第十六話
夜。教会のベンチに、僕は一人、座っていた。
天窓から、月の光が降ってくる。
リナムクロスの神輝石は、ほんの少し輝きを取り戻して、ゆらゆらと、薄く、金色に、光る。
開け放した礼拝堂の扉の向こうから、さくさくと、草を踏む音が聞こえた。
「……優祈?」
鈴樹の声。その、窺うような、優しい声に、胸が、痛い。
僕は立ち上がり、振りかえって、ほほ笑んだ。
「もう、体はいいのか?」
「うん」
「でも、相変わらず顔色は悪いな」
「うん、なんでだろうね?ちゃんと食べてもいるんだけど」
久しぶりの会話は、どことなくぎこちない。
鈴樹は、僕の前にやって来て、僕の顔を、じっと見つめた。
蒼碧の目。プラチナに縁どられた、鮮やかで、美しい……。
「マーンカンパーナで君の兄に会ったぞ。華月殿といったかな」
「……そう……」
僕はほほ笑む。でも、そうやって笑っていると、なぜだか、涙腺が緩む。泣きそうで、僕は鈴樹から顔を逸らす。
「本当の兄じゃないんだ。僕はコルファスの孤児院で育ったから……、華月には弟も妹もいっぱいいるよ」
「そうなのか。……優しそうな男だな?」
「うん……、すごく、優しい人だ……」
草の上を、風が滑る音が聞こえる。
静かな、静かな夜だった。
ほんの数日前までの喧騒が、嘘のように。
「……優祈」
「うん……」
「優祈?」
「うん……」
目を逸らしたまま、鈴樹の呼びかけに曖昧な応答をしていると、鈴樹の白い指が、するりと伸びた。それは僕の頬を包んで、無理矢理僕の目線を自分へと向けさせる。
「なぜ、目を逸らす?」
僕は答えられない。居たたまれなくて、頬を包む手を離そうと、手を伸ばした。
僕の手が、鈴樹の手の甲に触れた瞬間、鈴樹は言った。
「明日、スタウィアノクトに帰るぞ」
僕は、ただ鈴樹の顔を見つめ返すしかできない。
「優祈。私の用件を待つと言っただろう?私の用はもう済んだ。スタウィアノクトに、一緒に帰るぞ」
唇が、震える。僕は、目を閉じた。引き離すために触れた手を、離せない。
「……優祈」
「……うん……」
「私に、何か話すことがあるのか……?」
手を、細い指を、握りしめる。強く、強く……。こんなにふうにしては、きっと痛いだろう。それなのに……。
絞り出すように、僕は、言った。
「言って、ないことが……、あるんだ……」
――「君の旅は終わったのだよ。君は望みを得た。その心が向かうままに、望むままに、旅の終わりに、君は帰らなくては」
黒曜石の瞳が、そう言った。
僕の旅は終わった。
目的のない、僕の旅の、行きつく先。
――「僕」の記憶は、ある少年との出会いから始まる。その前に、「僕」が一体何者で、何をしていたのか、何一つ、思い出せない。
黄昏色の目をした少年は、じっと、「僕」を見つめていた。
場所は、コルファスの後ろにそびえる、死の山マヌモルト……。生ける者を拒む神代の山。
――ここに来ちゃいけない。
――早く逃げて、早く――!
