第四話
「う、わっ……」
バランスを崩して、僕は思わず迅さんの服の裾をつかんでしまった。
「んっ?」
腰を落としてガニ股になりながら慎重にバランスを取っていた迅さんは、そのままの姿勢で足を滑らせた。次の瞬間には、二人して泥の中に転げた。
「うえーっ」
「ご、ごめんなさい迅さ……!」
口の中に入った泥を吐き捨てる迅さんに、僕は慌てて謝る。でも、泥だらけの顔と目があって、僕たちは数秒無言でお互いの顔を観察してしまう。
「ぶっ、はははは!ひっでえー」
先に笑ったのは迅さんだった。泥の中で手足をばたつかせて笑うものだから、またはねた泥を浴びることになった。
「なにしてんだ!手伝うって言いながら全く戦力にならないじゃないか!」
土手の上から、アナさんが叫んだ。湖に作られた浮島の畑に、湖底の泥を足すというので、その作業を手伝っているのだが、少し油断すると、すぐ泥に足をとられてしまう。
「もういいから上がりな!川で泥を落としておいで!」
アナさんはそう言って、忙しそうに去っていってしまった。僕と迅さんは顔を見合わせて、すごすごと、よろつきながら泥の畑から這い上がった。入れ替わりに、服の裾をまくりあげて足を露わにした若い女の人たちが畑に入っていく。何でもなく泥の上を歩く彼女たちに、僕たちはまた顔を見合わせて、肩をすくめるしかなかった。
「あー、腰がいてえ!」
川の浅瀬で体を流しながら、迅さんが叫んだ。迅さんの体には、シンさんに斬られた跡が、まだ痛々しく残っている。
「傷、平気なんですか?」
迅さんは、片手をひらひらと横に振って、渋い顔をした。それが「大丈夫」という意味なのか「ダメ」という意味なのか、僕は少し考えてしまう。
「おれ、傷ふさがるのはえーの」
迅さんは言う。僕は少し首を傾げるが、彼の体にはその他にも大小さまざまな傷が残っていて、それが根拠のない話ではないことを窺わせる。迅さんの体をまじまじと見つめる僕に、迅さんは両手の人差し指をハの字にして眉に当てて、僕の顔を指さす。情けない顔になっていたらしい。
僕は自分の眉を指先で元の形に戻す。迅さんはにんまりと笑むと、ばしゃばしゃと水しぶきを上げながら川を進んでいき、深くなっているところに思い切りはまり込み、溺れそうになった。
ステルラを出てからの迅さんは、少年のようだ。なんでもやってみたがるし、すぐに遊びたがるし、失敗は派手で、でも思わず笑ってしまうのだ。畑仕事を手伝ったのも、そんな迅さんの好奇心からだった。
泥まみれになった服を洗ってしぼって、それをそのまま投げ出して、迅さんは川辺に大の字に転がる。
「しっかしこの街、女がつえーわ。皆お姫さんみてえ」
その言葉に、思わず噴き出してしまう。確かに、この街の女性は皆、鈴樹と同じく、雄々しい。もっとも、鈴樹が雄々しいだけだとは、もう思っていないのだけれども。
そっと口づけた、白い小さな手の感触を思い出す。その瞬間に、びしょ濡れの服が飛んできた。
「お城に戻りましょうか。包帯、替えないと」
「んー……」
またびしょびしょになった迅さんの服をしぼり、川から上がる。ふと、遠く、北に見える灰色の山に、ぽっかりと浮かんだ白い点が、目に入った。
「迅さん、あれ、なんでしょう?」
「どれ?」
「あそこのあの、白い……」
迅さんはごろりと転がって上半身を起こす。
「ああ……、あれはアルブル砦、メンサ・アルブルだよ」
「アルブル砦?」
問い返すと、迅さんはにやりと笑んで飛び起きる。
「よし、着替えてちょっと馬でこの辺駆けてみようぜ」
城に戻って、迅さんの包帯を替えて、着替えてから、ノアさんに馬を借りた。来たときにも通った群青の森から、ささやくように笑う声は聞こえない。森の奥に、何かの気配を感じるが、でも、嫌な気はしない。森を抜けて、緑の大地を駆ける。ところどころに、白い岩が緑の間から覗いている。僕たちは、小高い丘の上で馬を止めた。
緑は、遠くなるほど黒くくすんでいくようだった。その先に連なる灰色の山も、ここからは黒く見える。その中の一つに、白い点が、さっきよりも少し大きく見えた。そして、そのさらに向こうに、黒い、大きな山の影がある。
「あの白い台地は、自然にできたものらしいぜ。そこを利用して、ステルラ騎士団が砦を作ったんだ。あの奥の、怒り山から下りてくる神代の獣が、ステルラの領地に入り込まないように見張ってる」
「怒り山……、戦いの神ベルルムの神殿があるといわれる山ですね」
「らしいなあ。本当かは知らねえけど」
僕は、生まれてから、というよりも、今の僕になってから、ずっとコルファスを出たことはなかった。これは、初めて見る場所のはずだ。
でも、僕はこの光景を、見たことがあるような気がする。
猛々しい戦いの神の炎が、地面の底を打ち鳴らすように轟く。この感覚を、知っている気がする……。
――なぜ?
