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白い花の歌  作者: タク
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第十五話

 ――鈴樹……。




 鈴樹、わかったんだ。

 僕には、あの人がわからなかった。

 わからなくて、見誤ったんだと、そう思った。

 でも、違ったんだ。

 わからなくて、当たり前だったんだ。

 あの人が、迅さんのことをどう思っていたのか……、それは結局、わからなかったし、きっと、言葉で言い表すことなんかできないのかもしれない。

 それでも……。




 薄暗い部屋で、僕は目を覚ました。

 しばらく自分がどこにいるのか、わからなかったが、窓の向こうに、子どもたちが遊んでいるのが見えて、ステルラの教会だと気付く。

 起き上がると、どれくらい眠っていたのだろう、体がひどく、重たく感じる。

 窓の向こうをもう一度見ると、子どもたちに混じって、ナツさんが転げまわっている。

 少し笑って、外へ出ようとガウンを着て、部屋を出た。

 礼拝堂の窓からは、北の海が見える。白い花が舞う墓地。何とはなしに、その光景を見ていると、その中に、小さな背中がうずくまって座っていることに気が付いた。

「……ケイ?」

 僕は少し駆け足になって、礼拝堂から外に出た。

 ケイを最後に見たのは、迅さんの処刑のときだ。「こんなのいやだ」と、そう言って泣く背中を、見送った。

「……ケイ!」

 名前を呼ぶと、一瞬びくりと肩を震わせて、でも振り向くことはせず、また背中を丸めた。

「ケイ……」

 草を踏んで、ケイの側まで行く。白い花が、舞い上がる。ケイはうつむいて、じっと、何かに耐えるように固く掌を閉じている。

「……みんな、向こうで遊んでるよ……?」

 そう言うと、ケイはより一層固く、掌を閉じる。

 僕は、ケイの横に座った。ケイは顔をひざに埋める。そうして、か細い声で、言った。

「なんで、みんな笑ってんの?」

「……ケイ……」

「おかしいじゃん。あんなことがあったのに、なんで笑ってられるの?」

「……元の生活に、戻ろうとしてるんだよ」

「戻れるわけないじゃん!」

 そう叫んで、ケイは立ち上がった。涙に潤んだ目は、何度もこすったのだろう、赤くなっている。

「……ケイ」

「戻れないよ!そんなのウソだ!シン兄ちゃんも、迅兄ちゃんも、いなくなっちゃったじゃんか!」

 僕はもう、何も言えなかった。

 あんなに楽しそうに、シンさんと、迅さんのことを話していた。

 その時は、もう戻らない……。

 黙っている僕に焦れたように、ケイはまた目を拭って、走り去った。

 取り残されて、僕はうつむく。

 潮風に混じって、花の香りがする。柔らかい、微かな香り。

 悲しいことが、起こらなければいいと、そう思っていた。

 でも、一つの死を乗り越えることでしか、得られない生もあった。




 シンさん、あなたを生かすのは、迅さんをおいて、他にいなかった。




 走って、走って街の真ん中に出る。魔物に襲われた跡は生々しく残っているのに、大人たちは笑っている。ケイは苛立って、人の波をかき分けて走る。うつむいて走るせいで、たびたび人にぶつかった。

