第七話
日が暮れて、鈴樹は僕と瞳真さんと迅さんを連れて、スタウィアノクトの街を見回る。一日の仕事を終え、人々は夜を迎える準備をする。穏やかに、平らかに。
瞳真さんの後ろで馬に揺られながら、僕は考える。
――戦わなくてはならない。この地に眠る、悲劇の種と。
マノックで、アンゲロさんはそう言った。
「悲劇を乗り越え、心ある王に、か……」
鈴樹がぽつりとつぶやいた。
その言葉を、瞳真さんは、迅さんはどう聞いただろう。
僕は?ジーネ村で、悲劇を終わらせたいと叫んだ、僕は……?
そもそも悲劇とはなんだろう。
避けられないいくつもの選択の上の、取り返しのつかない喪失であるとするなら、悲劇を乗り越えるとは、どういうことなのだろう。
失ったものよりも価値ある何かを見つけることだろうか?
そもそも、代えがたい価値あるものを失うことが、悲劇の前提ではないのだろうか。
鈴樹の横顔は、遠くを見ている。
遥かかなた、夜の帳が下りていく、悲劇の地を。
その晩、瞳真さんと迅さんが、僕の部屋を訪れた。扉を開けると、酒瓶と白い陶器のカップを手に、「飲もう」と言って笑った。
青灰色の石畳に、大きな窓から月の光が入り込む。三人だけの宴の明かりには、それで十分だ。
カップに、琥珀色の林檎のお酒を、迅さんが注いでくれる。カップを受け取って、軽く口をつけると、さわやかな香りがふわりと漂う。呑み込むと、冷たい液体が、香りだけを残して喉の奥を通り過ぎていく。
「優祈くん、君に聞きたいことがあって」
瞳真さんが言った。その横で、迅さんが、林檎の香りを確かめるように酒瓶とカップに交互に鼻を近づけて、匂いを嗅いでいる。
「カイさんたちのことですか?」僕はたずねる。
「……いや……まあ、そうなんだが」
瞳真さんは、少し困ったように口元に手をやる。
「『なぜ、悲劇は起こるのか』……」
記憶をなぞるように、瞳真さんは言った。ようやく満足したように、迅さんは酒瓶を床に置く。
「なんだそりゃ?」
「二人、同じことを言った男がいた。一人は宰相妖世=ビスケジーン、もう一人は……、雷羅様の腹心、反逆軍ランク=キルヒ……」
「ランク、って確かあの、タグヒュームにいた?」
「ああ、もとはウェクシルム王国騎士団の副騎士長だった男だ」
「それと、宰相?」
「ああ」
「その二人が、同じことを?」
「ああ……」
瞳真さんは、眉を寄せ、額に手をやる。
「どうつながるんだ?それ……」
迅さんは首を傾げ、カップに口をつける。
「それが、困ったことにつながってしまう……。今から言うことは、鈴樹も、それどころか、王国議会の諸侯を含め、ほとんどの者は知らないことだが……」
瞳真さんは、一つ息をつく。
「宰相を王宮へ招いたのは、雷羅様なのだ」
ごくり、と迅さんが林檎酒を呑み込む音がした。僕には展開がよく読めないが、迅さんは目を丸くしている。
「……お前、それってつまり、宰相が反逆軍かもしれないっていう……」
口元をひきつらせて迅さんが言う。遅れながら、僕の目も丸くなった。
「あのつかみどころのない男が、単純に雷羅様に従っているとも思えないがな。しかし、大体わからないと思わないか。反逆軍が、雷羅様の軍であるとするなら、『反逆』という形でもって革命を起こす必要がどこにある?そんな真似をしなくとも、あの方が次期国王になることは誰も疑わなかった。陛下との間に遺恨があったわけでもない。それどころか、陛下こそ、誰よりも雷羅様を信頼していたはずだ」
反逆軍の目的。一年前、鈴樹はそれを、タグヒュームの悲劇によって騎士の国ベジェトコルが崩壊しつつあること、と言った。
しかし、その中心人物が鈴樹のお兄さんであるとすれば、確かに矛盾が生じる。国を建てなおすこと、それが目的ならば、反逆者として革命を成すのではなく、次なる王として改革を果たせばいいのだ。
それがなぜ、彼は反逆者にならなければならなかったのか。
「そこで、だ」
瞳真さんは、カップを見つめながら言う。瞳真さんの声に反響して、琥珀色の水面が、かすかに揺れる。
「宰相は言った。ランク=キルヒもまたそうだ。なぜ悲劇は起こるのか。それを引き起こす者がいるからだ、と」
僕は、不意に思い出した。思い出すと同時に、背筋を寒気が走る。
笑っていた。白い肌から、赤い舌を覗かせて、あのステルラの、炎の中で――。
あれは、一体なんだった?
