第十四話
正午を告げる鐘の音が、マーンカンパーナの街に鳴り響く。
その音を遠くに聞きながら、鈴樹は王城の廊下を歩いていた。
その後ろに、瞳真と、迅が続く。
王家の紋が縫われた旗が掲げられた長い廊下の先に、白い、大きな扉がある。扉の両側に立つのは、親衛隊<ジェネスペルビア>の騎士たちだ。鈴樹の姿を見、その背後にいる瞳真の顔を一瞥して、二人は深く頭を下げる。
「君たちはここで待て」
鈴樹は言う。
瞳真と迅は、胸元に拳を当て、礼をする。
白い扉の前で、鈴樹は目を閉じる。そして、ゆっくりと目を開き、両手で扉を押す。
遮るもののない日の光に、一瞬目がくらむ。
そこは王の間だ。
マーンカンパーナで最も高いところにある王城、そのさらに最上階に位置するその部屋には、天井へと高く伸びる白い柱が並ぶ以外に、左右に壁がない。一歩足を踏み入れ、扉が閉まると、そこは、他の空間から遮断されて、空にぽっかりと浮かんでいるかのようだった。
中心に、真っ直ぐと伸びる赤い絨毯の先に、ベジェトコルの王、院侯=ウェルグローリアは、うなだれるように座っていた。
鈴樹は、足を踏み出す。足音が反響する。院侯はゆっくりと、顔を上げた。
玉座へと続く階段の手前で、鈴樹は片膝をつき、目を閉じて、礼をした。
「報告に参りました。……国王陛下」
院侯は、黙っている。
鈴樹はゆっくりと目を開け、顔を上げる。自分と同じ、蒼碧の瞳。それは、じっと鈴樹を見下ろしている。
静かな、低い声で、院侯は言った。
「報告書は読んだ」
「……は」
「英雄の伝説、騎士の栄華、リヒャルト=ウルブリヒト……。幻想にすがり続けた愚か者の目が、街が燃え、英雄を失うことで覚めると思うのか」
表情を変えない、冷徹な王の目を、鈴樹はまっすぐ見上げ、ほほ笑んだ。
「さてどうか……、それは私にはわかりません。なにしろ、これからのことですから」
「……新しいステルラの領主に、クレイグ=メルウィルを推薦する理由はなんだ?」
クレイグは、あの夜の翌日に意識を取り戻し、今はもう、政務に復帰している。クレイグにステルラを任せ、鈴樹はマーンカンパーナへとやって来たのだった。
「もう一度、ステルラを作りあげていくのです。誰よりも、ステルラを思う者でなければ」
晴れやかな鈴樹の声に、院侯はゆっくりと立ち上がる。
「思う、か……」
一歩、また一歩と、院侯は静かに歩を進める。階段の中ごろで立ち止まると、言った。
「総騎士長ダミア=ガルシア、および迅=ウルブリヒトの処刑に積極的に関わったとされる者は皆、ベジェトコルからの永久追放とした」
鈴樹は目を見開く。即座に反応が追い付かず、しばらく間を置いてから、返事をした。
「……は」
「罰が軽すぎると思うか?」
「いいえ、陛下の温情に、感謝申し上げます」
「私に温情などない」
院侯は、空を見ている。玉座の上では、小さく切り取ったような空は、ほんの少し足を進めれば、白い柱の間から、どこまでも遠く見えた。
空が、日ごとに色を変える季節は終わり、今はただ、青々と広く、澄んでいる。
「ウーゴ=マラキアメールが、自らの身と引き換えに、減刑を請うた。ウーゴは、生涯、北の果て、アブディエスに幽閉される」
