第六話
初めてコルファスを出た日、馬車の中で、僕は華月にこの国の伝説を聞いた。戦争に負けて、王は傷を負った。王は一人の騎士に言う。「お前は騎士たる務めを果たせ」と。そして王は死に、騎士は王の躯を守った。そうして騎士が王となり、この国は、騎士の国になった。
――この話、面白いと思うかね?
華月はそう聞いた。
不思議な話だ。その騎士、エドガー=ウェルグローリア。伝説を信じるのなら、彼は王の躯を守り、負けた戦争を生き残り、そして王になったことになる。そんなこと、できるんだろうか――?
スタウィアノクトには、アンゲロさんと一緒に、マノックに出稼ぎに出ていた若者たちが帰ってきていた。農作業が最も忙しい時期だからだ。そのせいで、街はいつもよりずっとにぎやかだった。
「お姫さんみてえ」と迅さんに称された女の人たちは、なんだかいつもより華やかだし、東屋に集まる老人たちも、若返って見える。お城の広間にはいつも人が行き交って、夜には集まって宴会になって、それが遅くまで終わらないものだから、時折鈴樹に「うるさい」と怒鳴られる。でも、ぶつぶつと文句を言いながら、鈴樹もまた、安心しているように見える。
そんな中に、その人はやって来た。銀の髪、淡い褐色の肌、深い海のような目。神官服のようにも見える、独特の服を着ている。広間へと降りる螺旋階段に、鈴樹の姿を見つけると、恭しく礼をした。
「初めまして、というべきでしょうか?我らが王よ」
瑞々しい、艶やかな声だった。鈴樹は眉を寄せ、螺旋階段からその人を見下ろす。
「化かされたようだと思っていたが、『初めまして』と言われるならば、あれは夢か?カイ=ノクスフォア」
その人はふ、と笑う。
「お許しを。招待されてもいないあの場に、我らは訪ねてはいけない。それゆえに、少し、ずるい手を使ったのです」
「少し?」
鈴樹が問い返した瞬間、息をせき切らせて、広間の入口に影が差した。
「我らが王よ!」
鈴樹がそちらに目をやると同時に、凄みのある声が響いた。ずいぶんと体格のいい女性だ。体格がいいと言っても、アナさんのような女性らしい丸みを帯びたシルエットではない。背が高く、筋肉の盛り上がったごつごつとした体は、日に焼けている。淡い緑の三白眼は、黒く長い睫毛の影で、白目との境がはっきりとわからない。つややかな黒髪は短く切られていて、遠目には男のようにも見えるが、不思議と色気を感じる。
その人は、鈴樹の姿を見るなり、当の鈴樹が怪訝な顔をしているにも関わらず、唇を震わせ、泣き崩れて膝をついた。
「おあ、お会い、お会いしたかった……!王よ!なんと、なんと美しい、ちゃんと、生きておいでだ……!」
最後の一言に、鈴樹はますます表情を険しくする。
「失礼……、彼女はカルメ=セレノミン。もうおわかりなのでしょうが、暗夜の騎士団の長が一人。本当はもう一人、連れて参るつもりでおりましたが、少々、ひねくれ者ゆえ、次の機会といたしましょう」
そう、カイと呼ばれたその人は言った。そして彼は、鈴樹の隣に立っていた僕を見た。一瞬、細められた目は、ひどく冷たい。それ以降、彼は僕とは目を合わせなかった。
「おお、訪ねてきたなあ」
広間の奥から、マノックの若者たちと一緒にやって来ていたアンゲロさんが、のしのしと彼らに近寄っていく。
「アンゲロか」
「そうとも!久しいな、というのも不思議な気がするが」
「……そうだな」
瞳真さんと迅さんが、渋い顔をする。無理もない。ところどころ、意味がわからない。
「おおい、カルメ、そう泣いていては王が困るだろう。顔を上げないか」
アンゲロさんは崩れ落ちて泣いているカルメさんの肩を叩く。カルメさんは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「……貴様、アンゲロか……?」
「そうとも」