「優祈くん」
瞳真さんに呼ばれて、僕ははっと顔を上げる。
「今、何を考えた?」
「何、というか、あの……」
僕は口ごもる。よく思い出してみれば、あの白い影を、僕は二度見た。
二度目はシンさんが倒れたとき。
一度目は……、ステルラの教会で見たのだ。夢か現実かもわからない、一瞬の残像。あのときは……、そう、あれは……。
シンさんと、初めて会ったときだ。
ステルラでの一件、中心にいたのはシンさんだった。そのシンさんの背後に、白い影がちらつく。そしてあれは、あれは――。
「言ってくれ、優祈くん。おれはこの話に関しては、おれたちには気付けないことを、君が気付く可能性が高いと思ってるんだ」
真剣な眼差しに問われて、僕はなんとか説明しようと試みる。自分が、自分の感じたことを説明する努力をしてこなかったことが、悔やまれる。今は、伝えたいと思っている。伝えれば、届く相手がいるのに。
「うまく、言えないんですけど、現実だったのかもよく、わからなくて……、でも、なんだか、人……、というのか、なにか、おかしな気配を、ステルラで……」
「おかしな気配?」瞳真さんが、優しく促してくれる。
「白い、人を」
「白い……」
迅さんが繰り返そうとした瞬間、瞳真さんが、手元のカップを取りこぼした。琥珀色の液体が床に広がる。
「おい、瞳真……」
「白い……、それは、女か?」
取り落としたカップを気にすることもなく、瞳真さんが問う。迅さんは、拭くものを探したのだろう、辺りを見回していたが、深刻な声に訝しげに瞳真さんを見る。
記憶の中で、線の細い、華奢なその人の姿は、確かに女性に近いように思える。でも……。
「よく、わかりません。僕にはあれが、人であるとも思えなかった。女性とか、男性とか、そういう区別ができないような……」
瞳真さんはうつむく。口元を押さえて、大きく、息をつく。
「なんだよ?なにか、あるのか?」迅さんが尋ねる。
瞳真さんは、迅さんの方をちらりと見て、少し考えてから、言った。
「メルウィル卿が襲われたときにな、見張りに立っていた騎士が一人、昏倒して……。どうやらその間にシンが公舎に侵入したらしい、ということなんだが、その昏倒した騎士が、妙なことを言っていたんだ」
「妙?」
「……白い、女を見たのだと」
「白いって、服が?」
「なにもかも、らしい。服も、髪も、肌も。合ってるか?」
瞳真さんが、僕の方を見て尋ねる。僕は頷く。服のイメージははっきりしないけれど、髪も、肌も、透き通るように白い。それだけならばどこか神秘的でもあるのに、唇から覗く赤い舌が、白い肌に、ナイフで線を引いたかのようで……。
自分の想像に、ぞっとする。
「その女の姿は、ケイって名前の子どもも見たことがあるらしい。騎士館の前で、シンと一緒にいるのを」
「ケイが?」
「ああ……、でもそのときは話が聞けなくてな。迅にしがみついてた子どもだろ?こんなことなら、後々にでも話を聞いておくべきだったな……」
僕は、ケイとした話を思い出すが、白い女性の話は聞かなかった。でも、そうだ。「シン兄ちゃんには美人でオトナの彼女がいる。」そんな話はしていた。それはもしかして、その白い女性のことを指していたのかもしれない。
「しかし、その白い女の話ってのがなんで妙なんだ?」迅さんが首を傾げる。
「ああ、それだ。それだよ……」
瞳真さんが首を振る。混乱しているらしく、また額に手を当てる。