それは、「僕」の声だった気がする。そう叫んで、ぷつりと、意識は途絶えた。
心臓の辺りが、焼けるように痛んだ。
それ以降、ずっと、ずっと、抱え続ける痛み……。
次に気が付いたとき、僕は、コルファスの教会のベッドにいた。傍らにいた女性が、僕が目を覚ましたのを、泣いて喜んだ。わけがわからないまま、抱きすくめられて、ふと、目に入った。窓に映る自分の姿。
金色の目。沈む太陽が、空を黄金色に染める、そのときの、色……。
あの少年の目。
あの少年と、全く同じ姿をした、自分の姿。
――ぞっと、した……。
何もわからない。何も思い出せない。
でも、わかった。
それは、「僕」の姿じゃない。
すがりついて泣く女性を、「僕」は知らない。
ふと、視線を感じて、見ると、そこには、菫色の目をした青年が立っていた。
じっと、「僕」を見つめて、表情を変えることなく、ただ、その目が、何もかもを見透かすようで……。
それから、一つずつ知っていった。僕が目を覚ましたそこが、教会だということ。泣いた女性は、「マザー」と呼ばれる、神官だということ。僕が見た少年の名前は、「優祈=シガン」といって、教会に預けられたときから、マザーがずっと、自分の子どものように育ててきたということ……。
僕が何も、誰のことも思い出せないことを、皆責めない。
死の山マヌモルト、生ける者の存在を許さないその山に迷い込んだせいだと、そう言った。
僕は僕で、そう思おうとした。
でも、そう思おうとしても、頭の奥で、叫ぶ声がする。あのときと、同じ声で。
――違う、違う、忘れるな――!
「忘れるな……」
鈴樹がつぶやいた。
天窓の下で、青銀の月の光に照らされる彼女の顔は、とても、とても、綺麗だ。
白い肌。バラ色の唇。白く輝くプラチナの長い睫毛。滑らかに磨かれた宝石のような、蒼碧の目……。この美しい目に、焦がれない人間なんて、きっといない。
日がたつにつれ、周囲は日常に戻ろうとする。それは反対に、僕を混乱させた。向けられる笑顔が、偽りを無理矢理真実に仕立てようとする。
偽物の笑みを浮かべて、足元は泥に浸かっている。薄気味の悪い、滑稽な舞台。
僕は苛立った。苛立つ僕を、マザーは抱きしめて、なだめようとする。その温かい手が、優しい声が、なおのこと……。
華月だけが、「僕」を見ない。
菫色の目は、何かを探すように、遠く、死の山を見つめている……。
――ああ、そうか……。
「優祈=シガン」はきっと、あそこにいるのだ。
あそこに取り残されて、きっと一人で……。
丸い月が浮かぶ、夜だった。
僕はもう一度、死の山へと入った。
草も、木も、花も、何もない、灰色の乾いた地面が、続いている。
獣の呻る声がする。
岩陰の向こうから、こちらを見ている。
黒曜石の、目。
月の光を反射するだけの、無機質な目。
腐臭。肉が腐り落ち、ところどころ、骨だけになった、死の山の獣。
僕は、叫んだ。
――どこにいるんだ!優祈=シガン!帰ってこい!皆君を待ってる!どこに、どこにいるんだよ……!
死んでもいいと、思っていた。
喉の奥からこみ上げる吐き気に、もう耐えられない。
生きる理由がない。
それに、どういうわけか、僕はこの山にいたのだ。
それなら最初から、僕は生きたものではなかったのだ。
――でも、彼は違う。
目が、怯えて、潤んでいた。薄く、白い肌に、血の色が透ける頬。青ざめた唇から洩れる息が、震えて――。
夜の闇に、僕は叫んだ。
何度も、何度も。
死者だけの夜の静寂を、僕は破った。
獣たちが、した、した、と、乾いた足音を立てて近づいてくる。
僕はうずくまった。
――どうして?
――僕は、どうしてここにいるんだろう……?
『立て!』
怒鳴る声と共に、僕は強く、腕を掴まれ、引き上げられた。
顔を上げると、険しい顔をして、華月がそこにいた。
呻り声をあげる獣に、バクルスを向ける。バクルスの先の神輝石が、金色に光ると、獣は耳を引き裂くような叫び声を上げる。
それを何度も繰り返しながら、華月は走った。
僕の手を、しっかりと掴んで、強く、引っぱって。
――なぜ?