鈴樹はまた、反応することができなかった。
両手で顔を覆い、泣くウーゴの姿……。
「その決断が、ステルラへ懸けたあの男の思いと、お前は言うのか?」
「……は……、……」
鈴樹は考える。それは、ウーゴがステルラの領主として、初めて、そして最後に決断したことであるように思えた。この上、ダミアや騎士団を率いた者たちが処刑されることになれば、ステルラの悲劇は、さらに尾を引くことになるだろう。
その決断を、ウーゴが下した理由……。それは、わかるような気もするし、考えるほど、まったくわからないという気もする。
「覚悟ではないのか、鈴樹=ウェルグローリア。思うばかりでは、心は鈍る。私の心が今、鈍っているように」
鈴樹は眉を寄せる。
最愛の妻と、息子を反逆者として罰しなければならなかった、その内で、父の心を焼いた痛みは、彼女自身のものでもあった。それは、思うほどに、強く……。
「ステルラは、悲劇から脱却できないこの国の縮図だ。幼い夢にしがみついたまま、ベジェトコルの王にはなれぬ。覚悟を決め、切り捨てよ……!」
王の間に吹きこんだ木の葉が、這うような微かな風に舞う。鈴樹を見下ろす蒼碧の目が、言った。
「そして新たな王となれ、鈴樹=ウェルグローリア!」
鈴樹は初めて、父から目を逸らした。うつむき、固く目を閉じて、拳を握り、震える唇を、かみしめた。
――やがて父が穏やかに老い、王位を退いたら、新しく王となる兄の側で、王と支える忠臣となる――。
兄がウェクシルムの領主となり、王城を去るとき、その指先に口づけて、約束をした。
薄緑の、小さな葉が、床に置かれた鈴樹の指先に、そっと触れた。鈴樹は、ゆっくりと、目を開ける。
目の奥にこみあげる熱をこらえ、鈴樹は顔を上げた。
「いいえ……、父上」
声は、震える。
抱き続けた夢が叶わないことは、もうわかっている。
それは、彼女の知らぬ間に、知らぬ場所で、終わりを迎えていた。
――「終わりじゃないよ」
白い柱の間を、風が吹き抜ける。
金色の目の神官が、そう言った。その言葉に、手を伸ばさずにいられなかった。伸ばした手は、強く、強く、握り返された。
――ああ……。
鈴樹は唇を噛む。
忘れなければ、終わらないのだ。
忘れられないから、終わりを迎えられないのと、同じように……。
「私は捨てません。忘れることも、……しない」
鈴樹は言った。老いとともに、色を失くした白髪交じりの髪が、風になびく。その間からのぞく、憐れむような目。
愛する者を、その罪のゆえに、断ち切れなかった、父自身に向けられるような、憐れみの目。
ステルラは、ベジェトコルの縮図――、同じことを、彼女も思った。
青ざめた、シンの顔を、思い出す。
怒り、嘆き、叫んでも、終わらない。それを悲劇と、シンは言った。
「……仰ることは、わかります。思いだけでは、どうにもならない……!」
それでも、彼は終わらせようとしたのだ。
忘れることなどできなかっただろう。
それゆえに、幸福な終幕など、望むべくもないと、わかっていても……。
でも、怒りのままに、嘆きのままに、ただそれだけで?
ただ憎しみに、突き動かされて……?