問いかける声が、遠い、記憶に呼応する。
――なぜ、そんなふうに生きられる?
問いかけたのは、僕の声だ。
答えるのは?
僕の隣に、誰かがいる。
その人は、遠くを見ている。
プラチナの髪が、風になびく……。
――「忘れるな……」
「馬車だ!」
迅さんの声で、僕は我に返る。
「え?」
「お姫さんが帰ってきたみたいだな。戻ろう!」
そう言って、迅さんは馬を走らせる。
――「忘れるな」?
もう一度、頭の中で繰り返す。
あれは、僕の声じゃない。ずっと、僕の頭の奥で叫び続ける、声じゃない。
誰の?
ぞっとするような、暗く、冷たい、あの、声は……。
スタウィアノクトに戻ると、鈴樹と瞳真さんが、馬にまたがって出てくるところだった。
「お姫さん!」
迅さんが叫ぶと、鈴樹はやや不機嫌な様子で僕たちを見る。
「マノックへ行く!そのままついて来い!」
そう言い終わると同時に、鈴樹は馬の腹を蹴る。迅さんと僕を一瞥して、瞳真さんも後に続く。
「お、おい!なんだってんだよ!?」
迅さんは馬の手綱を引く。鈴樹の姿は、もう跳ね橋の向こうにある。迅さんはぶつぶつと文句を言いながら、同じように駆けだした。
群青の森を、さっきとは反対に南西へ駆けていく。森を抜けて、セレノー川の川沿いを上っていく。対岸に、ごつごつした岩の絶壁が空に向かって真っすぐ伸びている。灰色の溶岩原の隙間から、黄緑色の植物が、ぽつりぽつりと顔を出している。川の流れに沿ってうねる道を進んでいくと、岩壁の間に、灰色の街が姿を現した。
マノック――、そこは、黒曜石の採掘と加工を主とする鉱業の街だ。ベジェトコルのどの領地にも属さなかったこの街を、鈴樹が領主となったときに、スタウィアノクトの領地としたらしい。スタウィアノクトの街は食物と労働力を提供し、マノックは黒曜石の加工品を献上する。自給自足の難しいマノックは安定した食料源を、献上された黒曜石を売ることで、スタウィアノクトは経済的な安定を手にしたのだという。
橋を渡って街に入ると、街の入口にしゃがみ込んで何か作業をしていたらしい若者が二人、慌てた様子で立ち上がった。お互いに顔を見合わせ、頭に巻いた手ぬぐいをはぎ取りながら駆けてくる。
「ヤニ!キモン!」
「姫様!どうなさったんで?」
若者の一人が鈴樹の馬の手綱を握り、もう一人が服の裾でごしごしと手を拭いて、鈴樹に手を差し出す。迅さんも瞳真さんも、あっさりと自力で馬から下りるが、僕は迅さんに手を貸してもらわなければならなかった。おまけに情けないことに、山道を馬に揺られていたせいで、お尻と腰が痛んで、手を貸してもらったにもかかわらず、地面に降りた瞬間にそのまま膝から崩れ落ちてしまった。
そうして地面に手をついて、僕は気が付いた。地面の下に、何かある。木の根のように、張り巡らされて、神輝の力が、流れている……。
「アンゲロはいるか?」
鈴樹は若者に尋ねる。
「親父ですか?たぶん、家にいると……」
若者は鈴樹のただならぬ様子に、頭をかく。
迅さんに助け起こされて、地面に両足を付けて立っても、一度気が付いた気配は消えない。一歩踏み出すごとに、神輝の力が、体を駆け昇る。その気配は、昼の世界の神マグニソルのものでも、夜の世界の神ルニスピアのものでもない。
「……おいでになると、思いましたよ」
どっしりとした、落ち着いた声がした。僕たちは顔を上げる。灰色の建物の中に、日に焼けた黒い肌に、黒い髪、口元に髭をたくわえ、声と同じく、どっしりとした体つきの中年の男性が立っていた。僕は思わず、自分の腕とその人の腕の大きさを見比べてしまう。
