第一話
僕たちは、セレノー川を渡る。おぼろ山から流れる川の水が、水底の黒い石の上を滑っていく。それが時折、青銀に煌めいて、雲一つない、夜空のようだと思った。
ステルラの船着き場まで、クレイグさんとエクトルさん、旧第一分隊の人たちが見送ってくれた。エクトルさんは最後までむっつりしたまま、鈴樹が差し出した手を、渋々といった様子で握った。舟が船着き場を離れると、泣き顔を無理に笑い顔にして、ナツさんはいつまでも、手を振っていた。
僕は空を見上げる。雲一つない、快晴。薄い水色の空。シンさんの、目の色。
川を渡ると、対岸の船着き場で、馬車が待っていた。馬車の前に誰かが立っていて、舟がやって来るのを見つけると、大きく手を振った。
馬車に乗って、南に向かうのだ。その先に、「静かなる盟友の地」――スタウィアノクトがある。
「お帰りなさい、姫様!マロリー卿が怪我されたって本当ですか!?」
舟が岸に着くなり、馬車の前から駆けてきて、青年は言った。仕立てのいい服を着て、白い肌に赤いふっくらとした頬、栗色のくるくるとはねる髪を、赤いリボンで束ねていた。どう見ても、貴族階級の、それも上流の青年だ。
「君はまず我々が舟から降りるのを待ってやろうというくらいの気遣いはないのか」
呆れた様子で、鈴樹が言う。青年は一歩下がり、鈴樹に手を差し伸べて、頭を下げた。
「お帰りなさいませ、内親王殿下。お帰りをお待ちしておりました」
打って変わって上品な、貴族然とした様子に、瞳真さんと迅さんが顔を見合わせる。
鈴樹は背筋をピンと伸ばしてその手を取り、舞踏会でダンスに誘われたかのような優雅さで舟から降りると、それと同時に青年の手を無下に切り捨てた。
「爺はマーンカンパーナで療養させている。また私もすぐにマーンカンパーナへ行くことになろうからな。そのときの準備も兼ねて、だ」
鈴樹が言うと、彼はまた好奇心を顔中に広げて、声を弾ませて言った。
「では本当に怪我を!?あの方に怪我を負わせるなんて、相手はどなたですか!?」
てっきり心配しているのかと思ったが、違うらしい。マロリーさんを打ち倒した猛者の姿を想像しているのか、青年は空を見つめて目を輝かせる。
鈴樹は苦虫をかみつぶしたような顔で、少年を素通りし、馬車へと向かった。瞳真さんがそれに続き、迅さんはちらりと僕の顔を見て、目線で後に続くように僕に告げる。
僕はそっと、迅さんと共に、妄想にふける少年を残して馬車へ向かった。
ノアという名のその少年が、取り残されたことに気が付いたのは、馬車が出発した直後だった。
「さて、祭壇を見せる約束だが、祭壇に入るにはいろいろと条件があってな。すぐには入れないから……。そうだな、まずはスタウィアノクト城を、君に見せたい」
鈴樹が言う。太陽は、西に傾き始めている。
「お城?」
僕が尋ねると、馬車の手綱を瞳真さんに預け、迅さんが意地悪そうな顔をして振り返った。
「スタウィアノクト城にはな、なにか、人ならざるものが棲みついているんだぜ?」
「人ならざる……?」
「そう、あの城はな、ウェルグローリアの人間以外には開かれない。そうして王の血をひく者が訪れると、城へと続く跳ね橋が下りて、青白い、光が灯る……。だが中に入ると、橋を下ろした者も、光を灯した者も、誰も、どこにも、見当たらないんだ……」
迅さんは、奇妙に上擦った声で語る。
どう返せばいいのか、わからないまま、僕は平坦な返事をした。
「はあ……」
「『はあ』ってなんだよ!?怖くねえ!?」
迅さんは叫ぶ。
「お前が怖いんだろ」瞳真さんが呆れたように言った。
「怖くねえよ!」迅さんが食ってかかる。
瞳真さんの横にいる迅さんは、僕や鈴樹の、あるいはナツさんたちの前に立つときの迅さんとは少し違って見える。
「戯けめ。優祈は神官だぞ?」鈴樹が言う。
「それがなんだよ?」
「スタウィアノクト城の仕掛けはな、神輝石だよ」瞳真さんが言う。
「神輝石?」迅さんは、僕のほうを向いて尋ねた。
「ええと……、コルファスの教会も地下はそういう仕掛けになってますけど、主教都市コンルーメンの教会はすべて、誰もが自由に入ることができるようにはなっていないんです。僕はその辺のことはあまり詳しくないんですけど、教会を造るときに、あちこちに神輝石を埋め込んでリナムクロスの神輝石を中心に、力が全体に巡るようにするんです。その中の、特に扉を開く仕組みとか、教会の奥に入るほど、力が集まるようになっていて……。つまり、神輝石の力を扱える人間しか、入れないようにしてあるんです」