「昏倒した見張りの騎士はな、白い女を見た瞬間に意識を失ったそうだ」
「……なんだそりゃ?」
「しかもそのときのことを、その女の姿を思い出そうとするとな」
僕は、その続きの一言を聞くより先に、身構えた。彼が何を言おうとしているのか、わかったわけでもないのに。
瞳真さんは、言った。
「それが、シンの姿に見える、と……」
背筋を、また寒気が走る。迅さんは怪訝な顔をしている。しばらくカップを揺らして考えて、もう一度、「なんだそりゃ」とつぶやいた。
「優祈くん」
瞳真さんが、また僕を呼ぶ。僕はなんだか寒くて、腕を組んで、両手で両肘をさするようにしていた。
「そういえば、君に直接聞いてなかった。君は、シンの胸に浮かんだトルトニスの刻印を、どういうものだと感じたんだ?」
また、試練だ。
あの刻印について説明することは、白い影について説明するよりも難しい。概ね、華月の理解が間違っているとも思わないが、一つだけ、違うと思ったことがあった。
「これも、うまく言えないんですけど……」
「いいんだ。そもそも、理解しがたいことを尋ねてる」
「僕はシンさんが、神輝の力を後から体に取り込んだ、というようには思えなかった」
「……と、いうと?」
「もっと、深い……、深いところに、結びついて、いるような……」
僕はあのとき、本当はシンさんの体の中の神輝の力を引きとってしまおうと思ったのだ。ステルラの教会で、リナムクロスに埋め込まれた神輝石の力を、指先から吸いとったように。そのときはその力をどう使うかなんてことは考えていなかったけれど、結果的に、迅さんを処刑から助けようとしたときに使うことになった。
でも、シンさんのときは、そうはできなかったのだ。そうしてしまえば、シンさんは死んでしまう。そう感じた。
だから、ルニスピアの神輝石の力を借りて、毒になってしまった力を元に戻すことしかできなかった。
深いところ。存在の、核になるところ。それは……。
「魂、みたいなものに、結びついているような……」
「それはつまり、シンはもとから、神輝の力を体に宿して生まれたということか?」
瞳真さんが尋ねる。僕は答えられない。直感を言葉にすればそういうことになる。
でも、突飛すぎる。
神輝の力を体に宿して生まれる……、それは、人間ではない。タグヒュームのネムスの民、あるいは神代の怪物たち……。そういうものと、同じだということ。
そんな話が、ありえるんだろうか。
迅さんが頭をがりがりと掻く。
「わからねえ……!この話、どこに着地すんだ!?」
瞳真さんはきろりと迅さんを見る。
「お前、暗夜の騎士団の話を聞いて、何も思わなかったのか?」
「何も、って?」
「あのカイって男は、『未だ終わらぬ悲劇の連鎖』と、そう言ったんだぞ」
「それが、何?」
「未だ、ってのはいつからのことだ?タグヒュームからのことじゃない。記憶の楔の話が本当だとするなら、あいつらは何百年って昔の記憶を遡ることができるってことなんだからな。始まり、そしてまだ、終わらない――」
燃え盛る炎。転がる躯。その中で誰かが、絶望を叫んでいる。
ステルラ。タグヒューム。そして、マーンカンパーナの、かつての王都の残骸……。
黒曜石の瞳。夜の中に佇むその人が、何百年、何千年という時を生きる、死の山の怪物のようなあの人が、問う。
――なぜ、悲劇は起こるのか?