「……アンゲロ」
鈴樹がその人の名前を呼ぶ。その人はにっこりと笑む。
「どうぞ、屋敷へ。……我らが王、スタウィアノクトの王よ!」
アンゲロというその人の屋敷は、街の一番奥深くにあった。中に入るとすぐに、大きなテーブルとたくさんの椅子が並べられた広間になっている。いや、広間というより、酒場のようだ。街中にいた、アンゲロさんと同じく日に焼けたたくましい体つきの若者たちが、夜にはここに集まるのだろうか。奥の厨房らしき場所からは、いい香りが漂ってきている。
広間を抜けると、そこはアンゲロさんの私室らしかった。丸い壁にびっしりと本が並べられ、中央に敷かれた絨毯の上にも、本の山が並んでいる。その隅に、布と、黒い石と、何かの骨らしきものが置かれている。僕は首を傾げる。
アンゲロさんは、本の山を脇に避けて、一つだけある木製の椅子を絨毯に置いて、鈴樹に促した。鈴樹は眉を寄せて、不機嫌そうな顔のまま、椅子に腰かける。それから、アンゲロさんは絨毯にあぐらをかいて座り、僕たちにも座るように促した。全員が腰を落ち着けると、アンゲロさんは鈴樹の不機嫌な顔に向けて、満面の笑みを向けた。
「……楽しそうだな」
苦々しげに、鈴樹は言う。
「ええ、そうですな。私も、『彼ら』に会うのは久々でしてな。それに、この時をずっと待ってもいた……」
「『彼ら』に『ずっと待っていた』か……。何をどう、聞いたものか……」
「お好きにお聞きください。私はあなたに何一つ、偽りはしない」
穏やかに笑うアンゲロさんに、鈴樹は眉間の皺を一層濃くする。
「私が初めてこの街を訪ねたとき、そして今……、君は私を『スタウィアノクトの王』と、そう呼んだ」
迅さんが首を傾げ、瞳真さんを見やる。瞳真さんは、怪訝そうな顔をしている。
「ええ」
「そのときは一体、何のつもりだと思ったが、こうなれば、まるで予知のようだ。まさかこうなることを知っていたのか?」
「いいえ、誰がベジェトコルの王になろうと、それは関係ない。我々はただ、スタウィアノクトに、あの城に、エドガーの子孫が来るのを待っていた。それだけです」
鈴樹は、片目を眇めて、アンゲロさんを見つめた。そうして、やがて言った。
「……『君たち』は、暗夜の騎士団か?」
アンゲロさんは、満足そうに笑む。
「ええ、そうです」
僕と迅さんは顔を見合わせる。そして瞳真さんを見るが、瞳真さんは鈴樹よりもはるかに深い皺を眉間に刻んで、アンゲロさんを見ていた。
「カイ=ノクスフォアという男を?」瞳真さんは尋ねた。
「ああ、知っている。会ったことはありませんがね」アンゲロさんはあっけらかんと答える。
「矛盾しているだろう」瞳真さんは言う。
「そうかね?」アンゲロさんは、両手を開いて「わからない」というポーズをとる。
「会ったことはないが知っている、その可能性はなくはないが、あんた、『彼らに会うのは久々だ』と、そう言わなかったか?」
「ああ、言ったね」
アンゲロさんは、極めて上機嫌だ。瞳真さんは、どうしたものかといった様子で額に手をやる。
「カイ=ノクスフォアという男が暗夜の騎士団の一員であることは知っている、そういうことか?」
鈴樹が問うと、アンゲロさんは首を傾げて少し考える。
「そうですな……。少し違う気もしますが、簡潔に言えばそういうことになりましょうな」
なんだか煮え切らない返事だ。
「……てことはあんた、聖騎士なのか?」
迅さんが、横から口を挟む。アンゲロさんはにっこりと笑って、頷いた。
「その通り」