「貴様、貴様……!一人だけ、抜け駆けしおって、ああ、でも、会いたかった……!」
そう言って、カルメさんはまた、大粒の涙をこぼしてアンゲロさんに抱き着いた。アンゲロさんは、「わはは」と笑いながら、カルメさんの背中を叩く。
階下に感動が広がるほど、こちらは温度が下がっていく。特に、隣に立つ鈴樹から冷気が漂ってくるような気がして、右半身がぞくぞくする。
「カルメ、アンゲロ、後にしろ」
カイさんが、冷静に言う。その声にはっとしたように、カルメさんはアンゲロさんを引きはがし、鈴樹に向かって片膝をつき、叫んだ。
「我らが王よ!貢物を持って参りました!どうぞお納めくださいまし!」
その一言が、鈴樹の怒りを爆発させた。
「ふざけるな!」
広間に響き渡る声で、鈴樹は怒鳴った。広間のそこここで様子を窺っていた街の人々が、びくりと肩を震わせる。
「なにが王だ!貢物だ!これはなんの茶番だ!」
カルメさんは、目をこぼれんばかりに見開いて、そしてあたふたと目線を泳がせる。カイさんは、アンゲロさんをちらりと見やった。アンゲロさんは、申し訳なさげに肩をすくめる。
肩で息をする鈴樹に、カイさんは静かに、ゆっくりと頭を下げる。
「無礼をお許しください。貢物と引き換えに、信頼を得ようというのではないのです」
カイさんのその言葉に、カルメさんはようやく自分の行動がどう受け取られたのかを悟ったらしい。わなわなと唇を震わせ、そのまま床に滑り込むようにして平伏した。その様子を一瞥して、カイさんは、また静かに言った。
「まずは話を聞いてはいただけませんか」
暗夜の騎士団との会談は、騎士の間に場所を移して行われた。鈴樹が奥に腰掛け、その右側にマロリーさんと瞳真さん、迅さんが並んで座る。僕がいていいのかと思ったが、鈴樹が小声で「いてくれ」と言った。僕は鈴樹の左側に座る。リコはどうしたものかと首を傾げていたが、やがて僕の隣に腰掛けた。それもまた、いいのかと思ったが、誰も特に何も言わない。リコを見やると、明らかに事情がわからないという顔で、にっこり笑った。
暗夜の騎士団の方は、鈴樹に向き合う形で、カイさんが座り、その両端にカルメさんとアンゲロさんが座った。ふと、つい先ほど、カイさんがカルメさんのことを、「暗夜の騎士団の長が一人」という言い方をしたことを思い出した。
すると、暗夜の騎士団は何人かの長によって構成されていて、この座り方からすると、序列としてはカイさんが一番上位にあたるのだろうか。
「さて、何から話しましょうか……」カイさんが言う。
「なにから聞けばいいのかすらわからん!」
鈴樹はまだ怒りの冷めない様子だ。カルメさんは、叱られた子どものように、大きな体を縮こまらせて座っている。なんだか気の毒に思えてくる。とはいえ、鈴樹がこれほどはっきりと怒りを露わにするのは、珍しい気がした。
カイさんは小さく笑った。
「ええ、わかります。我らとて、祖先の魂に繋がれていなければ、到底わからない話です」
「魂だと?」
「左様……」
カイさんは、ゆっくりと、右手をさすった。そうされてから、彼の右手に、気配を感じた。右手は、黒い布で指先以外は隠されている。アンゲロさんとカルメさんの右手に目をやると、彼らの右手の甲も、同じように隠されている。
カイさんは、やがて意を決したように、その布を、左手で慎重に外す。
一瞬、目を疑った。隣に座っていたリコが、その手を覗き込むように、ゆらりと立ち上がる。
右手の甲に、小さな神輝石が埋め込まれている。ゆらゆらと青銀に光る様は、まだその力が保たれていることを示していた。
「なんてことを……!?」
顔を歪め、叫ぶようにリコが言った。鈴樹達は、彼の反応から、その異様さを察したようだった。しかも、それだけではなかった。カイさんが目線を送ると、アンゲロさんとカルメさんも同じように右の手の甲を露わにした。