コルファスの地下へは、華月しか入ることはできなかった。華月は、僕にも入ることはできると言った。でも、僕はあそこが恐ろしくて仕方がなかったのだ。
コルファスの地下は、霊廟だ。
湿った冷たい空気。藍色の薄闇の中に眠るのは、金の目をした、聖人。百年以上もの長い間、世界を旅し、ある場所では悪魔と呼ばれ、ある場所では聖者と呼ばれた人。聖ラビス――。
「ってことは、スタウィアノクト城は教会と同じように造ってあるってことか?」
迅さんの声がして、僕は我に返った。
なんだろう。西へ向かうほど、思考が過ぎ去った時間に流されてゆく。
西の空と地面の境界には、おぼろ山の稜線が連なる。死の山マヌモルトと同じ、神代の時代から、そのままの場所。初めて来る場所なのに、不思議と懐かしい。そのせいだろうか。
「あの城は、もとはコンルーメンの聖騎士だった暗夜の騎士団が造ったとされるものだからな」
鈴樹の声。迅さんは、片眉を下げて怪訝な顔をする。
「でも、お姫さんは神輝石、使えるわけじゃねえだろ?」
「うむ、その辺の理屈は私にもわからん」
鈴樹はきっぱりと言う。口をへの字に曲げて、迅さんは僕を見やる。僕は少し考える。
華月が言うには、神輝の力を扱う術を、理屈で説明することはできなくはないらしい。でも、僕にとっては完全に感覚としか言いようがない。話が複雑になるほど、僕にはうまく説明できない。
僕は鈴樹を見る。
「……ウェルグローリアの一族は、神輝の力に、なじみやすいのかもしれませんね」
そう言いながら、「なじむ」という言葉が自分でもしっくりとこない。
「……なんか、落ちてこねえな」
迅さんは、つまらなそうに言う。僕にもうまく説明できないのだ。神輝石の力を肌で感じることのない、いや、そんな必要などなかったであろう、身一つ、心一つの騎士には、わからないのも当然だ。
迅さんの仏頂面に、そっと笑みがこぼれる。
「まあ、城を見ればわかるさ」
艶やかに笑んで、鈴樹が言った。
金が朱に、朱は紫に、空は移り変わっていく。太陽が、西の空に沈んでいく。東の空は、薄く、紫色になって、夜を迎えようとしている。なにもかもを、今までと同じように見ることは、もうできない。遠く、悲劇の地に、夜の幕が降りていく。
それが、胸がしめつけられるほどに美しい。
「じきにスタウィアノクトだ」
鈴樹が言った。
藍色の夜に、銀色の月の光が、透けるように、その城は建っていた。
僕は息をのんだ。
その姿を、見たことがあるような気がする。
暗い暗い地の底から、月の光を目がけてまっすぐにそびえる……、ああ、これは――。
街をぐるりと囲む、群青色の森で、小さな笑い声を聞いた気がした。嫌な感じはしない。僕は鈴樹を見る。プラチナの柔らかい髪が、風になびく。それを、声の主は、愛でて笑う。
城の主人が戻ってきたことを、喜ぶ声だ。
森を抜けると、夜に沈みかけた城に、街に、青銀の光が灯る。灰色の石畳の道の上を、馬車は城に向けて進んでいく。家の前で夜の支度を始める街の人々が、馬車が通ると笑顔を向けてくれる。
ステルラや、マーンカンパーナの街並みと違って、家々は、それぞれが好きな場所を選んで建てたように、整然としてはいない。でも、一つ一つの家の周りの、小さな畑、食べ物の入ったかごと、小さな椅子、洗濯をするための使い込まれた木のタライ、そういうものが、この不思議な空気の漂う街の中で、人々の温かい生活をそのまま映し出すようだった。
街のあちこちには、蔦のからむ東屋がたくさん建っていて、そこで、老人たちが集まって話をしている。馬車が通りすぎると、老人たちはこちらを向いて、手を振った。
街の人々に、手を振り返す鈴樹は、これまでのどんなときよりも、朗らかに明るく笑っていた。
――夜。
僕は、街の東屋の一つで、城を眺めて座っていた。アナさん、という女性が城を出るときに渡してくれた温かい葡萄酒が、手の平をじんわりと温めてくれる。
跳ね橋を渡って、鈴樹がこちらへやって来るのが見えた。その後ろに瞳真さんが続く。
「ここにいたのか」
鈴樹が言う。僕はほほ笑む。城で出されたイチジクのお酒が、気持ちよく回っている。
「迅さんは?」
「つぶれている。愚かにもアナに飲み比べ勝負を挑んでな」
ルドビルでの様子を思う限り、迅さんはあまりお酒に強くないようだった。でも、好きなのだろう。城で、街の人々と一緒に飲んだお酒は、確かにおいしかった。
「いい街だね……」
「そうか?そうだな……。平和で、にぎやかでな」
「うん……」