「……どけよ!どけ!」

 無理矢理人を押しのけて通ろうとするケイに、大人たちは困ったように首を傾げ、また笑う。

「……何がおかしいんだよ!」

 そう叫んだ瞬間、首根っこを掴まれた。

「わ、わっ……!」

「何してんだ?お前」

 懐かしい、声がした。

 懐かしくて、懐かしくて、声を聞くだけで、涙が溢れた。

 きっとからかわれるに違いない。それでも、顔を見たくて、振り向かずにいられなかった。

 とび色の、目尻が下がった目。意志の強さを、そのまま表したような眉。柔らかく風に揺れる薄茶色の髪。

「迅、兄ちゃん……」

「何だ、情けねえ顔してんなあ」

 迅は、笑った。たまらず、ケイは迅の首にしがみつく。そして、わんわんと、泣いた。

「お、おい、何だよ?おれは母ちゃんじゃねえぞ!」

 滅多に見ないケイの反応にうろたえる迅の背中を、鈴樹と瞳真は、遠くから見ていた。

「何だ?あれは……」

「さあ?昔から子どもと男に好かれる奴ですから」

「ほう……」

 そんなやりとりをしている横から、ナコルが叫んだ。

「あ!隊長帰ってきてる!」

「隊長だー!」続いて、フレンが指をさす。

「どこ!?隊長、どこッスか!?」教会の庭から、ナツが飛び出てくる。

「あー!迅兄ちゃん!」ナツの後に続いて、子どもたちが駆けてきた。

「……なるほど」

 あっという間に囲まれる迅を遠目に、鈴樹は頷いた。

 ナツの大声に誘われて、優祈が教会の方から歩いてくる。

 優祈の姿を確認して、鈴樹は名前を呼びかける。

「お帰りなさいませ、内親王殿下」

 その瞬間、背後から声をかけられた。振り向くと、そこにはクレイグと、エクトルとマリノがいた。

「ああ、今戻った……」

 優祈の方を気にしながら、鈴樹は答える。優祈は、ほんの少し笑って、また教会へ戻っていった。

「戻られて早々、申し訳ない。騎士団の配置について、ご相談が」

 クレイグは言う。

「ああ……」

 鈴樹は、教会へ戻る優祈の背中を見ていた。

「殿下?」

「ああ、新しい総騎士長のことだろう」

 鈴樹は振りかえった。聞いていないようで、さっくりと言い当てる。

「は……」

「では騎士館で。迅!君も来い」

「ああ?ああ、ハイハイ!」

 群がる第一分隊の面々を振り払い、迅はケイを抱えたまま、駆けてくる。そして、瞳真とエクトルとマリノの顔を一つずつ見回して、マリノにケイを預ける。

 ナコルとフレンとナツは、お互いの顔を見合わせて、こそこそと後についていった。

 そのあからさまな尾行を呆れ顔で見送って、瞳真はふと、エクトルを見た。

 エクトルは顔の半分に包帯を巻かれて、頭の後ろで腕を組んで立っている。包帯で、表情は見えない。

「傷は、どうなった?」

 瞳真が尋ねると、片方の目で瞳真を捉えると、「別にどうも」と、つまらなそうに言った。

「……お前らは、いいのか?」

 いつも通りのエクトルの反応に、ため息をついて瞳真がまた尋ねる。

「いいのかって?」マリノが問い返す。

「尾行」

「ああ……」

 エクトルは、ため息をついて、教会の方へ歩いていった。

「神官さんの姿が見えたから、気になったんですよ」

 マリノが言う。ジーネ村での喧嘩の後も、何の気なしにエクトルのフォローに入るマリノを、瞳真は憐れむように見る。

「それに、正直、察しはついてますから……」

 伏し目がちに、マリノは言った。

 その、どこか吹っ切れたような顔に、一つため息をついて、瞳真は空を仰ぐ。

 雲一つなく、空は高く、青い。

「そうか……」

 ぽつりと、つぶやくように、瞳真は言った。




 鈴樹とクレイグと迅は、騎士館の三階奥の広間に集まった。広間の円卓には、クルトが座っていて、鈴樹たちが入ってくると、すぐに席を立ち、頭を下げた。

「怪我はいいのか?」

 鈴樹が尋ねると、クルトはそっとほほ笑んだ。

「ええ、もう、動けます」

「……そうか」

 シンから受けた傷は浅くないはずだ。それでも、じっとしていられないのだろう。

 鈴樹はそっとほほ笑んで、広間の奥の椅子に腰かける。

「さて、クレイグ。君はこのステルラの新しい領主となる。数日の内に正式に王命が下るはずだ」

「……は」

 クレイグは、少し、複雑そうな顔をした。彼の頭をよぎったものを、鈴樹は察する。しかし、敢えて口にはしなかった。

「そういうわけで、領主としての君の意見を聞こうか」

 鈴樹が言うと、クレイグは、ちらりと迅を見た。

「私は、騎士団の新しい総騎士長に、迅=ウルブリヒトをと、思っております」

「ほう」

 鈴樹はニヤリと笑って、迅を見やる。その視線に、迅は眉を寄せる。

「迅=ウルブリヒト」

 クレイグは迅と正面から向き合って、言った。

「街の者たちとわだかまりもあろうが……、だからこそ、お前に頼みたい。ステルラ王国騎士団は、また一からやり直しだ。祖父の名を背負ってではなく、お前個人として、引き受けてくれないか」