「悲劇を終わらせる方法など、私にもわかりません。ただ、ステルラで起きたことは、確かに一つの悲劇の終焉だった。正しいとは思えない……。納得することも、できません。でも、終わらせるために、苦しみを背負った者を、決して忘れはしない」
街の人々は、決して忘れはしないだろう。英雄の孫に手向けた白い花、その苦い、悔恨を。
騎士たちは、決して忘れないだろう。命を削り合うようにして戦った二人の騎士の、熱を。
起こったことを、忘れることなどできないのだ。それを目にした者は誰でも。
忘れられない苦しみを、忘れる者が救い上げられるはずなど、ないのだ。
――だから……。
「私は忘れません。何も、捨てられない!それ以外に、私の王はない……!」
院侯は、またゆっくりと、足を進める。一つ一つ、階段を下り、やがて、鈴樹の前に立った。そして、鈴樹の前に膝をつき、目線を合わせて、手を伸ばし、頬に、そっと触れた。
鈴樹は戸惑いながら、院侯の顔を見つめた。そうして間近に顔を見るのも、触れられるのも、数年ぶりのことだった。
「……父上」
不意に、院侯の顔が、苦渋に歪む。そして、消え入りそうな声で、言った。
「……許せ、私を、兄を――」
鈴樹は、眉を寄せ、目を見開く。
この声も、言葉も、決して忘れはしない。
鈴樹はそっと父の手を取り、しっかりと、握った。
一時間ほどで、鈴樹は王の間を出てきた。
外で待っていた瞳真と迅に、
「ステルラへ戻る」
とさっぱりと言うと、二人が返事をする前にさっさと歩いていった。
二人は顔を見合わせ、鈴樹の後を追う。
長い廊下を戻り、階段を下りると、中庭に出る。中庭を横切ると、蔦に覆われた柱の影に、人影があった。
菫色の目をした神官服を着た青年は、鈴樹の姿を見ると、深く、礼をした。
鈴樹は立ち止まり、青年の方に向き直し、礼を返す。青年は、そっと笑んで、ゆっくりと、歩いていった。
名を、華月といった。
シンの胸に現れた焼け跡を見てもらうために、コルファスから呼び寄せたのだ。
――日を、数日、遡る。
意識は戻らないまま、シンは王城の北の塔の一室に運び込まれた。
薄暗い石造りの塔は、窓には格子が取り付けられ、扉は重い鉄で出来ている。
華月は、シンの胸の跡を見て、わずかに顔を歪め、こぼすように言った。
「怒れる神……雷帝トルトニスの御印……」
「これがなんなのか、知っておられるか。華月殿」
鈴樹が問う。華月は、跡に直接触れることはなく、そっと掌をかざし、しばらくしてその掌を返し、じっと見つめた。
「……かつて、似たものを見たことならあります」
「似たもの?」
華月は、長い袖の中に手を入れて、青白いシンの顔を見て、ゆっくりと、話し出した。
「神官であっても、全ての者が神輝石を使えるわけではありません。今はもう、禁忌とされるものですが……、かつて、神輝の力を扱う素質のない者に対して、用いられる術があった」
「術?」
「コンルーメンの神殿……、その地下からくみ上げた水に、神輝石をひと月の間浸し、それをまたひと月、飲みつづけるのです。そうすると、神輝の力を自在に扱うことができるようになる……」
「……禁忌となった、理由は?」迅が問う。
華月は、迅の顔をゆっくりと見やる。菫色の目は、奇妙な光でもって、見る者を見透かすように思えて、迅はひるんだ。
「術を行った者は皆、早くに亡くなった。そして、その胸には、まるで過ぎた力を手にしようとした罰の印のように、神の御印が、焼印となって現れたのですよ……」
迅は息を呑む。
「……シンの父が、コンルーメンの宗教家だったとは聞いていますが……」
瞳真が言うと、華月はゆっくりと瞳真を見る。
「神輝の力は、本来人には過ぎた力。体に取り込めば、やがてそれは毒になる。コンルーメンの宗教家であれば、知っていたはずです。それゆえに、禁忌を侵してはならないことも。ただ、どういう経緯でか、彼は神輝の力を体に取り込んだ。そしてその力に、呑まれてしまったのでしょう」
「神輝の力……」
瞳真が、その意味を反芻するように繰り返す。
「……優祈は、彼に、何を?」
鈴樹が問う。華月は、目を伏せている。色素の薄い睫毛の下で、菫色の目が、神輝石に宿る光のように、ゆらり、と揺れる。鈴樹はふと、その奇妙な揺らめきが、片方の目にしか現れないことに気が付いた。