そこにも、青銀の神輝石が埋まっていたのだ。
「……それは?」
瞳真さんが尋ねる。カイさんは、伏し目がちに答える。
「これは、記憶の楔……。悠久の暗闇は、記憶を遠ざける。それゆえ、夜の神ルニスピアを信仰する者に伝わる、記憶を留める秘術」
「でも、そんなことしたら!」
リコが叫ぶ。
「ええ。この地を離れれば、我らは神輝の毒に侵され、ルニスピアの刻印を穿たれてやがて命を落とすでしょう」
鈴樹たちの顔色が変わる。シンさんの胸に穿たれた、怒れる神トルトニスの刻印。彼らはそれがなんであるのかを、華月に聞いたのだという。
かつて、コンルーメンで行われた、神輝の毒を自らあおることで、力を手にする禁術。方法は違えど、同じことだ。神輝の力を、人である体に取り込めば、過ぎた力は毒になる。
「この地を離れれば、とはどういう意味だ」
鈴樹が問う。リコは、納得いかない様子で鈴樹とカイさんの顔を交互に見やる。
「我らの住まう土地に、一本の大樹がある。それははるか昔、エドガー=ウェルグローリアから授かった調和の種。その力が届く範囲でなら、神輝の力は毒にはならないのです」
思い出す。マノックで足元に流れていた、神輝の力――。それは、大樹の根から流れ出た調和を司る神々の力だったのだ。その正体がはっきりわからなかったのは、マノックがおぼろ山のはずれにあって、気配が薄れるせいだろうか。
「この地の伝説が伝える、そのとき……、時の王にこの地へ追いやられた私らの先祖たちは、絶望したことでしょう。姫様、あなたはおわかりでしょうが、ここは、生者の地ではない。そこに我らを生かすために、エドガーは調和の種を授けたのです。あらゆる神々の力を中和する、その力の下でなら、生きられるだろうと……」
「祖先の」絶望から、「我らを」生かすためにと、アンゲロさんは言った。記憶の楔――、悠久を可能にする神輝の力は、代々引き継がれて今に至る個々の記憶を、一つに結ぶ。
リコは、脱力したように椅子に座る。そして、うつむいて、首を振り、唇を噛んだ。
彼がそうする気持ちは、わからなくない。スタウィアノクト、夜の世界の神、狂える死者たちの王ルニスピアの、佇む地……。エドガーの授けた調和の種は、彼らの先祖を確かに助けたのだろう。
でも、神輝石を手の甲に埋めている限り、彼らは西の地を離れられない。ルニスピアが邪神と呼ばれ、それを信じる者が追われる時代は、もうとうに終わっているのに。
「なぜ、そうまでして……?」
思わず、僕は尋ねた。アンゲロさんとカルメさんが僕を見る。その間で、カイさんだけが、苦々しげに目を伏せた。
「だって、そうでしょう。かつて、貴方たちを助けた一本の大樹がここにあるとしても、今、貴方たちはここを離れて生きることだってできる。神輝の力で記憶を留めて、それが命を脅かす毒と知りながら、なぜ、そうまでして……?」
銀の睫毛の下で、青い目に冷たい光が差す。机の上に置かれたカイさんの手をぽんぽんと叩いて、アンゲロさんが鷹揚に言う。
「私らはこの地での生活をそこそこに楽しんじゃあいるんだがね」
でも、僕は納得できない。離れられないことと、離れないこととは違う。その気配を察してか、彼はがりがりと頭を掻く。
「無論、ヤニとキモン……、二人の息子たちに同じように生きろとは、まあ、言いにくいが」
「約束が」
こらえかねたように、カルメさんが言う。
「約束を、果たさなければ、到底忘れられないのだ!私たちは……!」
「約束……?」
鈴樹が繰り返す。鈴樹の声に、カルメさんはまた、大きな体を縮ませる。
「一粒の、調和の種……。それと引き換えに、暗夜の騎士団は、エドガーのために戦うと約束した……。だが、約束は果たされなかったのだ。それこそが、この国の最初の、始まりの悲劇――」
遠い記憶に思いをはせるように、カイさんがつぶやく。
――悲劇?