この人は、知っているはずだ。
「僕」が彼ではないことを。
わかっている、はずなのに……。
コルファスの街に戻り、振りかえると、獣はもうどこにもいない。
消えてしまったように、もうどこにも気配がない。
僕は、華月を見上げた。
どうして……、そう問おうとした瞬間、糸を切られた操り人形のように、華月は倒れた。
それから、三日三晩、華月はひどい熱と、体中の痛みに苦しんだ。
そして、そして――。
ゆらゆらと揺らめく、菫色の目の、その片方は、光を失くした。
「あの目はもう……、見えないんだ……」
僕は言った。声が震えるのが、自分でもわかった。
「死の山で、マグニソルの神輝石を使った罰だって、華月は言ってたよ。あそこは日の光が差すことのない、夜の世界……。昼の世界を司るマグニソルの光を持ち込んで、無事に済むはずはなかったんだって……」
「……優祈」
鈴樹は窺うように、案じるように、僕を見ている。
どういう顔をすればいいのか、わからない。
でも、笑うことも、できなかった。
罰を下すのは神でも、僕のせいだ。
華月は僕を責めなかった。
僕は泣いた。
僕のせいで、誰かが何かを失う重みに、耐えられなかった。
『それでいい……』
華月は言った。
『おれがお前に、足枷をつけてやる』
それから……。
僕は華月と約束をした。
マザーのために、「優祈=シガン」として生きること。
その代わり、華月は僕を「僕」として認めること。
でも、その約束が意味のないものであることに、僕は次第に気付いていった。
マザーもきっと、わかっていたのだ。
「優祈=シガン」はもう戻らないこと……。
僕がそばにいても、不安に追われつづけたのだ。
僕は「優祈=シガン」を知らない。
知らないものに、なり代わることなどできるはずもない。
「マザー」という枷。「華月」という枷。
それは僕が、二度と死の山へ向かうことのないように。
そして、だれも、僕を僕として認めない、小さな世界の中で、ただ一人、華月が僕の存在を知る、歪……。
そこから生まれる望みを、期待したのだ。
だから華月は止めなかった。
コルファスを出たいと言う僕を。
華月は僕を生かそうとした。
広い世界で、僕が僕として、生きたいと望むことを、許してくれたのだ……。
でも……。
「……本当に、優しい、人なんだ……」
僕は言った。目の奥にこみ上げる熱を、目を伏せて、僕は堪えた。
鈴樹の手を握る指に、力が入る。冷たい僕の手の中で、彼女の手は、温かい。
「でも、僕は……」
この体をもって、僕は誰の真実になれるのだろう。
華月、君が僕を許してくれていることを僕は知っている。
でも、そうする限り、華月がかつて失った真実は、もう戻りはしないのだ。
それだけは、確かなのだ。
「僕には、わかってしまうんだ……!シンさんの思いが……!叶えたい願いが、それがたとえ、自分を捨てることだとしても、仕方がなかった……!僕の世界で、光あるものなんて、それだけしかなかった……!」
華月……。
君が僕を許してくれたから、君が僕に愛情を与えてくれたから、君が僕を認めてくれたから……。
だから、もう十分だった。
それ以上に、どうしても、望めなかったんだ。
「僕は……!僕がいなくなれば、彼が帰ってくるんじゃないかって、思わずにはいられなかった!それでたとえ、何も帰ってこなかったとしても、それなら彼は、あの日、死の山で死んだんだ!それが本当なら、それでいい……!もう、とても、生きていけない……」
底のない、泥の沼に沈むような、絶望の底で、他にどんな望みがある?