 その真剣な眼差しに、迅は困ったような顔をする。目を伏せ、口元を片手で撫ぜて、そうして、しばらくしてから顔を上げて、言った。

「すみません。おれはステルラには残らない。お姫さんを守るって、誓ってステルラを出ましたから」

 鈴樹は、腕を組んで、二人のやりとりを見守っていた。鈴樹は迅の意志を、マーンカンパーナへ向かう直前に聞いた。そのために、副官である瞳真だけでなく、迅をマーンカンパーナに連れていったのである。

 クレイグは、一つため息をついて、ほほ笑んだ。

「……そうか」

 クレイグの笑った顔を初めて見た迅は、眉を寄せ、クレイグの顔を覗き込む。

 その様子に、クレイグは咳払いをする。迅はさっと姿勢を正した。一呼吸おいてから、クレイグは言った。

「……そういう気もしていた。殿下の下で騎士として忠義を果たすというのなら、止めるわけにいくまい」

 鈴樹はまた、にんまりと笑う。

「クレイグ、私には一つ、案があるぞ」

「案?」

 クレイグが鈴樹に問いかけた瞬間、広間の扉が勢いよく開いた。

「そんなのダメっス!」

「あー!バカバカバカナツ!」

「盗み聞きがバレる!……あ」

 広間にいた四人の冷たい目線が、ナコルとフレン、ナツに注がれる。

 迅は呆れ顔で言った。

「バレてんだよ!アホかお前ら!」

「……ですよね」

 うなだれるナコルとフレンの前で、ナツは口を結んでいる。

「コラ、ナツ!」

 迅が言うと、ナツは顔を上げて、迅を睨んだ。涙目だった。

「アホは隊長っス!」

 涙目と、発言の内容に迅は目を丸くする。ナツは続けて叫ぶ。

「おれ、おれは、隊長が戻ってくると思って、だから、頑張って……!」

 そう言いながら、ナツの目にはじわじわと涙がこみ上げてくる。

「お前、アホって、つうか、だからって、泣くこと」

「アホは、アホは隊長っスー!」

 迅の言葉を遮って、ナツは叫んで、駆けだした。

「ああっ、ナッちゃん待て!」

「どこ行くんだナツー!」

 後を追って、ナコルとフレンも去っていった。

 遠くなる足音を聞きながら、迅は呆然とするが、我に返って叫ぶ。

「アホはあいつらだろ!」

「追いかけなくていいんですか?」

 おずおずと、クルトが尋ねる。

「ああ!?知らねーよ!」

「戯けめ」

 怒鳴る迅に、鈴樹は頬杖をついて呆れ顔で言う。

「はい!?」

「不言実行は君の美徳かもしれんがな。言わずとも理解が得られると思うのは怠慢だ。私の下にただのケダモノはいらん。言葉を覚えて出直すがいい」

「ケダ……っ」

 迅は言い返そうとするが、口喧嘩ではどう考えても分が悪い。ため息をつき、頭をガリガリと掻いて、広間をトボトボと出ていった。

「……それで、案というのは?」

 丸まった迅の背中を見送ってから、クレイグが言った。

 鈴樹はニヤニヤと笑いながら席を立つ。

「うむ、いや……。ついてくるがいい。さてどんな顔をするか……」

 楽しげに広間を出ていく鈴樹に、クレイグはクルトを見やる。クルトは、諦めたように首を振った。




 教会には、エクトルとマリノとケイが尋ねてきていた。

 優祈はベンチに腰かけて、まだ涙の止まらないケイをなだめている。

「神官さん、体はもうなんともないの?」マリノが尋ねる。

「はい、寝過ぎて体が重いですけど、もうすっかり」

「びっくりしたんだぜ?その前から顔が土気色だったけどさ、またいきなりぶっ倒れるから」

 エクトルが言う。

「すみません……」

「なあ、マリノ?」

 笑顔で話しかけるエクトルに、マリノは顔を見ようともしない。

「お前、しつっけー……」

 エクトルが怒鳴りかけた瞬間、礼拝堂の扉が音を立てて開き、ナツが泣きながら飛び込んできた。

「隊長の、ドアホー!」

 そう叫ぶと、ナツはそのままマリノにしがみつく。

「……おい離せ、気持ち悪い」

「お前、いつになく冷てえな……」

「隊長が、隊長が……っ」

 ナツは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、マリノを見上げる。