「悲劇を、引き起こす者がいる……」
僕はつぶやいた。
「それが、誰か」瞳真さんが問う。
「それが、たとえばステルラで優祈くんが見たような、白い女……、あるいはそれが、シン自身であるって可能性もあるんだが、それはひとまず置いておこう。そういう類のものであるとすれば、だ。シンの胸の刻印にせよ、もう少し踏み込むなら、暗夜の騎士団が鈴樹の前に現れたことにせよ、この地で起こる悲劇はおよそ、神様ってやつの領域に踏み込んだ話になるんじゃないのか。それはたぶん、おれたちの目に見える以上に、大きなものかもしれないって……」
瞳真さんは、何かを思い出したように不自然に言葉を切った。そして、眉を寄せる。
「君がボクを警戒するのは、ボクの良識の問題ではないね。君は自分が舞台の上にいることを知らないのだよ。ただそれでも、第三者としてのボクの姿が見えてしまう。舞台には上がらずに、それを手を叩いて喜んでいるボクの姿がね……」
「瞳真さん?」
僕は尋ねる。瞳真さんは、眉間のしわを伸ばしながら言う。
「いや、いい……。不可解に不愉快なことを言われたのを思い出しただけだ」
僕は迅さんと顔を見合わせて、首を傾げる。
「ともかく、だ。そう考えると、雷羅様が反逆者とならなければならなかった理由も説明がつかなくはない。つまり、倒すべき相手は悲劇そのものではなく、悲劇を誘発する何かである。それは人間の領域を踏み越えた何かで、それと戦うために……、あるいは、その途上で、継君という立場ではいられなくなった……」
「……なあ、それって……」
迅さんは言いかけて、しばらく考えて、顔をしかめた。
「お姫さんも同じことになる可能性があるって、そういう話だよな?」
瞳真さんは、落としたカップにもう一度林檎酒を注ぐ。そしてそれを一息に飲み干して、言った。
「着地点が見えて、何よりだ」
翌日、マノックに滞在していた暗夜の騎士団の三人が、再びスタウィアノクトを訪れた。
昨日と変わらない表情。しかし、瑞々しさを取り戻した声で、カイさんは言った。
「お心を決めていただけましたか、姫君」
その後ろで、アンゲロさんが黙って腕を組み、目を閉じている。カルメさんは、落ち着かない様子で鈴樹を見つめていた。そんな彼女の目を、鈴樹が捉えた。
「カルメ、といったか」
鈴樹の声は、昼間は無機質な灰色の石の壁に反響して、冷たく聞こえる。
「昨日、君が献上するといった貢物だがな、あれはすべて、そのまま持ち帰れ」
カルメさんが、喉の奥で声を震わせる。何か言おうとするが、何を言えばいいのかわからない、そんな様子で、目を潤ませる。
「……姫君」
そんなカルメさんの様子を、背中で感じ取って、カイさんが表情を曇らせる。
「忠義の証に、というのなら、最も価値のあるものを差し出さなければならない。忠誠とは本来そういうものだ。それゆえに、仕える者を間違えれば、命を落とすのだ。かつての君たちの友のようにな」
アンゲロさんが、険しい顔で鈴樹を見た。それは、僕たちとても同じだった。鈴樹の真意が読めず、顔を見合わせる。
「最も、価値のあるもの……?」
カイさんは眉を寄せる。鈴樹は表情を変えない。冷たく、三人を見下ろしている。そして、すう、と白く細い人差し指でもって、彼らを指した。その指先が向かう先に気が付いたのか、カルメさんが隠された右手を、左手で覆う。
「この、楔を……?」
カルメさんの声は、震えている。カイさんは、凍えるような目で、鈴樹を見ている。
「錆びついた記憶など」
冷然と、鈴樹は言う。
「捧げられても、捨てるだけかもしれないがな」
「……姫君……!」
苦々しげに、カイさんは言う。僕はなんとはなしに、マロリーさんを見ていた。彼だけが、鈴樹の背中から目を逸らさないのだ。
「差し出せぬのなら、なおのこと、その楔に意味などなかろう」
「我らが、王よ……!」
あえぐように、カルメさんが言う。数歩足を進め、そして、膝から崩れ落ちた。
「茶番はこれまでだ。去れ!」
鈴樹は、そう言って踵を返した。翻ったマントの影で、鈴樹は頑なに、表情を消している。
「姫様!」
アンゲロさんの怒声が響く。鈴樹は振りかえることなく、廊下の奥に姿を消した。
僕は少し考える。
価値の、あるもの。代えがたいもの。
――悲劇を、生むもの。




