第五話
夜になった。僕たちは、そのままマノックで一夜を過ごすことになった。思った通り、アンゲロさんの屋敷の広間には、夜になると若者たちが集まってきて、食事をして、お酒を飲んだ。僕たちにも食事が出されたが、その間、誰も何も言わなかった。無言の食事の間中、迅さんだけが気まずそうに、頭を掻いたりうつむいたりして、落ち着かない様子だった。
食事の場には、アンゲロさんもいた。街の人々に囲まれて、豪快に笑っている。僕は広間の奥の扉を見る。その向こうには、鈴樹が一人でいる。にぎやかな声は届いているだろう。一人でなにを思うだろう。
食事の後、僕と瞳真さんと迅さんの三人は、表に出た。屋敷の扉の前で、迅さんはしゃがみ込んで言った。
「おれは悪くねえように思うんだけど……」
瞳真さんは壁にもたれて、迅さんのつむじをきろりと見下ろす。
「悪くないさ。だが簡単じゃない」
「考えたって答えなんか、出るのかよ?どう聞いても、理屈で説明できるような話じゃねえだろうが」
瞳真さんは目を伏せる。迅さんは核心をついたように思えた。考えてもわからない。同時に、それが最大の不安要素でもあるのだろう。「簡単じゃない」、まさにそうだ。
開け放たれた屋敷の扉に影が立って、アンゲロさんが現れた。
「少し、歩かないか」
アンゲロさんは、僕たちにほほ笑みかける。
「鈴樹の側を、これ以上離れるわけにはいかない」
瞳真さんは言った。アンゲロさんは肩をすくめる。
「広間にいる者たちは、半分はスタウィアノクトの若者だ。姫様を脅かそうとする者がいれば、命に代えても守る」
瞳真さんはアンゲロさんの表情を探るように見た。アンゲロさんは、余裕の笑みを浮かべている。体格のせいもあるだろうが、包容力を感じる人だ。
「よっしゃ、行く!」
立ち上がったのは迅さんだった。アンゲロさんは目を細めて笑って、迅さんと並んで歩き始めた。ため息をついて、瞳真さんも後に続く。でも、その背中には意外と迷いがないように見える。僕も立ち上がり、後を追った。
ごつごつとした岩山も広がる木々も、藍色の空に黒く塗った紙を貼りつけたようにしか見えなくなった。空に浮かぶ月の光は、薄い雲に隠されて、頼りない。
「なあ、アンゲロさんよ、なんで『スタウィアノクトの王』なんだ?」
歩きながら、迅さんが尋ねる。
「我らにとっての王だからだ。我らがこの西の地を与えられたとき、ここには『スタウィアノクト』という名前しかなかった。この街は『マノック』と呼ばれるが、それは単純に私の名だからな。スタウィアノクトに住む者にとっての王、だから『スタウィアノクトの王』だ」
「ははあ……」
「つまりスタウィアノクトはそもそも西の未開の地を指す地名なのか?」
瞳真さんが尋ねる。
「そうとも。おぼろ山にはかつて、ルニスピアの神殿があったという。だからこの一帯は、すべて夜に佇む神ルニスピアの地。スタウィアノクトとは、そういう意味なのだそうだ」
でも、この街で足元に流れているのは、ルニスピアの力ではない。そう思って、問おうとしたが、やめた。そもそも足元の神輝の流れを感じているのは僕だけであろうし、答えがわかった気がしたからだ。この一帯がルニスピアの地であるなら、ここは死者の地だ。狂える者の地だ。そこに街を作り、人々が生きるには、別の力が必要だ。
足元に流れるのは、調和の力。エドガー=ウェルグローリアが暗夜の騎士団に差し出した助けとは、これのことではないか。そんな気がした。
「三年前……、スタウィアノクトで病が流行ってな。姫様がここへ来た日のことを、今でも覚えている」
空を仰いで、アンゲロさんが言う。
「なぜ、ここへ?」瞳真さんが問う。
「原因不明の病だったのさ。医師にも薬師にもさじを投げられて、弱い者からどんどん死んでいく。姫様はまだ十五で、気の毒になあ。さぞ苦しまれたろう。そんなときに、薬学の街ヘルバの薬師から、おぼろ山の薬師の話を聞いたんだそうだ」
「おぼろ山の薬師……」
瞳真さんは、何かを思い出すようにつぶやく。
「でも、おぼろ山って入ったら出られないっていうんだろ?聞いたことあるぜ」
