立つ、鈴樹の横顔を見る。
蒼碧の目、プラチナの髪――、かの死者と、同じ……。
「胸を締め付けるほどに、美しい――」
どっしりとした、落ち着いた声がした。僕たちは振りかえる。振りかえったその先に、アンゲロさんが、立っていた。悠然と、笑んで。
「アンゲロ……!」
鈴樹の声は、少し震えていた。アンゲロさんはほほ笑んだまま、少しうつむいて右手で胸元を押さえた。
「我らが王……、あなたがそこに立っている、その姿に、魂が震える……」
そう言った、アンゲロさんの顔は、今にも泣き出しそうだった。
「……アンゲロ……」
「だが姫様、私はね、それほどに美しく、胸を締め付ける姿を、もう一つ知っている」
明瞭な声で、アンゲロさんは言った。そして顔を上げ、真っ直ぐと鈴樹の下に歩み寄り、彼女の前に立つ。
「幼く、儚げな少女だった。身一つ、心一つ……」
そう、ぽつりとつぶやいた。大きな手が、ためらうように、鈴樹のプラチナの髪をなぞって、指先を空に迷わせる。
鈴樹は、眉を寄せる。そして、アンゲロさんの迷いを、ためらいをはねのけるように、アンゲロさんの目の前に右手を差し出した。
アンゲロさんは少し驚いたようだったが、そっと笑んで、その手を取り、跪いた。そうしてしばらく、鈴樹の顔をじっと見上げていたが、やがて、鈴樹の手を両手で包み、額に当てた。
「悠久の記憶を捨てよと、あなたはおっしゃる。残る身一つ、心一つの私でよければ、あなたの側で、あなたに仕えよう。美しき我が王、鈴樹=ウェルグローリア……!」
そして、鈴樹の白い手の甲に、口づける。
「……十分だ」
安堵の滲む声で、鈴樹は言う。アンゲロさんは、鈴樹の手を両手で握ったまま、うつむき、また笑った。
「忘却は、許されぬ……」
瑞々しい、艶やかな声。暗闇に立つカイさんの姿は、夜の景色にあつらえたようだ。その背に隠れるようにして、カルメさんも立っている。
「カイ=ノクスフォア……」
祭壇の前に立つ鈴樹を見るカイさんの目は、やはりどこか遠くを見ているようだった。
「……かつて、かの友は、正しく生きようとしたのだ。誠実に、清廉に、人を愛し、信じようと。だが、最期のそのときに、悲劇は、その志を、魂をも呑み込んでしまった……」
その場にいる皆が、顔を強張らせた。
悲劇を前に、どう生きる?
正しくあろうとした。
誰かを愛そうとした。
何かを信じようとした。
その全てが、悲劇の糧になることを、この国に生きる人は、誰もが知っている。
「記憶の楔から、遙か彼方の約束から、解放されるときをどれほど待っても!私はかの悲劇を知ってしまったのだ!その意味を知らずに、答えを知らずに、留めたいと思わずとも、忘れることなどできぬ!」
その声は、叫びは、カイさん自身のものだ。悲劇を知れば、知らなかったときには戻れない。じりじりとくすぶり続け、内から身を焦がすのだ。
受け継いだ記憶は、この人のものではなかった。でも身を焼かれ、焼かれるうちに、それは彼から切り離せるものではなくなった。
――忘れるな……――。
唐突に、心臓を掴まれるような痛みが走った。乾いた唇で、誰かが言う。誰かが。
誰が……?
「悲劇の答えを、知りたいか……」
鈴樹が言った。そして、ふう、と息をついて、北の空を仰ぐ。
「それは私も知りたい……。答えなどないと、そうだとしても、あきらめきれぬほどに……」
遥か北の果てに、雪に閉ざされた罪人の塔に、彼女の兄がいる。誰もがその治世の安寧を疑わなかった未来の王は、悲劇のうちに呑まれたのだ。
「カイ=ノクスフォア」
鈴樹は彼の名を呼んだ。彼らの永遠の友へ、その魂が安らかであることを祈り、祈り続ける青銀の祭壇に背を向けて、真っ直ぐとカイさんに向き合って。
「私を、君たちの住まう土地へ連れて行け。悠久の約束のうちに、君たちが作り上げたその全てを、私に見せてくれ」
カイさんは、鈴樹を測るように、彼女の顔を見ている。しばらくそうした後、また、艶やかな声で言う。
「……いいだろう、案内しよう」
カイさんの言葉に、カルメさんが顔を上げた。そして、鈴樹を見やる。何か言いたげにするが、結局、鈴樹の顔を見つめただけで、またうつむいてしまう。
「おぼろ山の向こう……、エドガーが我らに授けた調和の大地へ……!」