僕はまだ、足元を流れる神輝の力の気配を感じている。聖騎士であるということは、神輝石を使うことができるということでもある。神官の中には使えない者もいるが、聖騎士は必ず使えなくてはならない。
でも、僕には疑問だった。彼が暗夜の騎士団であるとすれば、信じる神は、夜の世界の神、ルニスピアであるはずだ。でも、足元を流れる気配は、ルニスピアのものではない。この矛盾は、どういうことだろう。
ふと、アンゲロさんの目線が、僕に向けられていることに気が付いた。懐かしいものを見るような目で、彼は僕を見ていた。そして、僕が目線に気が付いたことに、にっこりと目を細めて笑った。
「聖騎士というのは、人の前に唐突に現れて、唐突に消えるなんていうこともできるのか」
渋い顔をして、鈴樹が尋ねる。
「それはまあ、誰でもできるわけではないが、カイであればできる、ということですな」
鈴樹は僕の方をちらりと見る。僕は後頭部を掻いた。できなくは、確かにない。でも、それなりの仕掛けがいる。
永遠の友……、僕はふと、スタウィアノクトの祭壇に刻まれているというその文字を思い出した。ウェルグローリアの人間にだけ、開かれる城。暗夜の騎士団と、エドガー=ウェルグローリアの結びつき。それが、仕掛けになるのかもしれない。
「アンゲロ……」
深いため息をついて、鈴樹は言った。
「カイという男が言っていた。おぼろ山の先に、彼らの住まう土地があると。そうして、私に彼らを従え、戦えと……」
迅さんが、はっとしたように鈴樹を見る。そうしてから、今度は瞳真さんに視線を送るが、瞳真さんは眉間に皺を寄せたまま、首を横に振る。
「そうなさればよろしい」
こともなげに、アンゲロさんは言った。しかし、その横顔に、先ほどまでの呑気さはない。
「そう簡単に言うな。君のことは信用も信頼もしよう。しかしそれは、この三年があってこそではないか。大体、スタウィアノクトにウェルグローリアの子孫が来ることを待っていたというのなら、なぜ今になって私の前に現れるのだ」
アンゲロさんは、鈴樹の目を真っ直ぐに見て、ゆったりと笑んだ。そうして、今度は鈴樹のことを「姫様」と、そう呼んだ。
「それは三年前のあなたに暗夜の騎士団の力が必要ではなかったからです。雷羅=ウェルグローリアがこの国の王となり、あなたの望みがただ、スタウィアノクトの地を治めるだけであるのであれば、そうでしょう。だからこそ、私とてこれまで名乗ることはなかったのだから」
鈴樹は、探るようにアンゲロさんを見ている。アンゲロさんは続ける。また、鈴樹を「王」と、そう呼んで。
「だが王よ、貴方は戦わねばならなくなった。この地に眠る、悲劇の種と。そのために、貴方は王になるのだ。その道は容易くはないでしょう。そのゆえに、カイ=ノクスフォアは貴方の前に現れた。遥かなる、約束を果たすために」
「……約束?」
鈴樹は額を押さえてうつむいた。
――いつか、彼らを助けたただ一人の騎士のために戦うこと。
それが、約束。
「だが、その約束は、エドガー=ウェルグローリアが結んだのだ。君たちとて、その時の暗夜の騎士団ではないはずだ。それでなぜ、そんなことが言える……?」
それは、彼女にしては珍しい、弱々しい声だった。
足元に流れる神輝の力が、ゴボゴボと、音を立てる。アンゲロさんは、うつむいた鈴樹の頭を、じっと見ていた。
「我らは、祖先の魂を引き継いでいるのですよ……。この地でこうして、生きる限り――」
そう、静かに告げたアンゲロさんは、地面の底を流れる音に、耳を傾けるように、手の平を地面に付け、そっと、目を閉じた。