迅さんが言う。
「そうだな。しかし、我らならば入っても出てこれる。カイ=ノクスフォア……、おぼろ山の向こうに住んでいる暗夜の騎士団のことは知られていまいが、私は黒曜石をベジェトコルの人間と取引しているからな。マノックのアンゲロなら、おぼろ山に入れる、薬師のところまで案内してくれる、そう聞いてここへ来たのだそうさ」
「なんであんたは……、って、聞いてもわかんねえ気がする」
迅さんが渋い顔で言った。アンゲロさんはからからと笑う。
「だが、しかしな。私は姫様に悪いことをした。エドガーの子孫とこの地で会えたことは本当にうれしかった。でも同時に、私は彼女を試したのだ」
「試した?」
「そう……、おぼろ山の薬師の村に案内する代わりに、何をくれるのかと」
アンゲロさんの横顔を見る。かすかに翳る、愛おしい記憶を辿るような顔。
「それで、お姫さんは?」
「髪を」
「髪?」
「あの美しい、髪をな。止める間もなく切ってしまわれた」
瞳真さんが眉を寄せる。迅さんは口をへの字に曲げている。
僕は想像した。あのスタウィアノクトの街の人々が病に倒れていく。藁にもすがる思いで、唯一の希望を追いかけた、十五歳の鈴樹。アンゲロさんの言う通り、苦しんだに違いない。でもそれが、今の彼女に繋がっている。そんな気がする。
「そして、言うんだ。『差し出せるものはない。身一つ、心一つで頼むしかない』。悪いことをしたと思った。しかしね、身を飾るものをためらいもなく切り捨てて、それでもその姿の何と美しいこと……。あの方は我らの王だ。ずっと待ち続けた、焦がれるほどに。スタウィアノクトの、王なのだ……」
それは、哀切な声だった。瞳真さんも、迅さんも、もう何も尋ねない。
目を閉じると、神輝の力が足元に光の筋を作って流れていく。夜空が冷たく、更けていくほど、温かく、静かに。
翌日、スタウィアノクトに帰り着いたのは昼過ぎだった。街の様子はいつもと変わらないが、城をぐるりと囲む湖の際の畑に、見慣れない姿があった。
年は16、7歳といった頃だろうか。少年は、昨日僕と迅さんがしていたように、へっぴり腰で泥の畑をよろめきながら歩いている。
「……誰だ、あれは?」
跳ね橋の上で、怪訝な顔をして、鈴樹が言った。瞳真さんと迅さんが顔を見合わせて、首を傾げる。
「でも、あの服……」
瞳真さんがちらりと僕を見た。
少年は、濃紺の服に身を包んでいる。さらに、湖の土手の上に、白いアルバと、金の帯、赤いローブが丁寧に畳まれて置かれていた。神官服だ。
次の瞬間、少年は見事に足を滑らせて、泥の中に頭から突っ込んだ。
少年の自己紹介は、彼が迅さんと瞳真さんの手で泥の中から引きあげられて、風呂に入るまで待たなければならなかった。
城の前で、マロリーさんが出迎えてくれた。昨日、鈴樹たちが戻るのよりも少し遅く、スタウィアノクトに戻って来たのだという。背中が少し曲がってはいるものの、元気にほほ笑むマロリーさんに、僕はなんだか嬉しくなって、皺だらけの手をしっかりと握った。マロリーさんはにこにこと笑って、
「お預かりしているものをお返ししなくては」
と言った。
城に入り、案内された部屋のテーブルの上に、僕の神官服が置かれていた。
濃紺の上下、白いアルバ、赤の帯、金のローブ、そして、黄金にゆらめく、神輝石のピアス……。ここでそれらに着替えるのも面倒で、ピアスだけを手にとって、耳にはめた。
「あの少年は?」
鈴樹がマロリーさんに問う。
「はい。昨夜訪ねてこられましてな。街を見たいと仰って……」
「……次から次へと」
鈴樹はため息をついて、椅子に腰かける。
鈴樹の言い分は尤もなことだ。あの色の神官服は、コンルーメンの教会の一つ、戦神ベルルムに並ぶ戦いの神、雷帝トルトニスの教会のものだ。コンルーメンの神官が、ベジェトコルを訪れることは、ベジェトコルの領土内にあるコルファスの神官がベジェトコルを旅することとは全く重みが違う。それも、次の王に指名された鈴樹のもとにやって来たのだ。勘ぐるなという方が難しい。