「ルニスピアの神輝石を持っていたのでは?」
華月は言った。話していないことを言い当てられて、鈴樹は戸惑う。
「ああ……。スタウィアノクトの城主に代々伝わるルニスピアの神輝石を、優祈に預けていたが……」
「ルニスピアの教義は『死と再生』……。『再生』とは、物理的な死からの甦りを意味するものではありません。死んだものは還らない。それはいわば、流転する力を意味するもの。優祈は彼の内で毒となった神輝の力を流転させ、新しい状態に戻したのでしょう。それも、およそ並はずれたことではあるが、優祈ならばできたでしょうからね……」
鈴樹は、シンが言ったことを思い出した。
――「君、そんなことまでできるのか。神官といっても、少々行き過ぎてやしないか」
優祈がルニスピアの神輝石を北の洞窟の魔物にかざしたとき、青銀の光を揺らめかせ、神代の魔物たちは息絶えた……。
「華月殿、尋ねても構わないか」
鈴樹が言うと、華月は目を伏せたまま、ゆったりと笑んだ。
「どうぞ……」
「神代の魔物は皆、神輝の力によって命を与えられていると聞く。それならば、その命を奪うのも……」
「それもまた、ルニスピアの神輝の力……。流転する力を、促すことが再生を意味するのであれば、止めることは死を意味する」
あの日、痛めた右手に、微かな痛みが走る。もしもあのとき、優祈が現れなければ、きっとまた、結果は違っていたはずだ。
神代の魔物に死を与える力。それは、およそ人が手にしうるものではないのだ。
「ステルラで……、その前は黒い丘の処刑場で、そして、一年前のマーンカンパーナで……、優祈はその、神輝の力を、過ぎた力を、およそ、ただならず、手にしているように見える。それはやはり、神官としても異質なのか?」
華月は、目を伏せて、ふ、と、小さく笑った。
「異質……というより、特別なのですよ。神輝の力を扱える神官は、私を含め、多くいるが……。あれほどの力を平然と扱える者などいない」
「特別……?」瞳真が繰り返す。
「それは、神輝の毒の影響を受けないということか?」
鈴樹が問うと、華月は、初めて鈴樹の顔を真っ直ぐに見た。そして、緩やかに笑む。
「全く受けないというわけではありません。ただ、何か……、自ら解毒する術を持っているというか、そういう体質、とでも言いましょうか」
「自分で解毒できるってことは、それで、シンの体も、解毒してくれたってことか?」
迅が身を乗り出して問う。
華月は、迅の顔をじっと見つめ、憐れむように、目を細めた。
「優祈は、特別なのです」
「……つまり?」瞳真が問う。
「この青年の体内から神輝の力は取り除かれてはいない。それは、やがてまた毒に転じ、命を蝕む。それはきっと、そう遠くない。削られた命は戻らない。優祈もわかっていたでしょうが、他に術はない……」
格子の間から差し込む光は、いつの間にか、朱く、色を変えていた。
震える声で、迅が問う。
「……いつまで、生きていられる……?」
「わからない。一年後かもしれないし、ひと月後かもしれない」
静かに、目を閉じて、華月は言った。迅は唇を噛んで、うつむいた。
青白い顔で、頼りなく息をするシンの顔を、瞳真は見つめた。
「もはや、刑にかけるまでもないな」
鈴樹が言った。
迅は目を見開いて、鈴樹を見る。しかし、その毅然とした横顔に、言うべきことなどなかった。
「華月殿。貴殿に預ける。目を覚ましたら、伝えてくれ」
鈴樹は、拳を握った。そして、横たわるシンに、深く、礼をした。
「どうか、穏やかに、と」
その姿に、言葉に、迅はまた唇を噛む。今度は、目の奥にこみ上げる熱を、こらえるために。
「……確かに」
華月が言うと、鈴樹は頭を上げて、踵を返した。
その後に、瞳真と迅も続く。
薄暗い部屋を出ていく背中に、華月が呼びかけた。
「スタウィアノクト公」
鈴樹が振りかえると、華月は、少し悲しげに、穏やかに笑っている。
「優祈は貴方に、伝えたいことがあるかもしれない。全てを伝えるには、言葉が追い付かないかもしれないが……、聞いてやってくれますか」
鈴樹は少し、探るような顔で華月を見たが、すぐに、
「無論だ」
と言って、部屋を後にした。
華月はうつむき、そっと笑う。