歪んだ舞台は、続いている。その歪みを作り出したのは僕なのに、僕だけが、何もかもを切り捨てて、どうやって生きようというのか。
「もう華月のそばにはいられなかった!華月がいなければ、誰も止めない……!華月のほかに、誰も僕を知らないんだから!」
僕は、目を開けた。
鈴樹がそこにいる。
まっすぐに、僕を見つめている。
僕は唇を噛む。
目の奥にこみ上げる熱は、もう、堪えきれない。
「もう一度、君に会うなんて、思ってなかったんだ……!」
一年前。マーンカンパーナ。鈴樹は言った。
――『自分で名乗ることに意味があるのだ』
そういって、僕の名を呼んだ。
それは僕の名前だ。
僕がそう名乗り、君がそう呼んだから……。
「君にだけは、言いたくなかった!『優祈=シガン』――、それは僕の名前じゃないなんて、でも、他に名前なんか持たなかった……!望んでしまうなんて思わなかったんだ……!君が呼ぶ、その名前だけは、僕のものじゃなきゃいやだ!鈴樹、僕は――」
僕は何を、知ってしまったんだろう。
僕が僕でなくなるとき、偽りが真実に還るとき、僕は何を思うだろう。
ただ一度、あの出会いだけなら、よかった。
それだけなら、きっと、そのときを迎えても、君が呼んだ、僕の名前を、思い出すだけ……。
それだけで、幸福だった。
でも今は、今は――。
「僕は、君のそばにいたい……」
無に向かうだけの、僕の旅。
僕の、昏い昏い、望みを叶えるための……。
もう、どこにも行けない。
鈴樹が、僕の顔を引き寄せる。
そうして、背伸びをして、僕の額に、そっと、口づけた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
柔らかくて、少しだけ冷たい、額に残った唇の感触を反芻して、ようやく事態を把握する。と、同時に、顔中に熱が広がった。
鈴樹は複雑そうな顔をしている。そして、消え入りそうな声で、そっと、言った。
「……私にとって、『優祈=シガン』は、君の名だ……」
頬を、涙が伝う。冷たくなった涙は、鈴樹の温かい指の隙間に流れ落ちて、消えていく。
鈴樹は、眉を寄せて、うつむく。もどかしそうに、さびしそうに。
そうして、やがて、僕の頬を両手で包んだまま、額を僕の胸元に沈めた。
「君の鼓動が聞こえる……。あのときと、同じだ」
ぽつりと、鈴樹は言った。
あのとき――、ルドビルで、鈴樹が泣いたとき。
鈴樹の手を、僕は取った。
あのとき、鈴樹の悲しい願いが、苦しかった。
それと同時に、喜びに、胸が張り裂けそうだった……。
「あのとき、私は折れそうだった。瞳真のことは、もうどうにもならないんだと、そう言い聞かせて、逃げ出したかった……!そうすれば、あの悲劇を前に、できることなどないと、そう思うしかなかっただろうに!」
――ああ……。
「ステルラで、君に再会したとき、私は恐怖に足を引きそうだった……!シン=ウィーラント……、あの悲劇が生んだ、亡霊のようで……」
心臓が、焼けるように痛い。
夜は、静寂は、鈴樹の息遣いまでを僕に伝える。
抱え続けた心臓の痛みは、この奇妙な生を象徴するかのように、僕を縛り続けたのに。
――違うんだ。この痛みは、焦げつくような、この痛みは、そうじゃない……。
「今朝、君の姿を見たとき、私は不安だった。ほほ笑んで、君は去っていった。そうやって、どこかに行ってしまいそうだった。だからこうして来たのだ。君を巻き込んで、傷つけて、苦しめたことなどわかっていながら、『約束だ』と、そう言って……!私は、愚かだ……!」
僕は、手の平を握る。
――もう、やめてくれ。耐えられない。耐えられない……。
「君が……」
鈴樹は、そっと、顔を上げた。
青銀の光に照らされる、白い、肌。蒼碧の、潤んだ瞳から、静かにこぼれ落ちる、涙。
「君が何者であるとしても、行かないでくれ。どこにも、行かないで……」
喉の奥が、震える。握りしめた手の平が、指が、ひきつる。
僕は、目を閉じる。
でも、伝わってしまう。こんな静かな夜。鈴樹の声が、なにも、背負うもののない、そのものの声が。さびしく、切なく。