その言葉に、騎士の間は水を打ったように静まった。
「誰も……、伝説に隠された真実を知らないのだ」
カイさんは言った。静寂の中で、彼の声は一層艶やかに響く。しかし、その顔は、体中を刺す痛みに耐えるように、険しかった。
「伝説とは、この地の、暗夜の騎士団の?」瞳真さんが問うと、カイさんは首を振る。
「暗夜の騎士団の伝説は、ただエドガーと、我らの祖先との間に交わされた約束を伝えるもの……。あのとき、エドガーはまだ王ではなかった。ただ一人の騎士に過ぎなかったのだ。あの、残虐な王の下に、跪く――!」
声は、熱を帯びてゆく。アンゲロさんが、カイさんの手をそっと握る。その内で、カイさんの手は、固く、固く閉じられている。
「偽りは、この国の始まりの伝説……!あれは、英雄伝などではない……!」
カルメさんは右手を押さえている。打ちこまれた楔の、痛みを堪えるように、身を震わせる。
「おい……、大丈夫か?」迅さんが尋ねる。
「王は!」カルメさんは右手を押さえたまま、叫んだ。
「王は、逃げたのだ……!燃え盛る王都に、エドガーと民を残して……!」
しばらく、沈黙が流れた。
「……逃げた……?」
鈴樹が言う。窺うような、小さな声だった。アンゲロさんは、カイさんの手をそっと包んだまま、どこか、遠くを見ているようだ。
「そもそもが負けた戦……。たった一人で戦って、守れるはずも、生き残れるはずもない。やがて逃げた王を追って、敵が去った後、それをとどめる力もなく、燃える王都に、守れなかった人々の躯が転がる中で、エドガーは一人……、死に呑み込まれるまでのほんのわずかな時間であったとしても、その絶望は、量るに余りある……」
きっとその人も、蒼碧の目と、プラチナの髪をしていたことだろう。炎の中で、絶望を叫ぶ、姿――。
ぞっと、背が凍る思いがした。苦渋を吐き出すように、カイさんが口を開く。
「王は死に、王都を最後まで守ろうとしたエドガーは英雄になり、どういう経緯か、その子が騎士の国の王となった。だが、彼を英雄と呼んだとて、美談には到底なりはすまい……。彼は誠実の人だった。心ある騎士だった。それがなぜ、あのような最期を迎えなければならなかったのか……!」
アンゲロさんが、天井を仰ぎみて、そして目を閉じる。
「しかし、彼を死に追いやった一端は、私らにあった……」
その一言に、カイさんの顔が、歪む。アンゲロさんはゆっくりと目を開ける。
「エドガーのおかげで、私らは西の地に住む場所を得た。しかし結局、西の地は拓かれてはいない。むろん、それは我らがルニスピアの信仰の下にいるとしても、できなかったこと……。結果は変わらない。しかし問題なのは、エドガーが王に背いたということだ」
――それは、裏切り。
何の助けもなく、西の地に追われれば、彼らはただ、神代の自然に呑み込まれ、滅ぶしかなかった。エドガー=ウェルグローリアは、それを看過できなかった。彼は、王の非情を許せなかった。それは、声ならぬ怒りだったかもしれない。でも、西の地を拓くことなく、暗夜の騎士団の命だけを助けることで、その声は、王の耳にも届いてしまった。
そうして、かの国が亡ぶとき、炎の中、置き去りにされたのだ。
それは、復讐だ。
英雄譚などではない。裏切りへの、復讐の物語。
「エドガーは、我らを呼んではくださらなかった……!呼んでくれたら、戦ったのに!たとえどうにもならないとしても、一人で逝かせはしなかった!」
カルメさんが叫ぶ。楔を刺した右手に、大粒の涙が落ちる。
「エドガーは信ずるべき王を間違えたのだといえばそれまでだが、我らとて邪神と呼ばれた神を信じたのだ。王への裏切りを、最後の忠信をもって拭おうとしたのだとても……、炎の中で、絶望に呑まれるエドガーの姿を思わずにいられない……。悔やんでも、悔やみきれない……!」
かみしめるように、カイさんが言う。それは、彼自身の声であるし、同時に、彼だけの声ではないように聞こえる。いくつもの影が重なって、連なって、耳に響く。
アンゲロさんは、うつむく。右手をさすりながら、こぼすように、つぶやいた。
「そうして、いつか、いつかはきっと……そう思い続けてきたのです。それが暗夜の騎士団の伝説。この地に受け継がれる、盟友の約束……。私らは、生まれながらに咎人だ。赦される時を、待っている……」
騎士の間が、沈黙に包まれる。鈴樹は黙っている。僕たちは誰も、なにも言えない。
悲劇の記憶が、彼らをこの地に縛るのだ。「生きておいでだ」と叫んだカルメさんの言葉を思う。祖先の魂に、記憶に、絶望の中でただ一人、死んでいく英雄の姿。
「今、未だ終わらぬ悲劇の連鎖の中で、貴方はこの国の王にならんとしている……。この、スタウィアノクトの地で」
カイさんの声は、かすれている。鈴樹が表情を厳しくした。深い青の目は、目の前の鈴樹を見ているだけではないのだろう。
「行かんとする道の険しさは、貴方もおわかりのはずだ、王よ。この地はもう、平穏であるだけではいられない……」