その時、扉が開いて、迅さんと瞳真さんに連れられ、少年が部屋の中へと入ってきた。替えの神官服を持っていたのだろう、先ほどと同じ、濃紺の服に、アルバとローブを重ね、正装だ。鈴樹が立ち上がると、少年はそっとほほ笑んだ。淡い青の目をしている。
「コンルーメン、トルトニス教会から参りました、リコ=トーラと申します。以後お見知りおきを、スタウィアノクト公」
口調は落ち着いているが、声は随分幼い。鈴樹の肩越しに、ふと目が合った。少年は少し首を傾げて、にっこりとほほ笑んだ。
「……それで、リコ殿。何用でここにいらしたのか」鈴樹が問う。
少年はきょとんとして鈴樹の顔を見ていたが、少ししてはっとした様子で、何度か頷いた。
「あの、これは、僕の個人的な訪問だとお考えください。教会<エスカエルム>の意志ではありません。なにも使命を預かってはおりません。通行証は、持っていますけれど」
言いながら、通行証を探しているのだろう、懐をごそごそと探る。アルバの胸のあたりにその気配を探りあて、少年は晴れやかな顔で取り出し、広げて見せた。
「個人的な……?」
「はい、是非、ルニスピアの祭壇を見せていただきたくて!」
少年は目を輝かせて言う。鈴樹とマロリーさんが、揃って僕に視線を送る。僕は頬をぽりぽりと掻いた。別に、ルニスピアの祭壇を見に行くことが神官の間で流行だとか、そんな話は聞いていない。ただ、コンルーメンのどこかにあるというルニスピアの教会は、そこに属する神官しか見ることも入ることもできない。ルニスピアへの信仰の形を目にすること自体が、珍しいことであることは確かだ。
「残念だが、祭壇には今は入れない」
鈴樹が言うと、少年はあからさまにしゅんとした。
「……そうですか、なんとなく、お城を見てそんな気はしたんです……。満月の夜にしか、開かないんですね?」
鈴樹は少し意表をつかれたようで、また僕に目線を送る。でも、僕としても「祭壇に入るには条件がある」と鈴樹が言った時点で、そういうことなのだろうと思ってはいた。神官にとっては、それを察することはさほど難しくない。スタウィアノクト城に、神輝の力が巡らされていることに気が付いていれば尚更だ。
「では、どうされる。次の満月までスタウィアノクトにおられるなら、それでも構いはしないが……」
「本当ですか!?」
鈴樹が言葉を言い終わる前に、少年は目を輝かせ、身を乗り出した。その勢いに押されて、鈴樹は一歩後ずさる。
「そうさせていただけるなら!僕、この街をもっと見てみたい!まだ一日もたちませんが、この街独特の空気というか、時間の流れというか、ここにいる人たちのことも、もっと知りたい!」
「そ、うか……」
鈴樹にしては、歯切れの悪い返事だった。少年の勢いに押し負ける鈴樹に、迅さんと瞳真さんが、顔を見合わせて口元を緩ませる。鈴樹が二人に鋭い目線を向けると、二人して不自然な咳払いで笑みをごまかした。
少年の目は、純粋な好奇心にあふれている。明るく、朗らかで、年相応の無邪気さを隠すこともしない。そんな彼に、僕はかすかに違和感を覚えていた。それはたぶん、鈴樹や瞳真さんや迅さんには、感じることのない違和感だろう。
そして、僕はどうしてか、それを問いたださねばならないような気がした。
「……一つ、聞いても?」
自分の声が、いつもとは違う調子で発せられたのがわかった。それに気付いたのか、鈴樹が窺うように、僕を見た。
少年はにっこりとほほ笑む。
「はい、なんでも」
どう問えばいいのか、問いかけてからわからなくて、僕の問いはひどく曖昧だった。
「なぜ、ルニスピアの祭壇を見たいんですか?」
マロリーさんと鈴樹が顔を見合わせる。そう尋ねる僕が、祭壇を見たいと言ったのだ。他の神官が同じように言ったとしても、彼らは疑問には思わないだろう。神官たちの間では、そういうこともあるのだろうと納得する。僕とても、ベジェトコルの人間にしかわからないであろうことを、そうして理解してきたのだ。
でも、僕は自分が、ルニスピアの祭壇を見たいと思うその理由は、僕が抱え続けた望みによるものだと思っている。死と再生を司る神。僕は死に向かっていた。その先の、再生を信じて。