「君が生まれたことが、誰かの命と引き換えであったなら、罰は、一緒に受けるから……」
――ああ……。もう、耐えられない……。
そっと、引き寄せることもできない。体中に、暴れる熱のまま、僕は鈴樹を抱きしめた。
細い首。小さな頭。滑らかなプラチナブロンドの髪。華奢な背中。強く、強く、抱きしめても、足りない。
「鈴樹……!」
叫ぶように、彼女の名前を呼ぶ。耳元で、囁くように、鈴樹は呼んだ。
「僕」の名を。
――もう、どこにも、行かなくていい……。
額に授けられた鈴樹の口づけが、ただ一つ、僕という存在への、祝福だ。
******
静かだ……。
もう、何も聞こえない。
おれを嗤う、美しい人の、声も。
シンは、ゆっくりと目を開けた。
銀色の月が、窓の格子の間から、部屋の中を静かに照らしている。
あのときと同じ、青い夜……。
シンは目を閉じた。
指先はもうピクリとも動かない。
閉じた目の奥に、幼い弟の、泣き顔が浮かんだ。
涙を堪える力も、もう残ってはいない。
涙が、頬を伝う。
かすれた声で、シンはつぶやく。
「……ごめんな……」
「――おや?」
薄闇の奥から、声がした。夜に溶け、抗いようもなく耳に届き、淀む、声。
シンは目を見開く。
くつくつと、笑う、黒曜石の目。
「謝るということは、君は知っているのかな?その胸を焼く、刻印の意味を」
「……なぜ……」
問おうとした瞬間、薄闇にぼう、と浮かんだ白い手が、胸元を引き掴んだ。
「う……!」
叫ぼうにも、声が出ない。胸元を掴む手から、熱湯を流し込まれるような痛みに、体中がひきつる。
「やめ、ろ……!」
絞り出すように声を上げた次の瞬間、銀色の光に照らされたその顔に、シンは凍りついた。光に照らされて、一層暗い半分の顔。そこに埋め込まれた黒曜石の目は、相変わらず温度がない。しかし、もう片方の目が、白く、青く、光っている。その光に、シンは慄然とする。
「君の描いた舞台は、なかなかよかった。君は確かに、迅=ウルブリヒトを救おうとし、そして一方で、彼に復讐を果たそうとした。その矛盾が、悲劇を鮮やかに色づける。そうとも、悲劇は人間が描くのが一番美しい……」
自分を見下ろす二つの目から、シンは目を見開いたまま、動けなかった。息をすることもできない。口を開いても、叫び声は、喉の奥でせき止められる。
「だが、結末が気に食わない……!」
白く光る目が、歪む。
――結末。
迅を殺し、ステルラの街を焼いて、果たそうとした、あの滑稽な舞台の、結末……。
再び手にとった剣は、迅には届かなかった。
ただ迅と、二人だけで迎えるはずだった、終劇……。
シンは、笑った。
「……、バカじゃ、ないのか、あんた……?あのまま、おれが迅をまた殺して、そうすれば、よかったっていうのか……」
妖世もまた、笑う。
「さあね?殺すことになったかどうかはわからない。あの刃を、迅=ウルブリヒトがどう受け取ったか……。それがまさに結末であるべきなのだよ。そうだろう……?」
「バカバカしい……」
目をそむけた先に、白い、少女が映った。――否、少女であるかは正確にはわからない。白い、長い髪を三つ編みにして、肩から垂らしているので、そんな気がしただけだ。年の頃は15、6歳に見えるが、その薄い銀の、何もかもを見透かすような目は、数百年を生きた老人のようでもある。
「君を生かそう、シン=ウィーラント」
妖世はひらりと体を翻し、両の手を格子の隙間から注ぐ月光に掲げる。
「バカなことを……!」
そう言って、シンは半身を起こす。そうしてから、体を起こすことができるようになっている自分に気が付いた。
妖世は笑って、両手を叩く。
「ボクは観客だ、シン=ウィーラント。アンコールと叫んで手を叩けば、役者は再び舞台に上がらなくては」
月光に照らされて輪郭を露わにする、その背中は、重く、深い暗闇を背負っている。
「……なにを、させるつもりだ……?」
シンは問う。
妖世は、ゆっくりと振りかえる。白く光る目は、またただの、月の光を映すだけの、無機物に戻っている。
「終幕をやり直せ、シン=ウィーラント。君の望むままに」