 ナツの全力疾走に付き合ったナコルとフレンが、ふらふらと教会に入ってきた。

「くそ、足だけは速い……!」

「ナツの、ナツのくせに……!」

 そんなことを言いながら、やはり何か腑に落ちない様子の二人に、マリノはため息をつく。

「迅さん、出ていくって言うんだろ。仕方ないだろうが。泣くなそんなことで」

「そんなことじゃないッス!何でそんなこと言うんスか!?」

「まあ、何となくそんな気はしてたしなあ」

「だったら止めてくださいよ!」

 エクトルの言葉に、ナツは食ってかかる。エクトルはぐるりと首を回して、一つしかなくなった目をナツに向ける。その動作に、ナツはほんの少しひるんだ。

「止める理由がどこにあんだよ?」

 エクトルは問う。

 ナツは、しどろもどろになりながら言う。

「……だって、だって、おれ、隊長が戻ってきたら、また元通りになると思って……!」

「元通りになんかならねえよ」

 マリノが言う。ナツはマリノの顔を見上げる。

 普段は一番優しいマリノが、今日は一番厳しい。

「何で……」

 ナツの目に、また涙がこみ上げる。マリノは、厳しい顔で、言った。

「迅さんとシンさんが、あんなふうに戦ったのに、戦いが終わって、これで元通り、なんて、おれは言えない」

 その言葉に、ケイも顔を上げる。

「元のままじゃあ、ダメだったんだろ。だから戦わなきゃならなかったんだ。それがわからなかったなら、お前にはそもそも口を出す権利すらねえよ」

 エクトルは、マリノを見る。三年前のマリノを思い出す。「ごめん」と言ったきり、もう何も言わなかった。三年後の、今になるまで。

 エクトルは口を結ぶ。今度は自分が黙る番かと、そう思った。

「……ナツ」

 背後からの声に、ナツはびくりと反応する。

 迅が、瞳真と一緒に礼拝堂の入口に立っていた。

 ナツは振りかえれない。

「あのな……」

 頭をガリガリと掻いて、迅は話そうとするが、口を開いたまま、すぐに言葉に詰まる。

 振りかえって瞳真を見るが、瞳真は冷ややかな目を向けるだけで、助け舟を出してはくれない。

「あ~~~……の、な……」

 困り果てて、迅は天井を見上げる。教会の天窓から、金色の光が降り注いでいる。

 光は、天窓から降りてくるに従って、薄闇に紛れて消えていく。それを目で追って、やがて、迅は言った。

「……なんで帰ってきたんだって、言ったんだよ……、あいつ、シンが……」

 ――「お前は生かせない」……。

 いつからそう、思っていたのかと尋ねたとき、シンはぽつりと、そう言った。

 そこに、鈴樹とクレイグが、遅れてやってきた。

 迅は一つ一つ、思い出すように、くうを見つめる。

 その横顔に、鈴樹はそっと笑う。

「意味を考えて、それで、思ったんだ。あいつ、おれの命なんかどうでもいいって言ってたけど、おれがステルラを出ていったまま、戻らなくて、おれのいないところで、自分だけ反逆者になって終わるのが、一番だと思ってたんじゃないかって……」

 他のどの言葉よりも、意味のわからない、そのたった一つの言葉だけが、真実であるように迅には思えた。斬られた傷が、じわりと痛んだ。

「でも、おれは……、帰ってよかった……」

 ――とても、耐えられないと思った。受けた傷よりも、「生かせない」の言葉よりも、自分の知らないところで、シンが反逆者として、ステルラが抱え続けた悲劇と共に、いなくなったとしたら……。

「おれはずっと、ステルラで生きるつもりだった。英雄の街だの、騎士の街だの、そんなことじゃねえんだ。ただ、爺さんが生きた街だ。だからここで。ずっと、ここで……」

 迅は、唇を噛んだ。

 瞳真がいなくなった日、空っぽの部屋で、赤い石の小さな指輪を拾った日。

 生まれて初めての強い喪失感を、迅は味わった。

 ――このまま、どんどんと、失くしていくんじゃないか……。

 そんな不安が、押し寄せて、奥歯を噛みしめていなければ、溢れそうだった。

 だから、ふと現れたシンに、言いかけた。




 ――お前は、どこかに行ったりしないよな……?