目の前の明るい少年からは、その興味が、なぜルニスピアに向かうのかがわからない。
しかし、不意に、少年――、リコの顔に、影が差した。
「通詞って、ご存知ですか……?」
彼は問う。鈴樹もマロリーさんも、瞳真さんも迅さんも、僕に目を向ける。
「神話に出てくる、通詞のこと?」
僕は聞き返す。リコはこくりと頷いた。鈴樹たちの目は、今度は宙を舞う。それを察して、リコが説明をする。僕が説明すべきなのかもしれないが、不得手なので、任せておく。
「ずっと昔、神々がこの地に住んでいた時代、神代の時代に、僕たちは言葉を持たなかったと言います。僕たちはただ、神々の姿を模して造られただけで、他の動物や、植物と同じ、神々の手で作られた、一つの連鎖する命でしかなかった。だけどあるとき、ある神が、尽きることのないはずの命を落とした。その死を悲しんだ神が、命を落とした神の姿に似せて、一人の人間を作ったのです。でも……」
人は、言葉を持たない。
もとより言葉を持たない者同士なら、それでよかったのかもしれない。表情の動きに、声の抑揚に、仕草の一つ一つに、通じ合えたのかもしれない。でも、できなかったのだ。言葉を知る者は、言葉に頼る。
「かつてそうしていたように、言葉を交わすことができないことに、神は悲しみます。そこで、他の神々に言うのです。『一人だけ人間を選び、言葉を与えよう。その人間を神と人との渡しとしよう』。その選ばれた一人を、通詞と呼ぶんです」
心の底で冷たい嘲りがこみ上げる。言葉を交わせたとして、なおのこと思い知るだけだろうに。死者の影を追いかけて作られた人。それは、死者とは別人でしかない。死者は決して戻らない。それならば、言葉など通じない方が、まだ救いがあるだろうに。
「神々はそれぞれ一人ずつ、通詞を選び、言葉を与えたといいます。そうして通詞の言葉を真似て、僕たちも言葉を持つようになった。……でも、ただ一人だけ、通詞を選ばなかった神がいるんです」
「ルニスピア、って神様か」迅さんが言う。
リコはそっとほほ笑んだ。
「ええ、そうです。ルニスピアがなぜ通詞を選ばなかったのか、それはわからないけど……。でも、僕は……」
そこで、リコは少し目を伏せた。何か、遠い記憶に思いをはせるように、ガラス玉のような目は、寂しさを滲ませる。
「僕、ある人に会いたいんです。言葉を交わしたことはありません。僕が小さいころのことだから、そのせいもあるのかもしれないけれど、でも、言葉を交わさなくても、一緒にいた時間に、意味があると、繋がりがあるんだと、思いたい」
「……その人が、ベジェトコルにいるのか?」
鈴樹が尋ねた。リコが先ほどまでとは打って変わって、思い詰めたような顔で、俯いているからだろう。優しい声だった。
「はい。そう聞いています。どうしても会いたくて、でも、僕、自信がないんです」
「自信?」
「繋がってるって思ってるのは、僕だけなのかもしれないって。だって、話したこともないのにって、そう言われたら、どうしようって……」
リコは今にも泣き出しそうだ。瞳真さんとマロリーさんは特に動じる様子もないが、鈴樹と迅さんが何だかそわそわしている。16、7歳に見えるのだが、もしかしたらもっと幼いかもしれない。迷子の子どもに泣かれるときのような気まずさが漂う。
「……つまり、願かけのようなもの?」
瞳真さんが尋ねた。マロリーさんが、リコにそっと布を差し出す。リコは目元をごしごしと拭うと、ぱっと顔を上げた。
「そうです。なんとなく、ですけど、ルニスピアは言葉を必要としない繋がりを信じていたんじゃないかって、そんな気がするんです。言葉が必要だって思うときもあるけど、夜って、誰かと並んでいるだけで、それで十分だって思えること、あるじゃないですか。だから、もうどうしても、会いたいから……」
そう言って、リコは僕に笑顔を向けた。僕はなんだか謝りたいような気持ちになったけれど、やめた。頷いて、笑って、それだけにした。
ふと気づくと、鈴樹が僕を見ていて、ほっとしたように、ほほ笑んでいた。