僕の目は、夜のスタウィアノクトにぼんやりと浮かぶ、青銀の城に、吸い込まれていくみたいだった。鈴樹が僕の隣に腰かけて、城を眺める。
「……これは、墓標なんだね……?」
そう、尋ねると、鈴樹は驚いたように僕を見た。
にぎやかな街。人々の生活の温かさが、根付く街。
でもここは、夜にこそ美しい。
スタウィアノクト城が放つ光は、死者が眠る夜を、穏やかに照らす光だ。
「やはり、わかるのか」
鈴樹は言う。
「この城はな、暗夜の騎士団が、エドガー=ウェルグローリアを迎えるために建てた城なのだそうだ。でも、城の完成を待たず、彼は死んでしまった。祭壇には、彼の名が記されているよ。『永遠の友を悼む』……」
「永遠の友……」
僕は繰り返す。遠い伝説。行き場を失くし、この地に辿り着いた暗夜の騎士団の伝説。時の王が暗夜の騎士団を保護し、住む場所を与えた。その感謝の証に、暗夜の騎士団はこの国のために戦うことを誓った……。それが、スタウィアノクトが「静かなる盟友の地」という名でもって呼ばれる所以だ。
「暗夜の騎士団を受け入れた王様は、エドガー=ウェルグローリアのことなんだね?」
問うと、鈴樹の横顔が、ほんの少しだけ曇った。
「いいや……。祭壇には、『騎士エドガー』と記されている。まだ彼が王になる前、一介の騎士であった頃の話らしい」
僕の脳裏には、王都マーンカンパーナに残る、かつての王都の残骸が浮かぶ。
「ここは、未開の地であったのだよ。優祈」
鈴樹は言う。すぐには意味がわからず、僕は首を傾げる。
「人を狂わせるおぼろ山、惑わせる深い森、死者が住まう谷、……。神代の時代に、ここは生者の世界ではなかったという。そんな地に、暗夜の騎士団は追いやられたのだ。それは保護でもなんでもない。夜の世界に佇むというルニスピアを信仰する彼らなら、人が踏み込むことのできない地でも、拓くことはたやすかろう、そう……、冷たい一言で彼らは切り捨てられたのだ……」
スタウィアノクトの街の、西に横たわるおぼろ山は、真っ黒い影になって、静かに、夜の闇に沈んでいる。でも僕は知っている。神代の時代の自然が、人の侵入を拒むこと。それを前に、人がどれほど無力であるかを。
伝説は、飾られたものであったのだ。
「それでなぜ、祭壇にエドガー=ウェルグローリアの名が?」
瞳真さんが尋ねる。
「うむ……、どうやら、そうしてこの地に追いやられる暗夜の騎士団に、何か手向けをしたというのだ。それが、結果的に彼らがこの地を拓く助けになったということなのだが……。それが一体なんであったのか、わからんのだよ」
僕は改めて、城を見上げる。人を拒む自然の中に、放り出された絶望を思う。その中で、一人、彼らを助けようとした騎士のために、この美しい城は建てられたのだ。それは、喜びであったに違いない。重たい石を積み上げながら、それでも永遠に消えることのない感謝の思いを、伝える時のために。それが、叶わなかった、その時の虚しさを……。
ふと、頭に浮かんだ問いが、こぼれた。
「暗夜の騎士団は、今どこにいるのかな?」
鈴樹はじっと僕の顔を見つめ、やがて、眉を下げて笑った。
「……さてな。まだ、どこかにいるのかな……」
そう言って、彼女は背伸びをして、立ち上がる。
「優祈、私は明日、王都へ発つ」
「マーンカンパーナへ?」
「そう……」
暗い夜空を見上げる、鈴樹の横顔。そこに、ルドビルで泣いたときのような、悲壮感はもうない。それでも、青白い月光に照らされた、彼女の決意が、胸に痛い。
「私は、この国を負おうと思う」
鈴樹は言った。夜の静寂の中に、溶けていくような声だった。僕は、何も言えない。それが不思議と、もう苦しくはないけれど。
「君はここにいてくれるか」
鈴樹は僕を見て、頼りなく笑む。僕はそっと、ほほ笑み返す。そして、繰り返すだけ。
「ここにいるよ。……君を、待ってる」
鈴樹の顔が、柔らかくほころんだ。
「王族の娘として生まれ、私が為したただ一つ……。それを見て、知ってほしい。この先、弱い心に迷うときも、疑う心に溺れるときも、私は必ず、この場所に還るから」
瞳真さんが、目を伏せる。
僕はゆっくりと立ち上がる。鈴樹の前に立つ。蒼碧の瞳の、凛とした光の奥に、不安げな幼い少女が隠れている。白く、小さな彼女の手をとる。そうして、指先に、口づける。
「……ここにいるよ」
そしてまた、繰り返すだけ。
また日が昇れば、僕を見つめる少女の目は、また消えてしまうだろう。プラチナの髪を翻して、ぴんと背を伸ばして、赤く敷かれた絨毯の上を、ひるむことなく歩むのだろう。
だから、この夜だけ。ただ、この時だけ――。