 



 ――シン……。

 ――あのとき、おれがなにを言おうとしたのか、お前はわかってたんじゃないのか……?




 シンは、どこにも行かなかった。

 瞳真がいなくなっても、リヒャルトが死んでも、ステルラに留まった。

 ――なぜ?

 その答えは、迅にはわからない。

 ただ、ルドビルからの三年は、何かが偽りだったのだ。その日々すら、必要で、意味のあるものだとしても。

「おれはシンみたいにものを考えられねえから、あいつが何考えてたのかは結局わからないんだけどな。でも、おれは帰ってよかったんだ。ステルラに帰って、シンと戦わなきゃならなかったんだよ。望んでなかった。戦いたくなんかなかったんだ。でもそれが、おれがステルラでする、最後の仕事だ。そんな気がしたんだよ……」

 あの戦いが、英雄に溺れ、悲劇に老いたステルラの終わりだったのだ。

 そして、ステルラは新しい街になる。英雄にも、悲劇にも縛られない、新しい街に。

「ナツ!」

 マリノにしがみついたままのナツを、迅はもう一度呼ぶ。

 ナツは、ぐしゃぐしゃに顔をしかめて、ようやく振りかえった。

 その顔に、迅は笑った。

「ここはおれの故郷だ!この街を愛してる!爺さんが生きた街!お前らがいる街!帰ってくるのはいつだってここなんだよ!」

 ナツは、鼻をすすり、涙を袖でごしごしと拭う。

 そして、立ち上がり、口を一文字に結び、眉間に皺を寄せて迅と正面から向き合った。

 迅は、困ったように、優しく笑う。

「……聞き分けろよ」

 ナツは、少しだけ、目を伏せる。

「……はい……」

 か細い声で、返事をして、ナツはまた顔を拭う。それに両側から、ナコルとフレンが加勢する。

 両側から乱暴に顔を拭われて暴れるナツと、それを押さえつけながら、うっすらと目を潤ませるナコルとフレンに、マリノは、ため息をついた。

 その瞬間、暴れるナツの肩越しに、迅がマリノを見ていることに気が付いた。

 迅は、どこまでわかっているのか、申し訳なさそうに、ほほ笑んだ。

「――さて」

 迅を押しのけて、鈴樹が扉の前に立つ。

「話がまとまったところで、新しい総騎士長についてだが」

 その場にいた一人を除く全員が、鈴樹を見る。しかし、鈴樹の目線は、ただ一人の後頭部に向けられていた。やがて、その目線に気付いた面々が、その一人に目を向ける。

 誰が総騎士長になろうが特に興味がないと言わんばかりに、盛大にあくびをしていたエクトルは、不審な目線の集中に口を閉じることも半端に、恐る恐る振りかえった。

 目が合うと、鈴樹はにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「……はい?」

「迅の代わりに、というなら君ほど適任はいまい」

「ああ……」

「まあ、そっスね」

「まあ、別にいんじゃないの」

「うん、割と、どうでも」

 いい加減な肯定を口にする面々に、エクトルは立ち上がり、ベンチの背に足をかけて反論する。

「いいわけねえだろ!なんでおれが!」

 鈴樹は艶然と笑む。

「君のような身勝手な男は、少々身を重くしたほうがいい仕事をするだろう。せいぜい励めよ?」

「ばっ……」

 「バカじゃないのか」と言いかけて、さすがに口が過ぎると口をつぐむ。その隙に、鈴樹はひらひらと手を振って、去っていってしまった。

 それについて、クレイグと瞳真と迅も去っていく。

 残されたのは、関係がないので黙っている優祈と、考えごとをしているようで黙っているケイと、先ほどいい加減な肯定を口にした面々と、マリノだけだ。

 エクトルは、マリノを見る。

「……無理だろ?」

 マリノは、冷たくエクトルを見返す。そして、笑った。

「頑張れよ?エクトル総騎士長」


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